文化・ライフ

人間ドラマを通じて描くコーポレート・ガバナンスの本質

 

 「組織と個人の関係とは一体何かということを描きたかった」

 小説『あの男の正体(ハラワタ)』の著者、牛島信氏はこう語る。企業法律小説(ビジネス・ロー・ノベル)の旗手である著者が今回、テーマに選んだのは、コーポレート・ガバナンスの問題。弁護士として多くの企業案件を手掛け、日本コーポレート・ガバナンス・ネットワーク(CGネット)の理事長も務める著者が、その本領を発揮した作品だ。

『あの男の正体(ハラワタ)』

『あの男の正体(ハラワタ)』
著者■牛島信
発行■日経BP社
定価■1,836円

 物語は、カリスマ的権威を持つ上場企業のオーナー社長である南川丈太郎、南川を「オヤジ」と呼んで慕う後継社長「あの男」、そして、その2人に秘書として仕える美しく聡明な女性、古堂房恵の3人を中心に展開される。

 サラリーマン生活のどん底を味わいながら、南川の助力によって奇跡的な復活を果たした「あの男」は、会社という組織ではなく、恩人である南川個人に忠誠を誓う。

 やがて後継社長の座に就いた「あの男」は、巨大な組織のトップとして辣腕をふるう傍ら、会社や房恵に対する南川のさまざまな想いを体現していく。

 ラストでは、ガバナンスをめぐって著者ならではの法的仕掛けも披露されるが、ストーリーの主軸をなすのはあくまでも登場人物たちの人間ドラマだ。

 着想のベースにあったのは夏目漱石の代表作『こころ』。「『こころ』のエッセンスを現代企業の話に入れ込んだ時に、法律家としてどう見えるか」。これが本作における1つのテーマだったという。

 冒頭にあるように、コーポレート・ガバナンスというものを突き詰めていくと、結局は組織と個人の関係に行きつくというのが牛島氏の考えだ。

 作中で「あの男」が、人が組織で働く意味について言及するシーンがある。組織とは同僚や社会との関係性を維持する場所であること、組織から給料を貰って生活することで自尊心を持てること──その一方で、南川という個人に忠誠を誓い、彼のために「一定の機能を果たす器」として生きる自分は一体何者であるのか悩み、葛藤する。

 そして、物語のもう1つの大きな要素が、南川の愛人でもあり、「あの男」自らも深い関係となる房恵の存在。これら複雑な心の問題が、組織の中で生きる個人とは何か、という問いを読者に突きつける。

 「人間臭い部分を打ち出すために、男女関係を盛り込んだのかと聞かれれば答えはイエスですが、それはごく一部でしかありません。そこをもうひと捻りして、組織に裏切られた男を主人公にしたのは、忠誠の対象が個人でしかあり得なくなった人間の姿をガバナンス論につなげたらどうなるかを描きたかったから。これは、僕のような立場の人間だからこそ書けると思いました」と、牛島氏は言う。

 

コーポレート・ガバナンスとは雇用のためにある

 

 それでは、理想的なコーポレート・ガバナンスとは一体どのようなものか。この問いに対して牛島氏はこう答える。

 「会社という制度は、それがあることによってたくさんのジョブがつくられるという人類の知恵。その最高の知恵である上場会社の存在意義は、究極的には雇用のためです」

牛島 信

牛島 信(うしじま・しん)
1949年生まれ。東京大学法学部卒業後、東京地検検事、広島地検検事を経て弁護士に。牛島総合法律事務所代表として、多くのM&Aやコーポレート・ガバナンス関連の案件を手掛ける。97年『株主総会』(幻冬舎)で作家デビュー。この他、『株主代表訴訟』『買収者 アクワイアラー』等、企業社会を舞台にした作品のほか、多くのエッセイ集がある。

 雇用によって、個人に対して会社が価値を認め、ひいては世の中全体がその人間の価値を認めることになる。「だから会社で働いている人間は、自分は世の中と対等だと信じることができる」。この意識を持てるかどうかが、サラリーマンにとって、自分の人生に強い自覚が持てるかどうかの違いになるという。

 人生の価値を自覚できる場が「会社」というのは、いかにも日本的かもしれない。ともあれ、それが現実である以上、多くの日本人にとって雇用を増やすためのコーポレート・ガバナンスを重要視する牛島氏の考え方は、腑に落ちることだろう。

 「雇用を守ると言っても、誰もクビにできなかったら会社はつぶれるし、それを国全体でやったらソ連になってしまう。そこに厳しさがあって、初めてできるものなんです。雇用を継続させ、うまく増やしていくメカニズムこそが、コーポレート・ガバナンスだと思っています」と、牛島氏は語る。

 実際のところ、コーポレート・ガバナンスの充実度が企業業績に関係あるかと言えば、ハッキリとした確証はない。しかし、雇用が持続可能で、できれば拡大する社会、牛島氏がそこに大きな価値を見出すのは、人間の独立心や自立心を育み、生きがいにつながっていくからだ。

 本作について「自分の小説の書き方が変わったと思っている」という牛島氏。新境地を切り開いた同氏の次回作にも期待したい。

東芝と日立の決定的な違いとは――冨山和彦×牛島信(前編)

 
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