政治・経済

 アベノミクスの終焉もそろそろ見えはじめ、自民党と公明党の関係がギクシャクし始めた今日この頃、政局における台風の目は自民党に最も近い色合いの「次世代の党」かもしれない。

 山田宏・次世代の党幹事長の系譜をたどると幕末の長州戦争で活躍した毛利藩士に行きつく。乱世での活躍の血を受け継いだ熱血漢と言えよう。

 

勝海舟がキッカケで松下政経塾へ入塾した山田宏氏

 

山田 宏

山田 宏(やまだ・ひろし)
1958年生まれ。東京都出身。京都大学法学部卒業後、松下政経塾に2期生として入塾。85年最年少27歳で東京都議に初当選。93年日本新党公認で衆議院議員に初当選。99年杉並区長に当選し3期務める。2010年日本創新党を結党し党首に就任。12年日本維新の会に参加し衆議院議員当選(2期目)。14年次世代の党結党に参加し幹事長に就任。著書に『日本よい国構想』など多数。

德川 政治家を志されたのはロッキード事件の報道をテレビでご覧になってということですが、当時は高校生ですよね。

山田 そうです。高校2年生です。

德川 東京の高校生ですか。お生まれは。

山田 八王子で生まれましたが、その後小学校4年生の時に長崎へ。父親がプリンス自動車の技術者だったのが、その後プリンスが日産と合併して、ロードマンというセールスマンをやっていました。その結果、全国を転々とすることになりまして、最初が長崎、その後が山口、それでまた東京。東京に戻って来たのが中学2年生で高校が国立高校というところです。その2年生の時にロッキード事件が大騒ぎになりまして。当時の私はちょっとませていたから、「政治にはあの程度のことはある」というくらいにしか思っていませんでした。でも国会の証人喚問の質疑応答を見ていて、足を取られないように逃げるわけですね、「秘書が」とか「妻が」とか。それを見ていて、ほとほと嫌気がさして、「なんでぴしっと言えないんだ」というのが、当時の青年時代の気持ちでした。

 一方で、NHKの大河ドラマで「勝海舟」をやっていて、松方弘樹が演じていましたが、勝という人に非常に関心を持ちました。「同じ政治家なのにこうも違うのか」ということを感じておりましたら、国立駅前の書店で勝海舟の本を見つけたんですね。それは明治になって巌本善治というジャーナリストが聞き取りをして書いたもので、非常に面白いわけですよ。僕はあれで啓発されまして、「あ、西郷は、横井小楠はそういう奴か」「高杉そんな奴か」と、すごくビビッドに、リアルに、映画のように彼らが蘇って来ました。それで「自分はこういう人物にならなくてはならない」「こういう人物を国が養成しなくてはならない」と思うようになって、結果として親は弁護士になるんだろうと思っていたら、松下政経塾に入ってしまったというわけです。

徳川家広・政治経済評論家

徳川家広・政治経済評論家

德川 高校の時点から、そういう感じですか。

山田 政治家になろうと思ったことはありません。あの頃は「地盤、鞄、看板」の「3バン」がないと政治家になれませんでしたから。それでも「こういう人物をつくらなくてはならない」という妙な使命感は高校時代からありまして、大学に入ってもそれは変わらず、そこに松下政経塾という似たようなものを松下幸之助さんがつくったんで、そこに飛びついたわけです。

德川 山田先生はもう政治家生活が長くていらっしゃいますが、実際に経験された、あるいはご覧になった政治家というのは、ロッキード事件の証人たちと勝海舟、どちらが現実でしょう。

山田 ロッキードの時の彼らの態度というのは現実ですよね。「勝海舟」のほうは本当の汚い現実というのは出て来ないわけです。ですから歴史の中で篩にかけられて、国民が見たいという形に変わっているとは思います。

 

松下幸之助翁の愛国心に感動

 

德川 なるほど。それで京都大学では高坂正堯先生という国際政治のリアリズムの大家に師事されたわけですが、高坂先生から学んだことは。

山田 宏山田 高坂先生から学んだことは、政治とかではなくて、全部歴史。歴史を勉強しないと政治も何も分からんということで、しかも日本には良い歴史書がないということも分かっていて、高坂先生のゼミでは歴史の本、特に『十八史略』や『史記』、それからツキジデスの書いた『ペロポネソス戦争』、戦史ですね。とにかく歴史の本を時間のある時は徹底的に読め、ということでした。日本には良い歴史書がないと思います。平和な島国だから厳しいことがないので、そういう本ができにくいですね。『太平記』くらいでしょうか。

德川 松下政経塾には、大学を出られてすぐに入ったのですか。

山田 そうです。そういう塾をつくろうって自分で思っていたくらいですから、先を越されたという気持ちですよ。松下幸之助という人は、関東の人間だからよく知らなかったんです。知らなかったけれど塾をつくったということで、貪るようにこの人がどんな人か読んでいたら、すごく共鳴できるわけですよね。「よしっ!」と思って飛び込んでいったわけです。でも政治家になるというつもりはなかったし、なれるとも思っていなかったんです。松下さんに3次面接で会った時も「何になるの」という質問に対しては「私はこういう学校をつくりたい。これを広めたい」ということを言ったら「君は政治家にならないのか」と言われたので「自分は3バンもないし、そういう所には位置していない。だから自分はこういうことをやりたい」と言いました。そうしたら「君、ここに仮に運良く入れたらなあ、この塾に運命があれば君は政治家になれるよ」と、こういう調子なんですよ。頓知みたいな話で「そういうものか」と思って帰って来ました。

対談の様子德川 塾では、座学の部分というのは歴史重視でしたか、理論重視でしたか。

山田 大した座学はなかったです。入って来る奴は、僕らも含めて受験の中で生き抜いてきた人間なんで、教わったことを短時間で覚えて、それをうまくまとめて書くという技術には長けていても、自分たちで何かを創造するのは不得手な人間たちでした。幸之助さんは創造することの大家でしたから、「君ら、ここへ入ったら自分で考えて自分でやれ」という調子です。中に入っていわゆるまともな座学はあまりなかったんです。

德川 なるほど。

山田 いろんなことはやりましたよ。中央の官僚が来て話したり、有名な学者さんが来て話したり、有名な経営者、土光敏夫さんたちが来て話したり。そういう方たちのお話をうかがう機会には恵まれました。それぞれに学ぶものはありましたが、体系的な歴史とか理論は、僕が入った2期生の頃はなかったですね。

德川 一番得られたものは何だったでしょうか。

山田 幸之助さんですね。僕の頃は元気でしたから。2カ月に1回くらい、1泊ないし1日かけて来られて、とことん話すわけですね。そういった時の一言ひとことが非常に勉強になりましたね。もちろん理論的な話ではありませんでしたが、物の見方、考え方、多面的に考えることを、自ら幸之助氏は示していました。特に感化を受けたのは強い愛国心でしたね。本当の意味で日本の国や日本の国民の将来を心配する、ほとばしる愛国心というのが、非常に強く伝わって来ました。「ここまでの覚悟か」ということで、そういうものを身近に感じ取れるということが、一番の感化でしたね。頭で覚えたり、理屈をこねくりまわしたり、理論を考えたりというのはあるかもしれないけれど、そういう時に考えたことは3年と持たないですね。

德川 野田佳彦さんをはじめ、今日の政界では政経塾出身者は多数活躍しておいでです。その皆さんとの交流は。

山田 定期的な交流が特にあるわけではありません。ですが野田さんにしても前原君にしても、同じ釜の飯を喰った仲ですし、前原君なんか、もともとは僕の選挙も手伝ってくれてたので政党が違ってもツーカーですよね。国の大問題があったら、電話をしたり。野田内閣の時も「ハワイに行くけれども、どこへ行くべきか」という相談がありました。「真珠湾奇襲で日本が沈めたアリゾナの記念館に総理として初めて足を運ぼうと思うんだけれど」と言われて僕は「やめろ」と言いました。当時は対中でアメリカとの同盟関係を強く打ち出していたところでしたから、それが際立って胡錦濤にやられると考えたんです。それから、「沖縄へ行くけれども、どこへ行ったらいいのか、どういうメッセージを出したらいいのか」という相談もありました。そういうのは細かく話をしています。前原君にしても同じですね。そういう意味では党や組織を越えてツーカーで電話が通じるというのは、塾の出身者の特色だと思います。

德川 塾生時代、楽しかったでしょうね。

山田 塾生時代は……苦悶でしたね。

德川 (笑)そうなんですか?

山田 だって、将来が見えないんだもの。だから、焦り、苦悶、またはトライアル・アンド・エラーでした。そういった中で塾生の4年生の時に、幸之助さんが新自由クラブの河野洋平さんを当時応援していた関係もあって、新自由クラブの都議会議員候補として僕とか松原仁君とかが立候補することになりましたが、それまでの4年間は常に自分はどの道に行くべきかを常に苦悶する日々でしたね。恐らく、塾生のほとんどはそうだったと思います。ですから職員の言うことも聞かないですし(笑)、勝手に自分の活動をしていましたから。ある面ではバラバラでしたけれども、松下幸之助さんという人はみんな当然ながら尊敬し、感化も受けたと思います。

 

没後も毎年山田宏氏のもとに届いた松下幸之助翁からの請求書

 

山田 宏

德川 松下政経塾を出られて、熊谷弘先生(当時、自民党所属の衆議院議員)のところへ行かれたんですよね。

山田 政経塾を出る前、塾生として半年間、研修をしていました。出てからは、都議会議員の選挙戦に入りましたので。義理の父が東海銀行の浜松支店長を長年務めていて、その縁です。熊谷事務所にいた6カ月間はもう、丁稚です。代議士の自動車の運転、自民党の政調のいろいろな部会に出て行って資料をもらってくるとかですね。ところが自動車の運転が下手で、よくぶつけまして、運転手はクビになりました(笑)。

德川 商店、工場、代議士事務所の駆け出しを短期間で全部経験されたんですね。

山田 まあ、数カ月ずつですけれどね。ただ、松下さんは「何年働こうがその会社が腰かけだと思っている限りは、何も身に付かない。だけど3カ月であっても、丁稚になりきる。毎日そういう気持ちでやれば、得るものは大きい」と言うわけですね。なので、一生懸命でした。

德川 どういう経緯で都議会を目指すことになったのですか。

山田 義父が当時は銀座の支店長になっていましたが、社宅は杉並にあったんです。わが実家は大津にあって、政経塾は茅ヶ崎でした。仕事は東京でしたから、家内の実家の近くということで、杉並に住んでいたわけです。そのうちに、河野洋平さんが東京から地元の平塚へ帰って来る間に茅ヶ崎に寄って、幸之助さんに「来年の都議会選挙で誰か出したい。お宅の塾生で誰か良い人を紹介してくれ」ということになって、僕と松原(仁)君が都議会選挙に出ることになりました。たまたまその時住んでいただけで、それまで縁もゆかりもない杉並からでした。

德川 でも当選されましたよね。

山田 当時の杉並区は候補者の顔触れが、いかにも古かった。ところが杉並区は進取の気性が豊かで、新しいものを比較的に受け入れやすい風土でした。それが世代交代、政党の選手交代の欲求につながったと思います。

徳川家広・政治経済評論家

徳川家広・政治経済評論家

 都議会選挙に最初に出たのは、27歳の時でした。事務所を借りて、事前運動のポスターを刷ったら、瞬く間にお金がなくなったんです。とても投票のある7月までもたない。でも、松下さんが出してくれるだろうと思っていたんですよ。ところが松下さんに何度電話を入れても、梨のつぶてでした。そのうち、あんまりうるさいと思ったのか、じゃあ1回会おうということになって、松下さんが東京の支社に来られた時に行ったんです。

 「塾長、何とかお金を工面していただけないでしょうか」と頼むと、「金は出せん」と言うんです(笑)。理由を聞くと、「君な、私が金を出したらな、松下さんがバックにいるから金はいくらでもある、彼は大丈夫だという雰囲気になる。大丈夫だと思われたら、君、落ちるやないか」と言われました。そして、「だけど君、それやったら殺生やから、1つ知恵を出してやろう。奉加帳って知っておるか。昔、町内会で寄付を集める時に、こういうことに使いますと言って帳面を持って町内会を回って、そこにみんな5円とか10円とか寄付する額を書き込んだもんや。君、それをやれや。奉加帳を作って、こういう政治をやりたいから寄付をしてくれと回るんや。お金が集まったら、最後の行にわしも名前を書いてやる、それも前の人と同じ金額や」と言われました。

 がっかりしましたよ。もちろん、奉加帳はやりません。しょうがないからお金がないまま、ラッタッタに乗って、ラグビージャージを着て、スパイクまで履いて、マイクを持って演説をするわけですよ。大人の皆さんは「どこの大学生がラグビー部の勧誘をしているんだ」と思ったそうです(笑)。でも子どもたちはポスターが珍しかったので、僕が近所の住宅地でマイクを握っていると「あ、山田宏だ!」と言って集まって来るんです(笑)。それで、子どもは家に帰って「山田宏を見たよ」と言うんですね。お陰で名前が知られるようになりました。

 それでもお金はやっぱりありません。すると、選挙直前になって松下さんから呼び出されました。そこで松下さんが「君、よう頑張っとるな。これ、寄付や」と小切手を出したんです。「えーっ!」でした。しかも、ゼロの数が多い500万円でした。でも「君な、これは貸しやで」ですよ(笑)。「利子はいらん、せやけど、元本は返せ」と。

 当選後、すっかりそのことを忘れていたら、年度末の3月15日に請求書が来て、以後毎年請求書が来て、ちゃんと50万円ずつ返済して行きました。松下さんが亡くなられた後もです。亡くなってから6年にわたって請求書が来るたびに松下さんのことを嫌でも思い出させられて、その都度、「松下さん、どう言っておられたかな」と考えますから、それはとても良いことでしたね。

 

山田宏氏の杉並区長時代

 

対談の様子德川 都議会議員を2期、その後35歳でブームの日本新党から出馬して国会議員に当選した後で、落選しておられます。

山田 38歳でしたね。これは私にとって初めての落選でした。27歳で都議会に初当選してから快進撃で国会議員まで来ていたので、特に都議会議員時代はバブル時の、派手な生活、派手な活動が染み付いてなかなか転換できない。やがて生活費まで枯渇して、車も家も全部売る羽目になります。何もなくなって「俺は何でこんなことまでして選挙活動をしなくてはならないのか」と考える日々でした。

 それでも気持ちを盛り立てて、もう一度衆議院選挙に出ようと思っていたら「ぶらぶらしているんだったら、来年の杉並区長選に出たらどうか」という話が法人会の青年部の人たちを中心に盛り上がって来ます。最初は嫌だなと思って、ずっと断っていたんですよ。ところが区長選のある年に、長年応援してくれていた年配の女性の方からお手紙を頂きました。「私は出るべきだと思います。区長になるのも国会議員になるのも日本を良くすることでは同じです。区長になって自分の地域を日本のモデルにするというのも1つの方法ではないでしょうか。日本を良くするということでは手段が違うだけ。富士山を登るのと同じで、登山口が違うだけです」と。それで国を見るのと同じ目で杉並区役所を見てみようと思って、「杉並区を日本の新しいモデルにしよう」ということだけをスローガンに立候補しました。それで当選してから、11年間ずっと、日本のモデルを杉並区で作り上げるというのが理念でした。

德川 区政を実際に動かしてみて、「これは変えなくちゃ」と一番強く思われたのは。

山田 最初に感じたのは、区役所という組織が内向きだということでしたね。区役所の職員の名札は小さくて見にくいし、サンダル履きで、電話は名乗らないんです。議会、組合、諸団体といった身内でうまくいっていればよくて、納税者や住人には、ただ規則を適用すれば良いという精神が全体的だったんですね。それで僕が多くの区民から「要望書を出したけれど、何も言ってこない」とか文句を言われたりするわけです。職員たちは、「まだ対応が決まっていないから答えられない」と言い訳しましたが、「普通は決まっていなくても、もらって3日後ぐらいには『今、こういう状況で、こうなっています』と説明をするでしょう!」と、要望をもらってから3日以内に回答するルールを決めました。それから、電話をもらったら名乗れ、と。こうしてすべて外向き、住民の声に敏感に、適切に反応する区役所に変えて行きました。

德川 それは幸之助さんの影響ですか。

山田 そうです! それまで塾で直に松下さんから言われたことを生かす機会は、議員時代ほとんどありませんでしたが、区長になってから松下さんの講義ノートを引っ張り出して「何て言っていたかな」と必死で調べます。ほとんどすべてが役に立ちました。松下さんの講義録だけで十分でした。区役所の中で相当な抵抗がいつもありましたが、「松下さんがこう言っているんだから、大丈夫」という信念を持って動くことができましたね。

德川 区長としてのレガシーを選ぶとすると、何でしょう。

山田 やはり借金をゼロに近づけたことです。増税もせず、借金を大幅に減らして、サービスを全国トップレベルにできたことです。退職者の数はそのままに、新規採用を減らすことで、4千人いた職員を10年かけて1千人以上を減らしました。その結果として、区役所でないとできない仕事が厳選され、民間委託も増えました。住民の人たちの顔もきちっと見るようになって、窓口が活性化しました。

德川 そして、創新党で国政復帰を目指されるわけです。

山田 区長の最後の1年の時に参議院選挙がありましたが、当時は民主党政権で、とんでもないと思っていました(笑)。無軌道なバラマキ財政で、これだとせっかく自治体で努力してきたのが、すべて水の泡になるということで、国を何とかまともな経営体に変えなくてはならない。それで横浜市長を務めた中田宏君と共に日本創新党を旗揚げして、国政に再度の挑戦となったわけです。創新党ではうまくいきませんでしたが、前回の総選挙で日本維新の会から出馬して、無事当選となりました。

(文=德川家広 写真=葛西 龍)

対談を終えて対談を終えて
この後、山田幹事長からは現在の政局や次世代の党の方向性についても語っていただいたが松下政経塾から杉並区長にいたる過程の密度があまりに高く、興味深かったので、国政復帰までの回想を中心にまとめた次第である。

 

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