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一代で栄枯盛衰を体現した日本の流通王、ダイエー創業者・中内㓛の信念

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かつて日本一の小売業として栄華を極めたダイエー。しかし今、その名を冠した店舗はほとんど残っていない。それに伴い創業者・中内㓛も忘れられつつある。中内は果たして失敗者だったのか。 文=岡山商科大学教授/長田貴仁

晩節を汚したダイエー創業者、中内㓛の本当の評価

中内㓛とダイエーの栄枯盛衰

ダイエーの栄枯盛衰について、多くの人は表層的に見ていないだろうか。そんじょそこらの栄枯盛衰ではないことに気づかなくてはならない。その点では、非常に学びの多い「平成の歴史」なのである。

中内㓛は、1957年9月、大阪市旭区の京阪本線千林駅前(千林商店街内)に、医薬品や食品を安価で薄利多売する「主婦の店ダイエー薬局」を開店。翌58年には、神戸三宮にチェーン化第1号店(店舗としては第2号店)となる三宮店を開き、価格破壊を展開し消費者から大きな支持を得た。

その後、阪神地区を中心に店舗網を拡大し、60年代後半から70年代にかけて全国展開を進め飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長した。小売業以外にもホテル、大学、プロ野球、出版、金融など多角化に乗り出した。

72年には百貨店の三越を抜き、小売業売上高首位になり、80年に日本で初めて小売業界の売上高1兆円を達成した。その後、全国各地の地場スーパーマーケットを吸収してダイエーグループを形成していった。その結果、中内は「流通王」と呼ばれるまでになり、経団連副会長として財界でも活躍した。

ところがバブルの崩壊後の90年代後半から業績が急激に悪化する。2004年から産業再生法が適用され、産業再生機構からの支援を得た。

丸紅、イオンと連携し、非主力事業の譲渡、コア事業である小売部門の縮小を行う。この結果、経営破綻に至ったものの、倒産は免れた。

そして、イオンによる株式公開買付けを経て、14年12月26日付けをもって上場廃止(東証1部)。15年1月1日より、イオングループの一員(完全子会社)となった。

その際、イオンの岡田元也社長は、「ダイエーの法人格はそのまま残すが、18年をめどにダイエーの屋号をなくす」方針を明らかにした。

ダイエーの歴史イコール中内㓛の人生

店舗進出にあたって土地を買い、地価上昇で担保価値を高め、その担保をもとに銀行から借り入れる。それを元手に新たな土地を買い店舗を開く。

だが、この好循環サイクルは終焉を迎える。1990年、バブル崩壊による地価下落と消費低落により、サイクルが逆回転を始めた。最後は、ローソンなどの優良子会社を売却し、イオングループの傘下に収められた。

この天国から地獄への転落を見て、かつて中内㓛を称賛していたマスコミは、「晩節を汚した経営者」として手のひらを返したように非難した。

そして、何もかも失い、神戸に設立した流通科学大学だけが事実上の「遺産」として残った。

東芝やシャープに見られるように、大企業の多くは創業者がいなくなり、その後、成長が続いたとしても、何代かの社長を経ておかしくなっていくことが多い。ところがダイエーの場合、中内㓛一代で栄枯盛衰を完結した。

演劇に例えれば、ダイエーという劇場をつくり、台本を書き、演出し、主役を務めたのである。つまり、ダイエーの歴史とはすなわち、中内㓛の人生だったと言えよう。

では、「晩節を汚した経営者」とされた中内は、本当に「失敗者」として歴史に記していいのだろうか。

経営者の評価は結果がすべてである、と言われる。しかし、その結果とは何か。「最後」だけを見て評価していないだろうか。

もちろん、最後に経営危機に陥るということは、そのプロセスに問題がある。だが、ある期間の意思決定や行動が誤っていたからと言って、最初から最後までを見ずして、その経営者を評価することはおかしいのではないか。

平均点を出すべきだ、と主張しているわけではない。人の一生が山あり谷ありであるがごとく、経営者も非難すべき時期もあれば、評価すべき時期もあろう。

人に長所、短所があるように、「晩節を汚した経営者」といえども長所は多々あったはずである。

その点に光を当てることなく、失敗した時期と短所ばかりに目を向けるのは、経営者評価とは言えない。

このような視点から、ダイエーの創業者・中内功を見ると、今、「再考」すべき点は少なくない。その最たるものは、「信念」だろう。

近年、「経営理念」が重要であるという経営者は少なくないが、中内の信念とはそのレベルを超えている。自身の人世を懸けた生き様である。

ダイエー創業者・中内㓛の信念とは

「どんどん安く」の根底にあった中内㓛の反戦思想

中内㓛の信念は、強烈な戦争体験から生まれた。

通信兵として出征した中内は、フィリピン・ルソン島リンガエン湾での戦闘で敵の手榴弾を被爆。死を覚悟した。

そのとき、神戸の実家で家族そろって裸電球の下ですき焼きを食べている風景が頭の中に浮かんだ。この思いこそが中内の原点となった。

九死に一生を得て復員した中内は、1957年に「For the Customers―良い品をどんどん安く―」をスローガンに掲げ、主婦の店ダイエーを設立する。

「ダイエーの存在価値は、既存の価格を破壊することにある」とする安売り哲学は、中内の反戦思想につながるところがあったと考えられる。庶民を不幸のどん底に突き落とした権力にも似た既成事実に対するアンチテーゼだったのだろう。

流通科学大学の第1期生入学式(88年4月6日)で、中内は次の祝辞を新入生に贈った。

「第1次大戦は鉄と石炭の奪い合い、第2次大戦は石油の奪い合いで始まりました。石油さえあれば真珠湾を奇襲する必要もなかったわけです。私は、アメリカとソ連との違いはスーパーマーケットがあるかないかだ、という故ケネディ大統領のメッセージに感激して、配給ではなく市民が自由に好きな商品を選んで買えるしくみの良さを、どのように日本に定着させていくか、豊かで平和な暮らしをどのように創り出していくかを考えてきました。戦争をなくすためにも、21世紀を担う若い皆さまには、流通ということの大切さをよく考えていただきたいと思います」

中内㓛ほど信念を貫いた経営者はいるか

2005年8月26日、中内は流通科学大学を訪れた後に向かった神戸市内の病院で定期健診を受けていたところ、脳梗塞で倒れた。そして、9月19日に亡くなった。享年83歳。

そのとき、ダイエーは産業再生機構に入り再生中だったため社葬は行われず、流通科学大学の学園葬となった。筆者も葬儀に参列した。

結果が結果だけに、ワンマン経営ぶりばかりが注目された中内だったが、燃えつくした生き様は立派なものと言えよう。まさに信念を貫いた勇敢な兵士の戦死であった。

平均点は高いものの、中内ほど信念を貫いている経営者は、はたして今、何人いるだろうか。

なお、中内㓛論の信念をさらに知りたければ、マーケティングの大家であり、前・流通科学大学学長の石井淳蔵氏(神戸大学名誉教授)の力作『中内功―理想に燃えた流通革命の先導者』(PHP研究所)が一読に値する。(敬称略)

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