政治・経済

タリーズコーヒーの源流はアメリカ西海岸のシアトルだが、今日の規模まで大きくなったのは、ひとえに松田公太氏の功績である。そんな現代の起業家である参議院議員の松田氏は、みんなの党の看板政治家の1人でもあった。みんなの党が崩壊した後も、「日本を元気にする会」を立ち上げ、先の統一地方選でも健闘している。この政治ベンチャーの未来を占うために、松田氏にその生い立ちから語ってもらった。

 

日本を元気にする会代表 松田公太氏が、起業家から政治家へ転身した理由とは

 

(まつだ・こうた)1968年宮城県生まれ、東京都出身。父親の転勤で幼少期をアフリカと米国で過ごす。筑波大学卒業後三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。98年タリーズコーヒージャパン設立。代表取締役社長に就任。2010年参議院選挙にみんなの党公認で東京都選挙区より出馬・初当選。筆頭副幹事長、参院国会対策委員長を歴任。14年みんなの党解党後無所属に。15年政党「日本を元気にする会」を結党。代表に就任。著書に『すべては一杯のコーヒーから』(新潮社刊)など。

(まつだ・こうた)1968年宮城県生まれ、東京都出身。父親の転勤で幼少期をアフリカと米国で過ごす。筑波大学卒業後三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。98年タリーズコーヒージャパン設立。代表取締役社長に就任。2010年参議院選挙にみんなの党公認で東京都選挙区より出馬・初当選。筆頭副幹事長、参院国会対策委員長を歴任。14年みんなの党解党後無所属に。15年政党「日本を元気にする会」を結党。代表に就任。著書に『すべては一杯のコーヒーから』(新潮社刊)など。

德川 私は常々、「政治家というのは周りが止めるのを聞かなかった人だ」と言って、政界関係者から嫌な顔をされるのですが、松田さんの場合は止められませんでしたか。

松田 止められました。そもそも私自身が政治家になろうなんて、本当に思っていませんでした。ただ、幼少の頃からずっと海外で生活してきたので、何か日本のためにやりたいという気持ちは常にありました。50歳になったらビジネス関係はすべてストップして、その時に何かしら築けているものがあれば、それを基盤にボランティアとかチャリティーをやりたいと思っていたんです。でも、まさか政治という世界だとは。

 きっかけは浅尾慶一郎さんから声を掛けていただいたことでした。浅尾さんとの出会いは、ダボス会議。私はタリーズコーヒーの創業経営者として2007年にヤング・グローバル・リーダーズに選ばれたのですが、その時に2年前に民主党の若手ホープとして選出されていた浅尾さんがOBとして来ていたのです。それ以降交流があったのですが、ある日突然、出馬を要請されたのです。だから驚いて、「私は政治の世界を全く知りませんし、ご迷惑をおかけすることになると思いますので、ほかを当たられてください」と最初はお断りしました。ですが、浅尾さんのアプローチは非常に積極的で。最終的には、みんなの党という政党が「今までなかった政党」だったこと、政策的にも常々私が考えていたことと近かったことから、決意させていただきました。決意をした後で友人や家族に相談したら、ほぼ全員に反対されました(笑)。

 みんなの党は政策のもとに集まった、ベンチャー政党だったのです。私が決断した当時は、6人しか国会議員がいませんでした。渡辺喜美さん、江田憲司さん、浅尾慶一郎さん、山内康一さん、柿沢未途さんと川田龍平さんだけだったんです。そこに飛び込んで、仲間入りすることに魅力を感じたのです。

 

日本を元気にする会代表 松田公太氏の少年時代とは

 

德川家広氏(政治評論家)

德川家広氏(政治評論家)

德川 海外経験が長いということですが、お生まれは?

松田 日本です。母の故郷の宮城県塩釜市で生まれました。里帰りして出産することが多かった時代だったんですね。その頃塩釜は日本でのマグロ水揚げナンバーワンの漁港だったそうで、父も母も漁業関係の仕事をしていて工場で出会ったということです。その後すぐに東京に出て来て、八王子や練馬に住んでいました。幼すぎて、記憶がおぼろげですが(笑)。5歳でアフリカのセネガルに移り、10歳で1年だけ日本に戻り、今度はアメリカ。幼少期の思い出は海外がほとんどなんです。

德川 セネガルでは学校はどうされていたのでしょうか。

松田 現地の公立校です。黒板もまともになくて、外に出て先生が砂に棒で字を書いて「1+1=2」というような授業を受けていました。幼稚園から小学校の4年生まで、周りはほぼセネガル人でした。帰国して小学校に入ると日本語も下手だし、漢字も書けない。だから「アフリカ人」などと馬鹿にされたりと、かっこうのいじめの標的でした。

德川 それで帰国後1年でアメリカですが、これもお父さまのお仕事で?

松田 そうです。ちょうど当時、マグロを担当していたようで、大西洋のマグロの回遊路の東の端がセネガルで、西の端がボストンだったので。日本ではいじめられましたが、けっこう負けん気も強い子どもでした(笑)。次第にイジメっ子たちとも仲良くなり「ああ、よかった」と思っていた矢先に、父の転勤でアメリカへ行くことになったので、少し寂しいという気持ちもありました。

德川 セネガルとボストンでは、両極端ですね。ボストンの学校生活は、いかがでしたか。

松田 ボストンでは、飛び級をして、一学年上の6年生のクラスに入ったんです。また、日本で転校時にいじめられた記憶も強かったので、はじめはものすごく警戒していました。2歳下の弟と「最初の休み時間は、あそこのジャングルジムの前で待ち合わせだ!」と決めていたほどです。2人で鐘が鳴ったのと同時にジャングルジムまでダッシュして、「大丈夫? いじめられなかった?」と無事を確認していたら、アメリカ人の子どもたちがわっと寄って来て囲まれてしまいました。「あー、またいじめられる」と思っていたら、「どこから来たの?」「どこの国に住んでいたの?」「どういう食べ物を食べているの?」など、興味津々に話しかけられました。多様な人種を受け入れるアメリカの風土を、子ども心に感じた瞬間でしたね。すぐ友だちもできました。アジア系も黒人も白人も様々でした。そのことがすごく印象に残っていて、多様性ということに関しては特に強い思いを持つようになりましたし、自身の政治的なスタンスにもつながっています。

德川 「筆談ホステス」として有名な斉藤りえさんを東京都北区議選で擁立したのも、多様性を重視したからでしょうか。

松田 斉藤りえさんから公認申請が届いた時は、ぜひ一緒に頑張りたいと思いました。全日本ろうあ連盟によれば、耳が聞こえず声も出ない議員は全国初だそうで、議会では聴覚障がいを持つ議員を前提とした仕組みがありません。ハンディを乗り越えなくてはなりませんが、まずは議会から真の意味でのバリアフリーを実現させたいと考えています。元気会ではさまざまなバックグラウンドを持つ方に政治にチャレンジして欲しいと考えていますし、多様性を受け入れる社会を目指していきたいのです。渋谷区で「同性パートナーシップ」が推し進められましたが、LGBT(注)に対する理解もしかりです。

 

日本を元気にする会代表 松田公太氏が、海外生活で伝えたかったこととは

 

20150609_KOU_P03德川 高校を卒業されて、すぐ日本ですね。そのままアメリカの大学に進もうとは考えなかったのでしょうか。

松田 考えました。実際、向こうの大学もいくつか合格をもらっていました。しかし、長い海外生活だったからこそ、日本のことを素晴らしい国として紹介したいという思いがありました。セネガル時代の話ですが、海に転がっているウニを拾って食べたりすると、「虫を食べている!」とセネガル人に囲まれて言われたんですね(笑)。それから、「ジャポンなんて聞いたことないよ。お前はシノワ(中国人)だろう」と決めつけられたりもして、それはもう悔しかったんです。そういった経験が蓄積されて、中学生の時には既に寿司チェーンをアメリカで開きたい!と志すようになっていました。母の一番の好物がお寿司だったというのも理由の1つです。

 当時のボストンにも幾つかお寿司屋さんはありましたが、いつも日本人しかいませんでした。アメリカ人にとって生魚を食べることはまだ抵抗があった時代ですが、「(当時アルバイトをしていた)マクドナルドみたいなオープンな感じのガラス張りのお店で回転寿司をやったら、絶対当たるぞ」と考えていました。アメリカには回転寿司がなかったのですが、里帰りの時、仙台で日本初の回転寿司チェーン「元禄寿司」を目撃して「これだ!」と思いました。アメリカ人も多分、自分が取りたいものを見た目で選べたらお寿司を食べることができるのではないかと思いました。

 それが最初のビジネス・アイデアだったのですが、そういうことを思いながらも、日本のことがとても好きで、いつも皆にアピールしている自分がいました。ところがよく考えてみると、自分は日本のことをよく知らない(笑)。それで日本に戻ることにしたのです。大学時代はとにかく、日本のことを勉強するという気持ちでした。

德川 逆留学、みたいな感じですね。

松田 そのくらいの気持ちでしたね。

 

松田公太氏 経営を勉強するために銀行に就職

 

(まつだ・こうた)1968年宮城県生まれ、東京都出身。父親の転勤で幼少期をアフリカと米国で過ごす。筑波大学卒業後三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。98年タリーズコーヒージャパン設立。代表取締役社長に就任。2010年参議院選挙にみんなの党公認で東京都選挙区より出馬・初当選。筆頭副幹事長、参院国会対策委員長を歴任。14年みんなの党解党後無所属に。15年政党「日本を元気にする会」を結党。代表に就任。著書に『すべては一杯のコーヒーから』(新潮社刊)など。

(まつだ・こうた)1968年宮城県生まれ、東京都出身。父親の転勤で幼少期をアフリカと米国で過ごす。筑波大学卒業後三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。98年タリーズコーヒージャパン設立。代表取締役社長に就任。2010年参議院選挙にみんなの党公認で東京都選挙区より出馬・初当選。筆頭副幹事長、参院国会対策委員長を歴任。14年みんなの党解党後無所属に。15年政党「日本を元気にする会」を結党。代表に就任。著書に『すべては一杯のコーヒーから』(新潮社刊)など。

德川 日本のことを知りたくて日本の大学に入ったわけですね。

松田 はい。入学したのは筑波大学で、アメリカンフットボール部に入りました。別にアメフトがやりたかったわけではないのですが、日本で大学生をやる以上、日本的な体育会に入りたいという、それだけだったんです(笑)。入部後、先輩にはしごかれました。「お前は後輩のくせになめている!」と殴られるわ蹴られるわ(笑)。そういうことを経験して、日本の文化を吸収していきました。一方で普通のアルバイトや家庭教師なども経験しました。

德川 そして大学を卒業されて、銀行員になったわけですね。

松田 もともとは大学を出て、すぐに寿司屋をやってもいいと思っていたのですが、当時アメリカでは既にお寿司がブームになっていました。それで、「寿司はもう誰かが広めてくれているな」と思い、自分がやらなくても良いのかなと、何となく情熱が冷めていきました。何をしようかといろいろ考えたのですが、その時は思いつきませんでした。それと、やはり社会人としての勉強も必要だろうという考えもあって、まずは就職しようと思ったんです。

 三和銀行に入ったのは、まずはビジネスを知ること、学ぶことから始めるべきと考えたからです。加えて、アメフト部の先輩たちの存在があったからです。「松田は将来、飲食業界の経営者になりたいんだろう。それなら商社や食品メーカーへいくよりも、銀行にいったほうが企業のことを学べるし、財務諸表も読めるようになるから勉強になる。銀行の営業マンはいろいろな社長に会えるし、経営のことが勉強できる」と、率直なアドバイスをくれた先輩もいました。

 

営業成績優秀でも異端児扱いだった松田公太氏

 

德川家広氏(政治評論家)

德川家広氏(政治経済評論家)

德川 銀行員の生活はしっくりきましたか。

松田 正直、はじめは違和感だらけでしたね。ただ、学ぼうと思っていましたので、あえてそこに没頭するというのが私の考え方なんです。父から「石の上にも3年」という言葉を教わっていましたので、最低でも3年間は黙って上司の言うことを聞いて、疑問に感じることがあっても「はい、分かりました」と、喜んでやらせていただいていました。でも、3年過ぎたあたりから、徐々に自分の思いを出すようにしました。営業をしていても自分のやりたいようにさせていただき、結果的にはそのほうが成績が良くなって、4年目からは毎年社長賞をいただけるようになりました。あとは、支店の中だけで決めるわけの分からないルールや慣例があったのですが、先輩や上司と話し合いながら少しずつ変えていきました。

德川 「掟」ですね。

松田 そうです。永田町と一緒ですよ(笑)。例えば、営業は夕方4時には銀行に戻らなくてはならないというルールがあって、それが4時半になったりすると上司に凄く怒られました。真剣に営業をしていると、どうしても戻り時間が少し遅れるのですが、上司からは「お前はなぜ4時に戻らない。お前の成績が良いのは、そうやってルールを破るからじゃないのか、出世ばかり狙っているんだろう」と言われるわけです。これには私も驚きました。自分の力を試したいし、支店のためにもなるじゃないですかと言っても、理解してもらえません。「結局、松田は帰国子女だから、日本的なルール、しきたりを守ることの大切さが分からない」と、まさに異端児扱いでした。ただ、いずれ起業しようと思っていたので、正直、自分の中ではあまり痛くはなかったです。銀行で一生やっていこうとか、出世レースに乗っていこうという思いしかなかったら、やっていられなかったと思いますけど。

 それで最後に「辞めます」と言った時には、支店長や本部の人事部から呼び出されて「辞めるな」と説得されました。人事部長には、「支店の中でいろいろと大変なことがあったようだが、全部変えさせる。だから残れ」とまで言われました。例えば私が提案した結果、それまで人事査定は次長や課長だけが判子を捺して本部に送っていたのを、本人も必ずチェックするようになりました。それまでは、自分の成績が本当にきちんと報告されているのかを見ることができなかったんです。それでも辞めたわけですが、今でも三菱東京UFJ銀行ではその仕組みが続いているとのことです。

 

松田公太氏の思い 党議拘束を外し議員に自由と責任を

 

20150623_KOU_03德川 銀行を辞めて、いよいよタリーズコーヒーの創業ですね。

松田 そうです。きっかけは、たまたま友だちの結婚式でアメリカへ行った時に、スペシャルティコーヒー(消費者がおいしいと評価して満足するコーヒー)と出会ったことです。それまで日本の物をアメリカに持ち込んでビジネスしたいという目線だったのですが、その逆です。タリーズは当時アメリカで4店舗しかない、シアトルのとても小さなチェーンだったんですが、「日本で私にやらせてください」と何度もお願いして、1年間かけて交渉しました。実は日本のタリーズとアメリカのタリーズは別物なんです。ロゴマークを借りて、あとは良いコーヒー豆をローストしていたので、それを輸入することにしました。その後、シアトルのタリーズは潰れてしまうのですが、日本では全く別のイメージで育てることができました。お陰さまで320店舗まで拡大して、その後、伊藤園さんに譲渡したという経緯です。

德川 政治にかかわるようになったのは、タリーズを売却した直後ですか。

松田 タリーズの後もさまざまなビジネスをしていましたが、みんなの党の政調会長だった浅尾慶一郎さんに政界へと声を掛けられた時には、ちょうどハワイで約40年続くレストラン“エッグスンシングス”の(米国を除く)世界での展開権を取得し、日本1号店をオープンしたばかりでした。コンセプトはオールデイブレックファースト(朝食を一日中!)です。

 最近、政府も企業は朝型にして、もっと健全なワークライフバランスにしようと言い出していますが、私の思いもそこにありました。日本人は商談にしても何にしても夜に行うし、食事の後も必ず2次会、3次会になってしまうんです。アメリカでは商談は朝に行うのですが、日本だとものすごく安いチェーン店か、あとは高級ホテルしか朝食を出しませんでした。そこで、「日本にも朝食で商談をする文化」を定着させたいという思いも始めた理由の1つです。メニューの中でもパンケーキが人気で、その後来るパンケーキ・ブームの火付け役となったのですが、私は単なるブームではなくて朝食文化をつくりたかったんです。

德川 みんなの党が解党して、松田さんはその後「日本を元気にする会」の代表となりました。今後どういう政治を目指されるのでしょうか。

松田 今、私が取り組んでいるのは直接民主型政治というもので、実はみんなの党でもやろうとしたことだったんです。以前、私がみんなの党の広報委員長だった時に「みんなの候補」という仕組みを作りました。インターネットで候補者を公募して、面接から街頭演説の様子、また、討論をしているところまで全部「可視化」したんです。それをネットのニコニコ生放送などで流して、ビューアーに選んでいただき、トップになった人を公認候補にするというものです。首相公選制の法案も出しましたし、原発国民投票法案も中心メンバーとして作成し、提出の運びとなりました。衆愚政治だという批判もありましたが、そうではなく、国論を二分しているような問題に関しては、広く議論するべきだというのが私の考えです。現在、われわれの政党は5人、会派は7人ですが、面白いことにみんな意見が違います。これが健全な姿だと思いますし、特に参議院は「良識の府」ですから、本気で国民のことを考えるためには、党議拘束を全部外すべきだと考えています。議員が自由に決められるようにすることで、責任を持って、ちゃんと考えていただくことが目的です。

文=德川家広 写真=幸田 森

 

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