政治・経済

今回登場いただくのは、橋本龍太郎首相の行政改革のブレーンとしてまず注目され、今では維新の党の代表を務める江田憲司氏である。エリート官僚として活躍した後で、脱官僚主導政治の旗手となった江田氏の原点は、いったいどこにありや。そこを探るために、人生の出発点までさかのぼってみた。

 

政と官を知り尽くした江田憲司氏の少年時代

 

(えだ・けんじ)1956年岡山市生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。94年橋本龍太郎通産大臣事務秘書官、96年橋本内閣発足後、総理主席秘書官に就任。退官後ハワイでの充電生活を経て、2000年衆院選挙に神奈川8区から自民党公認で出馬・落選。02年補欠選挙で衆院初当選(無所属)。現在5期目。09年みんなの党結党、幹事長に就任。13年みんなの党離党後、結いの党結党、代表に就任。14年日本維新の会と合流し、維新の党共同代表に就任。橋下徹共同代表辞任後、維新の党代表に就任。『誰のせいで改革を失うのか』(新潮社刊)、『財務省のマインドコントロール』(幻冬舎刊)など著書多数。

(えだ・けんじ)1956年岡山市生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。94年橋本龍太郎通産大臣事務秘書官、96年橋本内閣発足後、総理主席秘書官に就任。退官後ハワイでの充電生活を経て、2000年衆院選挙に神奈川8区から自民党公認で出馬・落選。02年補欠選挙で衆院初当選(無所属)。現在5期目。09年みんなの党結党、幹事長に就任。13年みんなの党離党後、結いの党結党、代表に就任。14年日本維新の会と合流し、維新の党共同代表に就任。橋下徹共同代表辞任後、維新の党代表に就任。2015年5月党代表を辞職。『誰のせいで改革を失うのか』(新潮社刊)、『財務省のマインドコントロール』(幻冬舎刊)など著書多数。

德川 まず少年時代のことを、お話しいただけますか。

江田 スポーツ少年団というのに入って、もっぱらソフトボールをやっていました。ポジションはピッチャーです。岡山市といっても当時は田舎ですからね。稲刈りした後の田圃に入って、9人集まらなくとも試合ができなくとも、3、4人で野球をやっていた。住んでいたのは岡山市の郊外でした。

 親父は警察官で、県内をぐるぐる転勤が多く、小学校の2年で転入です。それが6年で卒業するまで1クラスですよ。組変えもなしで40何人がずっと一緒でした。

 親父は派出所から始めました。僕が小さかった頃の官舎は狭くて、ウサギ小屋みたいな狭い中で、家族4人で寄り添って暮らしていました。

德川 ひたすらスポーツ少年でしたか。

江田 そうです。だって受験戦争はないし、塾はないし、お袋も親父も塾へ行けなんて言わないし。

德川 (恐る恐る)神童だという自覚はいつ頃から?

江田 ない、ない(笑)。

德川 ないですか?

江田 勉強しろと言われた覚えはないですね。ただ思い出すと、小学校1年生の時に硬筆習字といって2Bの鉛筆で「せんせいおはよう」って書くんですよ。お袋の教育の思い出って、それだけです。小学校1年生で夜10時くらいまでひたすら「せんせいおはよう」って書かされてね。それで岡山県の金賞をとったこともあるんですよ。それが僕の原点というか、それ以外にないというか。今、感謝しているのは、お袋が思い立ったようにやらせて、僕も凄く頑張ったんですよ。そこで基本的に自分でやる癖がついたんですね。勉強を計画的にやる癖がついたのは最初に特訓されたから、と思っています。

德川 なるほど。ちょっと聞くと拷問みたいなんですが(笑)。

江田 それはもう。小学校1年生であれだけ。うちのお袋は勉強しろとは言わないタイプですが、「字だけはきれいにしろ」なんて言うんです。親父は刑事で、土日もしょっちゅういませんし、夜も遅いし、遊んでもらうって言ったら、たまたま親父が家にいた日曜の夕方に、官舎の前の小さな空き地でキャッチボールをしたくらいですね。家族で旅行に行ったりなんかはなかったです。

 

江田憲司が、大蔵省に行くのをやめた理由

 

德川家広氏(政治評論家)

德川家広氏(政治評論家)

德川 やがて高校卒業が近づくとともに、東大受験を決意されるわけですが。

江田 あまり問題意識もなくて。要は、大学へ行くんだから勉強するんだろう。勉強するんなら一番良い所はどこなんだ、みたいな発想しかないんですよ。何で法学部へ行ったかというと「ツブシが効くから」とよく言われて。問題意識が何もないので、あまり早く決めたくないという、それだけの話でした。だから法学部へ行ってから何をするかを決めれば良いやというわけで、文科一類を受けたわけです。

德川 大学在学中に司法試験も合格されています。

江田 (笑)。それについては、あんまり話したくないんだけれど。東大に入った後は花の都東京で、麻雀を教えてもらって、これに狂いました。僕の駒場時代には、雀荘がいっぱいあって、授業にほとんど出なかった。フランス語と英語の授業は出席重視なんで出るんですが、そこで面子を集めて、そのまま後の授業に出ずに、ぽんと雀荘へ行くという。受験勉強は後にも先にも人生でいちばん勉強したというくらいですが、入ったら一気に反動が来て、ほとんど大学にも行かない。東大法学部は卒業するのに90単位いるんですが、僕は確か3年が終わった段階で18単位しか取れていなかった。でも、これ幸いとばかりに「留年すればいいや」と思いました。第一志望は留年、みたいな感覚です。勉強で焦ることはなく合コン、合ハイで、本当に花の都で遊びほうけて、わが青春に悔い有りという(笑)。いや、本当。もっと勉強しておけば良かった。

 やがて4年を迎えると、当時は周りがみんな公務員試験と司法試験を受けるから、僕も流されたというかオリンピック精神、参加意識で受けることにしました。留年を予想しながらの受験です。これを言うと怒られるんだけれども、公務員試験は最後に時間がなくなって、10問くらいは鉛筆を転がしてやった覚えがありますよ。

 司法試験はフロックで受かるようなものじゃないって言われるんだけど、本当にその年は、僕がたまたま勉強したところだけ出て。たまたまできて合格したら、図書館で一生懸命勉強していた連中が「これで江田が入るんだったら世の中おかしい」と言って、そのまま学校に来なくなったことがありました。僕は教科書も全部揃っていなかったんです(笑)。

 公務員試験の面接は、みんな7月くらいに内定が出る時代でしたが、僕は9月になって初めて行きました。夏は海の家で遊んで、バイトをしていたんですよ。それで9月になって大蔵省に行ったら、後に事務次官になる人物が秘書課の補佐で面接を担当していて、「君、何でこんな時に来るんだ」と言うわけですよ。僕は人事院のペーパーを出して「面接は10月解禁って書いてあるじゃないですか。今は9月ですよ」と言うと「君ね、東大法学部でしょう。友だちいないの? 君の同級生はみんな7月に来て8月初めには内定が出ているんだから」と言う。この補佐が嫌な奴で、これで僕は大蔵省行くのやめたんだけど、「君ね、優の数が1桁足りないんじゃない?」とも言われました。

 それはそうだよ、僕は18単位しか取っていないんだから。ところが、成績表の下のほうに司法試験の論文式合格と書かれているのを見た途端に態度が豹変した。それでこの人はお里が知れていると思って、こんな奴のいる所には絶対行きたくないと。それで比較的に酷さ加減の少なかった通産省に行ったんです。

 

政と官を知り尽くした男が今だから語る官僚主導の穴

 

20150512_KOU_P01德川 通産省はどんな役所でしたか。

江田 当時は1が大蔵、2が通産、3、4がなくて5が自治省と言われる時代で、大蔵のライバル官庁と言われていました。エネルギー、中小企業、通商と、管轄の間口が広いという話でした。でも、入ってすぐに、大蔵省の足元にも及ばないと思いました。国家を実際に運営し、政治すら支配しているのは大蔵省だと。財政と金融と国税を持って、一極集中でしたから。

 こんな巨大官庁があって、しかも公務員試験1番だ、司法試験トップだっていう連中が入っているとね。通産省出身だから恨みつらみで言っているわけではなくて、率直に大蔵省の一極集中、一強があると、チェック・アンド・バランスが効かない、政治だって太刀打ちできないと思いました。欧米に追い付け、追い越せの時代だと教科書があるわけで、官僚主導が有効に機能するわけです。だけども、追い付き追い越した段階では、これではうまく行かない。では政治家がその隙き間、穴を埋めているかというと、まだそこまで行っていない。だからと言って官僚主導に戻すのではなく、民主主義のコストとして、政治に良い人材を供給していかないといけない。選ばれてもいない学校秀才が「日本丸」の船長で、それで沈んだら目も当てられないじゃないですか。だから官僚でいたことは、逆説的に私の政治家人生を規定しています。

 とはいえ、政治主導にしていくためには政党というのは基本政策くらい一致させないと。自民党でも民主党でも、基本政策がばらばらな政治家が集まっているから、政権を取った途端にああだこうだ議論を始めるわけですよ。そこへ官僚がやって来て、彼らはうまいから、紙に書いてあることだけを見ればきれいだけど、国民にとってはほとんど意味がないペーパーが出て来る。その結果が、今も横行している官僚政治というわけです。

 

橋本龍太郎の懐に入り込んだ江田憲司

 

(えだ・けんじ)1956年岡山市生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。94年橋本龍太郎通産大臣事務秘書官、96年橋本内閣発足後、総理主席秘書官に就任。退官後ハワイでの充電生活を経て、2000年衆院選挙に神奈川8区から自民党公認で出馬・落選。02年補欠選挙で衆院初当選(無所属)。現在5期目。09年みんなの党結党、幹事長に就任。13年みんなの党離党後、結いの党結党、代表に就任。14年日本維新の会と合流し、維新の党共同代表に就任。橋下徹共同代表辞任後、維新の党代表に就任。『誰のせいで改革を失うのか』(新潮社刊)、『財務省のマインドコントロール』(幻冬舎刊)など著書多数。

(えだ・けんじ)1956年岡山市生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。94年橋本龍太郎通産大臣事務秘書官、96年橋本内閣発足後、総理主席秘書官に就任。退官後ハワイでの充電生活を経て、2000年衆院選挙に神奈川8区から自民党公認で出馬・落選。02年補欠選挙で衆院初当選(無所属)。現在5期目。09年みんなの党結党、幹事長に就任。13年みんなの党離党後、結いの党結党、代表に就任。14年日本維新の会と合流し、維新の党共同代表に就任。橋下徹共同代表辞任後、維新の党代表に就任。2015年5月党代表を辞職。『誰のせいで改革を失うのか』(新潮社刊)、『財務省のマインドコントロール』(幻冬舎刊)など著書多数。

德川 橋本大臣の秘書官に就任された経緯をお願い致します。

江田 村山政権ができる時に秘書官が必要だというので、その時、僕は経済協力の室長として、経済ミッションで中国にいたんですが急に呼び返されて、大臣秘書官に決まりました。橋本さん本人は外相をやりたかったようですが、自社さ連立政権だから河野洋平さんが自民党総裁として外相を取りました。それで竹下登さんが橋本さんに「村山トンちゃんを閣内で支えてやれ」と言って、通産大臣で来られたわけです。

德川 橋本さんは多分、最後の本格総理ですね。後は一発芸みたいな首相が続いて。その橋本さんに、まずは通産大臣秘書官として仕えて、どうでしたか。

江田 (笑)。橋本さんは確かに「威張る・怒る・拗ねる」と言われていたとおり、とっつきにくいんですが、いったん懐に入り込むと、本当に付き合いやすい人でした。でも、最初はさすがの江田憲司もビビったわけですよ。僕は湾岸戦争の時にも海部官邸と宮沢官邸で首相の施政方針演説の下書きを書くスピーチライターをやっていたことがありますが、当時の橋本蔵相が肩で風を切って歩いているのを見ていましたから。

 でも最初に大臣車にいっしょに乗った時に、「ところで君は、どこの出身?」と聞かれて「岡山なんです、実は」と答えると、すぐに自動車電話に手を伸ばして、久美子夫人に「ママ、ママ、今度秘書官になってくだすった江田さんという人は、なんと岡山なんだよ!」と。それから、「これから僕の趣味の所に行こう」と言うんです。どこに行くんだろうと思っていたら、靖国神社ですよ。遊就館。彼は遺族会会長として何度も行っているし。じーっと展示品を見て回って。最後にゼロ戦の亡くなった特攻隊員の手紙を見ながら、泣いているんですよ。「ああ、これがこの人の原点なんだ」と思いました。

 総理とは一心同体でした。怒られたことも、怒鳴られたことも1回もなくて、僕のほうがズケズケ言いたいことを言う。ただ、1つだけ肝に銘じていたのは、秘書官というのはいろんな人がいる前で大臣を批判しちゃいかん、2人きりになった時に、耳の痛いことを言うのが僕の仕事だと思っていました。大臣秘書官、首相秘書官を合計して、橋本さんとは4年1カ月のお付き合いでしたが、関係はずっと良かったですよ。

 

今だから語る橋本龍太郎の外交能力

 

德川家広氏(政治評論家)

德川家広氏(政治評論家)

德川 橋本総理誕生については、どう受け止められましたか。

江田 橋本さんにとって通産大臣は役不足だったと思います。大蔵大臣もやって、自民党幹事長までやっているんですよ。それが竹下さんに言われてなってみたら、日米自動車交渉のお陰で総理への道が開けたんですよ。

 橋本さんは日米交渉としては初めて、アメリカの要求をはねつけました。それで「橋本もやるじゃないか」と、梶山静六さんや与謝野馨さん、塚原俊平さんが言い出して、超党派のサポートが出来上がりました。河野洋平さんがその勢いに負けて降り、小泉さんは総裁選に出ますが、当時はまだ不人気で負けて、村山さんが気力体力が尽きて、それで橋本さんに回って来た。

德川 岩波書店で出ている橋本さんの回想録は『橋本龍太郎 外交回顧録』です。やはり外交に対する関心が強かった?

江田 橋本さんの資質、能力的には、外相をやっているのが一番ハッピーだったと思う。本当は国内の利害調整とか苦手な人だったんです。厚生族云々というのは大物秘書が全部やっていました。本当に外交が好きでした。NHKのニュースを見て、「メッカで何が起きた」「巡礼がどうした」という議論を聞いて解説してくれたりしました。

德川 今の江田さんからご覧になって、橋本さんの外交能力、外交理解は高水準でしたか。

江田 ええ。本人の関心も高いし、勉強もされているし。橋本政権の最大の功績は普天間の返還の合意もそうだし、看過されがちですがユーラシア外交を唱えて、クラスノヤルスク合意という、2000年までに平和条約を結ぶことを初めてロシアの首脳と合意しましたし。

 安全保障にも関心が高くて、石破さんよりもオタクだったからね。当時印象的だったのは、防衛庁の装備局長にいろいろ質問すると、局長が分からないんですよ。そこで、橋本さんが初めて総理の執務室に統幕議長と三幕僚長を呼んで懇談をしました。それまでは総理大臣が自衛隊の指揮命令権を持っているにもかかわらず、官邸に制服組をいっさい入れないという変なしきたりがあった。統幕議長は涙を流して喜んでいましたよ。内閣にある安全保障室に初めて制服組を入れたのも橋本さんです。

德川 橋本改革では国土交通省、総務省、厚生労働省などの巨大官庁が誕生して、かえって政治の統制が効かなくなったと思いますが、どれくらい江田さんはかかわっておられましたか。

20150526_KOU_P03江田 当時、僕らにとっては縦割り行政の弊害のほうが緊急性が高かった。国交省の例でいうと、インフラ整備の省庁がなぜ分断されているかという問題です。道路だって国道と防衛道と農林道が並行に走っていたり、必要のない港湾を整備したものが釣り堀と化していたり。要は、鉄道とか航空とか道路とかが、グランドデザインをもとに有機的に整備されないといけないと感じました。国交省に関しては、公共事業の権限を全部地方に下ろすという前提だったんです。ただ橋本政権が終わった後、土建利権政治家の抵抗で揺り戻しがあり、本省に権限が維持され、役所が肥大化しました。

德川 つまり、橋本改革は長期政権でなくてはできなかった?

江田 そうですね。確かに橋本改革は「羊羹の切り口を変えただけ」なんて酷評もされましたが、最大の目的は官邸機能の強化、政治主導の道具立てをつくることで、これは経済財政諮問会議をつくったことに結実したと思います。

 

江田憲司が初めての選挙で中田宏に惨敗した理由

 

20150526_KOU_P01德川 そこから政界入りへのつながりは、どのようなものだったでしょうか。

江田 橋本総理が辞任した後、すぐに辞表を出してハワイに行ったんですが、1年後に帰国した時にパクっと捕まったのが、菅義偉さんです。僕は首相秘書官としては嫌われ者だったと思いますが、意外にいろいろな政治家さんに壮行会をやっていただきましたから、議員会館に行ってお礼をして回ったんです。それで菅さんの所に行ったら「実は神奈川八区に中田宏という強い奴がいて、自民党の県議も市議も尻込みして出ないから、江田さん出てください。地元の合意は責任をもって私が取り付けます。金は自分で出します。選挙スタッフも全部派遣します」と。プータローの私にそこまで言ってくれたため、相当悩みました。でも「江田は議員バッジもつけていないくせに、橋龍にちょっと気に入られたくらいで何で偉そうに国政を左右するんだ」ってさんざん言われたから、「分かった、選挙なんてちょろいもんだ、一丁やってみるか」という気持ちで出たんです。で、見事に敗れました。

德川 中田宏さんの強さの源泉は何だったと分析しますか。

江田 どこに行っても中田さんの評判は良かったですが、その理由は「毎日駅で立っている」と皆さん答えますね。選挙区内に駅は10カ所あるから、そんなことあり得ないんですが。でも半年間の選挙戦で、やっと投票1週間前にNHKの世論調査で僕が1ポイント、リードするようになりました。NHKの記者は「無名の新人で、ここから伸びるだけですから、勝利は確実ですよ」と言って、勝利の記者会見の打ち合わせをしたくらいです。ところが投票の3日前になって、総理大臣になったばかりの森喜朗さんの「無党派は寝ておれ」の大失言です。結局、中田宏が9万8千票、僕が5万6千票の惨敗となりました。でも、今は森さんに感謝しています。

 あの時に自民党で受かっていたら、階段を1歩1歩上がって行くだけの、つまらない政治家で終わっていたと思う。大臣にはなっていたかもしれないけれど、それでは面白くないでしょう。

文=德川家広 写真=幸田 森

 

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