文化・ライフ

 漫画誌『モーニング』(講談社)に2011年9月から1年間連載した長編小説。ある日、会社の会議室で目覚めた主人公は、自分が3年前に自殺していたと知らされる。しかし、本人4には全く記憶がない。謎めいた設定とミステリー仕立てのストーリーを通じて、現代の生と死、幸福の意味を問う。日本は昨年、2万7766人もの人が自殺した。交通事故死者数4411人の6倍以上の数字だ。今の時代をどう生きるか。団塊ジュニア世代の作家、平野氏は「複数の自分を肯定する」というこの作品で、「生きづらい時代の処方箋」として「分人」として生きようと説く。

【ひらの・けいいちろう】 1975年愛知県生まれ。京都大学法学部卒業。98年『日蝕』でデビュー。同作が第120回芥川賞を受賞する。2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『ドーン』で第19回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。その他の著書に『葬送』『高瀬川』『滴り落ちる時計たちの波紋』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』『かたちだけの愛』などがある。近刊に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』。

【ひらの・けいいちろう】
1975年愛知県生まれ。京都大学法学部卒業。98年『日蝕』でデビュー。同作が第120回芥川賞を受賞する。2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『ドーン』で第19回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。その他の著書に『葬送』『高瀬川』『滴り落ちる時計たちの波紋』『顔のない裸体たち』『あなたが、いなかった、あなた』『かたちだけの愛』などがある。近刊に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』。

平野啓一郎氏は語る アイデンティティーを複数化して生きる

―― 近年、人は局面ごとに自分を使い分け、複数の「分人」によってひとりの人間を形成しているという独自の概念を深化させていますね。

平野 私自身もそうでしたが、自分は何なのかというところから始まって、何のために生きているのか、何をするべきなのか、どうやって人との関係を持ったらいいのかといったアイデンティティーの問題で悩み、苦しんでいる人がすごく多いのです。そこで考え付いたのは、自分のアイデンティティーを1つではなく、複数化してみてはどうかというのがここ数年の取り組みです。そこから出てきたのが「分人」という考え方です。

―― 『空白を満たしなさい』で一番訴え掛けたかったのは。

平野 人がどうやって生きていくべきかと考えた時、今までよく言われていた根性論や自己啓発的なものでは解決しない人のほうが多いと思うし、私自身もそうでした。そこでより具体的に考えたかったということが1つ。もう1つは、自分がこの世に存在しているということはどういうことなのかを根本から考え直す、小説を通じてそれを体験し直して、生きているということの実感に触れてほしい。そして最後は死というものをどういうふうに受け入れるか、現代の死生観を更新しようという意図がありました。

―― 主人公が3年前に自殺しているという設定からしてユニークですね。

平野 私が1歳半の時、父が心臓まひのため36歳で亡くなりました。一昨年、自分も36歳になりましたが、以前から何となく父の年を超えられないのではないかと思っていたので、いざそうなったからには自分なりに今生きているということをどう考えるのかを書きたいと思いました。そんな時に東日本大震災が起き、たくさんの方が命を失いました。亡くなった人たちについて考えていた時、一番強い思いを書かなくてはいけないと思いました。生きている人が死者に対して思うもので何が一番強いかというと、もう一度会いたいとか、もう一度話がしたい、もう一度抱擁したいといったようなことではないか。そこで死者が生き返るという設定にしたのです。実際に生き返ってきた時にどうなるか、そしてなぜそんなふうに思いつめてしまうのか、何が絶望感の根底にあるのかを考えました。私自身も子どもを持ち、父親として生と死をもう一度考え直すきっかけにもなりました。

自分の嫌な部分を切り離し満足する「分人」を生きる

―― 自殺者は、本当は自殺したかったわけではないのではないかということをおっしゃっていますが。

平野 私は前々から、自殺した人が本当に明確な意思の元に命を絶ったのかなという疑問がありました。一時的にちょっとわけが分からない状態で自殺してしまったという人もいるのではないでしょうか。

―― この作品を書くにあたり、自殺対策のNPOなどに取材し、リストカット経験者や自殺を考えた人に話を聞かれたそうですね。

平野 ええ。『決壊』という小説を書いた頃から、NPOの方からいろいろ話を聞いたり、会の活動の中で講演に行ってお話ししたりしてきました。私の友人も何人か自殺しているので、そういう実体験と取材の両方を見ていて、やはり死にたいというのとはちょっと違うのではないかという疑問はありました。死にたいというより、楽になりたいとか、休みたい、嫌な自分を消してしまいたいということだったのではないか。

―― そこで分人という考え方を提示しようと。

平野 あのときの自分は嫌で部分否定したいところはあるけど、他の自分は満足できるところもあるというような。一部分を否定すればいいのに、全体を否定するから自殺に至ってしまうのではないでしょうか。だからそこの部分の問題を整理するだけで、随分自分に対する考え方も変わってくるのではないかと思います。

―― 人間の生死は関心が高いテーマだったのですか。

平野 私は自殺しようと思ったことはありませんが、思い出したくない過去、消してしまいたいことはあります。いじめを受けている人も、家族との関係はうまくいっているとか、いくつかの自分があるはずです。でもいじめられている自分が分人の1つと考えずに、それこそが自分なのだと考えてしまうと、生きるのが辛くなってしまいます。学校へ行くのをやめて楽しい分人を中心にしばらく生きてみて、少したったら別の学校に行ってみるとか、自分の人生を複数のプロジェクトのようにリスクヘッジして分散投資しておいたほうがいいと思います。今のように変化が激しくて、不確定要素が多い時代は、そうした対処の仕方をしないと生き抜いていくのが難しいと思います。

20130618_016_02

平野啓一郎氏の思い 保守的なものに価値を置く日本の考え方には疑問を

―― 平野さん自身も分人的で、いくつかの顔を持っていらっしゃるようですね。

平野 私は京都に10年くらい住んでいて、今は東京にいますが、京都に行って京都の友人と話していると、そこの分人の比率が大きくなるような気がします。普段は仕事関係の分人として生きている部分が多いですが、その比率は常に変わっています。動的で変化があるということが重要だと思います。日本人とか日本社会は、いつ会ってもぶれないとか、表裏のない人、固定して保守的なもののほうが安心感があると考えますが、私はその考え方は危険だと思います。そもそも人間はたった1回しかない人生で、3倍も4倍にも生きられたほうが楽しいし、そのほうが変化に対応できるのではないでしょうか。そのためには複数の自分を抱えているほうが、人生は充実すると考えています。今日はこう言っていたのに、次の日は別のことを言うのでは、何だこいつはということにもなるでしょう。だからある種の一貫性は必要でしょうが、人は日々進化するのだと考えたほうがいいと思います。しかし、なかなか自分ひとりでは変化できないから他者が必要で、自分も相手に影響を与えながら生きている。だからこそ独善的な考え方にならずに、他の人が見ているからこそ、自分も生きていけるのだという考え方になるべきだと思います。

―― 「本当の自分」幻想は捨てたほうがいいと。

平野 私の世代は、小中学生の頃から「個性的に生きろ」と言われ続けてきました。でも一方で私の世代は就職難で、個性を生かす場を見つけにくかった時代です。その結果、自分は何者なのかとアイデンティティークライシスに陥る人も多いのだと思います。

―― 小説の構成は綿密に設計して書き進むのですか。

平野 私の場合は、ピークのイメージが重要です。どこにこの小説の読みごたえがあるのか、一番感動する場面はどこかと。よく終わり方は決めているのかと聞かれますが、それは決めていなくてもいいのです。クライマックスのシーンだけ決まっていれば、あとはどう余韻を持たせて終わるかは途中で決めてもいいと思っています。

平野啓一郎氏は語る 「『分人』の前提に立ち、特殊な解を書きたい」

―― この作品を読んで、実際に自殺を思いとどまったというような感想は。

平野 担当編集者によると、楽になったという感想が一番多いですね。実は『決壊』では、主人公がかなり絶望的で、自殺をしそうになる終わり方にしてあります。読者からは、感動したというものと同時に、どう生きていけばいいか分からなくなったという感想も寄せられていました。私の中では、自己啓発や癒しなど従来からある価値観を一度徹底的に壊し、その上で新しい考え方を構築するプロセスが必要でした。それが『空白を持たしなさい』で、私なりの答えを出したつもりです。それが読者に届いたのは良かったと思っています。

―― 次回作は既にイメージされているのでしょうか。

平野 分人という考え方は、私にとってサルが四足歩行から二足歩行になって人間になった、みたいな、後戻りできない決定的な変化のような気がしています。人間は複数の時間を抱えている、という人間観はしばらく変わらないと思います。『空白を満たしなさい』の主人公は、自殺はしていますが、ある意味で現代の若者の典型的な姿を示したつもりです。ただ『ドーン』や『空白を満たしなさい』のように分人について具体的に説明する場面はもう書かなくていいかなと。次は、それを前提として、特殊な解というか、一般的には勧められないが、すごく変な生き方をしている人をしばらくは描いてみたいと思っています。

(聞き手/本誌・榎本正義)

 

20130618_016_03『空白を満たしなさい』

著者■平野啓一郎 

定価■1,680円 

発行■講談社

 

ある日、勤務先の会社の会議室で目覚めた土屋徹生は、自分が3年前に死亡したことを知らされる。死因は「自殺」。しかし、愛する妻と幼い息子に恵まれ、新商品の開発に情熱を注いでいた当時の自分に自殺する理由など考えられない。実は自分は殺されたのではないか。だとすれば犯人は誰なのか、またその目的は何か。徹生の記憶から失われた自らの死の謎を追求していく中で、たどりついた真相とは何か。現代の生と死、幸福の意味を問う。『私とは何か 「個人」から「分人」へ』と併せて現代のテーマに向き合う。

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