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最大のほめ言葉は、期待をかけられたこと--中條高德(アサヒビール飲料元会長)

アサヒビール飲料元会長 中條高德氏

 年明けに訃報が届いたアサヒビールの中條高德氏。豪快な笑い声と満面の笑顔を思い出す人も少なくないはず。現役時代は営業として会社再建の陣頭に、晩年は職業軍人だった経歴から、戦争について若い世代に語り継ぐ活動を行っていた中條氏、その若かりし頃を自ら語っている。(1994・新春特大号)

山本爲三郎に惚れてアサヒビールに入社

 私がアサヒビールに入社した昭和27年という時代は、皇居の前に赤旗が立ち並んだりする、とても政情が不安定な頃でした。もし革命が起こったら、職業軍人だった過去を否定されて嫌な思いをすることになるので、政権が変わっても通じる産業は何だろうと考えました。そこで得た結論は口につながる産業でした。ビール会社はその条件にかなっている中で、たまたま就職試験が早かったんです。

中條高德

中條高德(なかじょう・たかのり)
アサヒビール飲料会長(当時)
〈1927〜2014〉長野県出身。陸軍士官学校に学ぶ。終戦後、学習院大学に進み、卒業後、アサヒビール入社。1988年副社長を経て、91年、アサヒビール飲料会長に就任。98年から名誉顧問。

 なぜ、アサヒビールを選んだかというと、昭和26年当時、ビール会社はアサヒ、サッポロ、キリンの3社でした。そのビール業界の代表と目されていたのが、山本爲三郎というアサヒビールの社長でした。その山本爲三郎に惚れて、何の躊躇をすることもなく、アサヒビールを選んだのです。

 ところが、当時は就職難の時代で、先に決まった会社に行かなくてはならないという掟がありました。私は銀行に行く気がなかったんですが、たまたま千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)も受けて、そちらのほうが先に発表だったんです。

 そこでアサヒビールの本社に乗り込んで、「今、アサヒビールが決めなければ、銀行に行っちゃいますよ。採らなければ損しますよ」と採用してくれるように掛け合ったんです。

 変わり者が来たと思ったんでしょう。中島さんという人事部長が「いいじゃないか」と採用を決めてくれました。私のアサヒビール社員としての運命がそこで決まったんです。

 アサヒの入社が決まったので、千代田銀行に断りに行ったら、「君は礼儀正しい」と誉められてシャープペンシルを貰って帰ってきました(笑)。そんなわけで私はアサヒビールに入社しました。

 私の家は軍人の家でしたから、軍人がダメなら役人になることを望まれていました。

 結果的に私はアサヒビールに入社して産業界に入ったわけですが終戦になって、職業軍人としての道が破れ、私はそこで大きな挫折を経験したわけです。いわば、一度死んだ身です。

 そこで自分が判断して、縁があってアサヒビールに入ったのだからと、入社した時に、あることを決意しました。それは自分が正しいと思ったことは、社長であろうが誰であろうが、ひるむことなく、その意見を発表しようということです。

アサヒビール改革の抜本策を考える

 ただし、私はまだ若いし、経験も少ないので、「本当にわがままではないのか、唯我独尊ではないのか、独りよがりではないのか」と自分の胸を三度叩いて、本当にアサヒビールのためになるのなら、相手が社長であろうとも、もの怖じせず、もの申すということを自分に言い聞かせました。その心情はいまだに変わっていません。

中條氏が惚れた山本爲三郎・朝日麦酒社長

中條氏が惚れた山本爲三郎・朝日麦酒社長

 私は超ウルトラマンの山本爲三郎に惚れて、アサヒビールに入ったんですが、その山本社長から昭和37年、アサヒビール改革の抜本策をつくれと言われました。当時はキリンが強くなり、アサヒはじり貧になる一方でした。私もいろいろと考えて、全盛を誇っていたキリンの「ラガー」に対抗して、39年に瓶詰の「生」を発表しました。

 誰もが山本社長には何も言えなかったのに、10年生の私に抜本策をつくらせたのですから、期待をかけることが最大のほめ言葉だということを山本爲三郎から教わりました。私の駆け出し時代の生き様がその出来事に集約されています。

(構成/本誌・古賀寛明)

 

 

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