文化・ライフ

日本人の男性オペラ歌手、平野和をご存じだろうか。西洋人の演者の中でさえも、最も体格が良くて堂々としており、歩き方、歩幅、発声、背筋、どれを取っても普通の日本人ではない。多くの日本人にとってあまり馴染みのないオペラの世界でも、世界に通用する才能が生まれた。取材・文=戸田光太郎

 

日本人離れしたオペラ歌手、平野和との出会い

 

 平野和のことは知らなかった。初めて見たのはウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラの公演の中でだった。

 衝撃を受けた。恐らくそれは、そこがウィーンではなくて、他ならぬ東京だったからだ。

 平野は西洋人の演者の中でさえも、最も体格が良くて堂々としていた。歩き方、歩幅、発声、背筋、どれを取っても普通の日本人ではない。普通の日本人は西洋人の間に立つと「見劣りする」と言われるが、彼は違った。あまり好きな言い方ではなが、「日本人離れ」していた。

 ラトビア人のアネッテ・リーピナという美貌のソプラノ歌手に寄り添って歌うその姿に、私は当初(この堂々とした体躯のバリトン歌手は、いったい、どこの国の人だろう?)とまで考えたものだ。

 時は、2019年1月9日水曜日夜、初台の東京オペラシティーコンサートホール。指揮をしていたのは白髪に小柄で陽気なペーター・グートだ。

 この管弦楽団の創立者の一人で音楽監督を務め、ヨハン・シュトラウス2世の没後百年の1999年の壮大なガラ・コンサートの指揮をした人である。ニューイヤー・コンサートでは何度も来日している。ヴァイオリンを弾きながら右手の弓で絶妙に指揮を執る。そんなペーター・グートのドイツ語の通訳をしたのも、また平野だった。

 この時点まで私は平野がオーストリア人なのかハーフなのか判断がつかなかったのだが、彼の日本語には訛りがなかった。

 バリトンだから、声は通るし、ユーモアを交えた的確な日本語訳だった。これだけの才能を今までテレビの例えば『題名のない音楽会』でも目にしなかったのは何故だろうかと不思議だった。

 が、やがてこの謎は解けた。

 この日のパンフレットを見ると、平野和はジャパン・アーツに所属しているという。

 ジャパン・アーツの創業者中藤泰雄は音楽畑の人ではなかった。支店勤務の銀行員だったのだ。そこから日本初のテレビ・ニュース通信社、日本電波ニュースに転職し、社内にクラシック音楽のマネジメント会社を立ち上げたのが始まりだ。

 金勘定は出来ても音楽ビジネスは未経験の中藤は「音楽は人間が生きていくのになくてはならないもの」という信念でビジネスをスタートさせたが、やがて、スメタナ・カルテットとの交流を通じて成功した事業部を独立させて「ジャパン・アーツ」となった。2012年に中藤が会長職にあった時、平成24年度の文化庁長官表彰を当時の近藤誠一長官より授与されている。

 さて、そのジャパン・アーツの知り合いを通して、平野和へのインタビューを申し込んだ。

 「まだ、たまたま日本にいらっしゃるようですので打診してみます」

 平野和は日本に住んでいなかった。通常はオーストリアの首都ウィーンに住んでいるという。日本にはいわば公演旅行で短期滞在中の身であった。

 そんな中、インタビューの時間を作って頂いた。

 場所は青山のジャパン・アーツの会議室である。

 ドアが開いて長身の美丈夫が入ってきた。

 髭に満面の笑み。

 舞台では大男の印象があったが、普通に長身だった。オペラ歌手というのは太った大男というイメージで、それもあってか舞台上では大きく見えたが、東京ですれ違えば(カッコいい青年だな)と思うだけで、相手が花の都ウィーンでオペラ歌手をやっているとは誰も気付かないだろう。

平野和PHOTO1

「フィガロの結婚」にて©︎Christine Kaufmann

 

【オペラ歌手・平野和インタビュー】

 

平野和氏の歩み①君津からウィーンへの道のり

― 先日のウィーン・シュトラウス・フェスティバル・オーケストラとの共演、素晴らしかったです。ご本人的にはどうだったのですか?

平野 オペレッタの分野には、私の声域のレパートリーがほとんどなく、今まで演奏する機会に恵まれませんでした。そんなわけで、どこかで自分の分野ではないと思っていた節がありました。実際に演奏してみると、三拍子のワルツのリズムに思いのほか馴染んでいる自分がいて、心の底からエンジョイできました。

― 楽しさは良く伝わってきました。ところで、ご出身はどちらですか?

平野 東京生まれですが、千葉県の房総半島の南の方、君津に中2から高校生まで5年間いました。

― 意外です。新日鐵住金君津製鐵所がある土地柄ですね。オペラとはほど遠い。

平野 駅前にパチンコ屋が並び、飲み屋も多く、オペラとは関係の薄い土地ですが、不思議なことに君津に住んでいた時に声楽の道に導かれ、今に至っています。

― どういうキッカケでオペラの道へ?

平野 まず、自分には歌手としての才能があるのではないかと思った出来事がありました。中学時代です。

 私は野球部に所属していたのですが、3年の夏の大会で早々と敗退し引退しました。そんな折、音楽の先生で合唱部の顧問だった方から、合唱部の地区予選に助っ人として参加して欲しいと直々にお願いされました。

 そこで私は合唱部に加わり、かなり目覚ましい活躍をし、顧問の先生からも大変感謝され、このまま歌を続けるべきだと勧められました。

 その時の音楽の先生が、後に紆余曲折あり千葉県議員に転身し、現在は君津市長になりました。名前は石井宏子先生です。当時は旧姓の中島先生でした。

 石井先生とはその後、Facebookで繋がり、2013年の新国立劇場のアイーダの公演にお越し頂き再会する事が出来ました。2017年にはブレゲンツに音楽祭にもいらしてくださり、湖上オペラの『カルメン』も観劇されました。

 そして石井先生の働きかけで、来年8月に君津市民文化ホール開場30周年の記念企画として、同ホールに凱旋し、リサイタルを開催することが内定しました。本当に不思議なご縁です。

 こうして自分は歌が上手いと知るようになりましたが、すぐには歌を始めませんでした。しかし心のどこかで、困ったときには自分には歌があるという確信が持てました。私が歌の道に進もうと決心したのは高校三年生の春です。ちょうど進路に迷っていた時でした。君津高校の音楽担当の星野行江先生が、試験で演奏した私の歌を大変評価してくださり、大学で勉強することを勧めてくださいました。

 私は大学生になって上京したかったので、あまりガリガリ受験勉強しなくても入学できる可能性の高い音楽の道は魅力でした。その高校の音楽の星野先生とは現在でも交流が続いており、突然、ウィーンでの公演にいらしてくださったこともありました。

― 素敵な先生ですね。自分の教え子が本場で歌っている姿には感動されたことでしょう。平野さんの高校生の頃はTRFやミスチルが全盛期ではないですか?

平野 個人的にその頃の日本のヒット曲にはあまり興味がなくて高校時代はイギリスやドイツのレーベルのテクノを聴いていました。メジャーデビューする前のアンダーワールドやケミカルブラザーズなども高校一年の時には聴いていました。君津の田舎で(笑)。エイフェックス・ツインなども聴いていましたから、暗い高校時代でした。

― 日本大学芸術学部音楽学科を首席で卒業されたと資料にありますが。

平野 日大芸術学部の音楽学科では、声楽を高校の星野先生の師匠でもある末芳枝先生に教えていただきました。日大の大きなメリットの1つに、少人数制であることが挙げられます。他の音楽大学では、学内オペラに学部生が出演することは至難の業のようですが、学生の人数が圧倒的に少ない日大で、私はさまざまなオペラに出演させていただく機会を得ることができました。

 「フィガロの結婚」や「コシ・ファン・トゥッテ」などのオーソドックスなレパートリーから、ストラヴィンスキー作曲の歌劇『夜鳴き鶯』のような、上演機会の稀な作品まで、色々と演じさせていただきました。

― 初舞台の新国立劇場からウィーンには距離と飛躍がありますが。経緯を教えてください。

平野 はい。日大在学中に、ウィーン国立音楽大学の声楽学科教授のロートラウト・ハンスマン教授のマスタークラスを受講する機会に恵まれました。ハンスマン教授の「ヨーロッパの劇場でプロのソリストとしてやって行けるだけのポテンシャルがある」という言葉を真に受けて、その先生を追いかける形でウィーンに留学しました。

― その先生は日大に教えにいらしたのですか?

平野 マスタークラスの先生は、厳密には日大に来たのではありません。その先生の日本人のお弟子さんが個人的に呼んだ形です。

 2000年に日大を首席で卒業し、第70回読売新人演奏会に出演してすぐにオーストリアへ渡りました。23歳の時です。留学に備え、ドイツ語は日本にいたときから語学学校に通い、ある程度準備はしていましたが、日常会話ができる程度の語学力でしたが、オーストリアではウィーン国立音大の大学院に入るのではなく、学部の1年生から再び勉強を始めました。

 というのは、ドイツ語に慣れるまでは、声楽のレッスンやドイツ語の発音のレッスンなど、マンツーマンで行われる授業を中心受講し、自分のペースで長期的に勉強を進めて行く狙いがあったからです。入学して3年後の2003年に声楽学科を終了し、同年から同大学の修士課程であるリート・オラトリオ科、オペラ科へ入学しました。

 リート・オラトリオ解釈を英国人のピアニスト、チャールズ・スペンサーに、そしてドイツ歌曲演奏者の第一人者で、私と同じバス・バリトンのオランダ人、ロベルト・ホルに師事しました。

 また、オペラ解釈をドイツ人のオペラ演出家、ミヒャエル・テンメに習いました。彼は昨年のマツ、兵庫県立芸術劇場のオペラ公演「魔弾の射手」で演出を担当したことでも有名です。

 大学院在学中は、学内の教授以外にも、オランダ人のリリックソプラノ歌手でリート歌手として一世を風靡したエリー・アーメリング、トーマス・ハンプソンや藤村実穂子などの伴奏者としても有名なドイツ人ピアニスト、ヴォルフラム・リーガー、ロベルト・ホルの伴奏者を長年務めたオランダ人ピアニストで、作曲家としても名高いドルフ・ヤンセンなど、一流プレイヤーたちのマスターコースを受講する機会に恵まれました。

平野和PHOTO2

©︎Christine Kaufmann

平野和氏の歩み②芸術家として最も影響を受けた人物とは

― 錚々たる教授陣ですね。

平野 リート・オラトリオ解釈を英国ヨークシャー生まれのピアニスト、チャールズ・スペンサーに学びました。そしてドイツ歌曲演奏者の第一人者で、私と、同じバス・バリトンのオランダ人ロベルト・ホルに師事してました。

 また、オペラ解釈をドイツ人のミヒャエル・テンメに習いました。彼は昨年の夏、兵庫県立芸術劇場のオペラ公演「魔弾の射手」で、演出を担当したことでも有名です。

― その教授陣の中でも最も影響を受けたと思われるのは、どなたですか?

平野 芸術家として一番影響を受け、憧れたのは大学院時代のリート・オラトリオ科のロベルト・ホル教授です。歌手としては私の大きな目標で憧れる人物です。1990年代の後半から、バイロイト音楽祭に『ニュールンベルグのマイスタージンガー』のハンス・ザックスで毎年出演して大成功されています。芸術家としても、文学や哲学を愛し、自ら作曲もする巨匠とお呼びするのに相応しい方です。

― ホル教授の言葉で特に残っていることは何ですか?

平野 作曲家リヒャルト・ワーグナーの言葉の引用をして、「歌とは、話し言葉の抑揚やイントネーションに感情が加わって生まれたものである。つまり、話し言葉の一番ドラマチックな表現法が歌であり、歌うことは常に、話すことの延長でなければならない」。だからワーグナーは、歌手に対して、歌う前に徹底的にテキストを音読させ、言葉の持つ抑揚やイントネーションを歌う際に完全に表現することを求めた。
 その言葉から、演奏する際には「まず詩ありき」の姿勢を教わりました。実際、ロマン派の作曲家たちは、同時代の詩人たちの詩や、古典の詩人たちの詩にインスピレーションを受けて作曲しています。音楽を奏でる前に、我々はまずその詩の持つ特徴を把握し、解釈しなければならない。そういう歌手のあるべき姿勢を、ホル先生からは習いました。
 そして文学に親しむ姿勢も学びました。ホル先生の影響で、ゲーテやシラーなどのシュトゥルム-ウント-ドラングの作家の作品を読むようになりました。

 私が慣れ親しんだドイツ語以外の言語のオペラの準備は時間がかかりますね。特に難しいのは、モーツァルトやロッシーニなどのオペラ作品のセッコ・レチタティーヴォです。歌うというより話すスタイルに近いので、自然に表現できるまでに時間がかかります。

― 2003年にオーストリア共和国奨学生となって、そして2007年にオペラ科を主席で卒業されたのですね。

平野 はい。ウィーン国立音大在学中から数々のオペラに出演しました。在学中の2004年には、ドイツ・ラインスベルク室内歌劇場国際コンクールで入賞しました。このオペラ主催の夏の音楽祭で世界的演出家ハリー・クプファー演出のヘンデル作曲『オットーネ』でエミレーノ役に抜擢されました。また、2006年夏にはザルツブルク音楽祭、ブレゲンツ音楽祭にソリストとして相次いで出演しております。

 

「夢の舞台」ブレゲンツ音楽祭への出演を果たした平野和

 

― ブレゲンツ音楽祭には大昔に関わった事がありますので雰囲気はわかります。どのような演目でしたか? 

平野 ご存知のようにブレゲンツ音楽祭は、オーストリアではザルツブルグと並ぶメジャーな音楽祭で、7月半ばから8月半ばまでの一ヶ月間に、人口3万人にも満たない小さな湖畔の町に延べ20万人以上が詰め掛けます。終戦の年に産声をあげた非常に歴史のある音楽祭です。
 私自身、今から13年前の2006年に、オッフェンバックのオペレッタ「青髭」に合唱ソリストとして参加しました。当時、お話を頂いた時は本当に嬉しかったのですが、この企画は私が夢見ていた7000人を収容する湖上舞台でのオペラ企画ではなく、町の小さな劇場での企画だったことで、多少がっかりしたことを覚えています。

 しかし夢の湖上オペラには、それから9年を経た2015年の「トゥーランドット」でデビューすることができました。きっかけは、2015/16年に上演された湖上オペラ「トゥーランドット」の演出を手がけたマルコ・アルトゥーロ・マレッリが、キャスティング会議の際に、私をマンダリンの役に推薦してくださったからです。劇場や音楽祭で役を獲得するには、オーディションで自分をアピールして、何十人もいる候補者の中から勝ち上がるのが常です。しかしこの時は、演出家の鶴の一声で、湖上オペラという夢の舞台への出演がかないました。

 マレッリ氏とは、私のデビューとなった2008年のグラーツ歌劇場公演『魔弾の射手』、フォルクスオーパーで初めて題名役を歌った2012年の『フィガロの結婚』と、私のキャリアの節目節目で素晴らしい出会いをし、良き道に導いてくれる師匠のような存在です。

 湖上オペラでデビューした2015年に、「トゥーランドット」の舞台を18公演務めました。翌年には、「トゥーランドット」の出演に加え、祝祭劇場で上演されたイタリア人作曲家フランコ・ファッチョの歌劇「アムレット」へも出演しました。

 さらにその公演の成功を経て、2017/18年には湖上オペラの「カルメン」にも出演させていただきました。足掛け4年ブレゲンツではお世話になりましたが、どの年も素晴らしい思い出に溢れた夏になりました。

― プレゲンツ音楽祭の魅力は何ですか?

平野 まず、ブレゲンツには一流のアーティストが出演することですね。世界中から集まるトッププレイヤーとの共演は、本当に刺激的でした。そして、ブレゲンツではギャラが出演公演ごとに支払われるのも魅力的でした。普段所属しているウィーン・フォルクスオーパーでは、出演公演数に関係なく月給という形でお給料を頂いております。

 ブレゲンツには、フォルクスオーパーから有給休暇の許可を得て客演していた形になります。フォルクスオーパーでお給料を頂きつつ、客演先のブレゲンツでも多くの出演料を得ることができるのですから、経済的には非常に助かりました。

(筆者注:フォルクスオパーはウィーンのリンク大通りの外、ギュルテルにあり、1898年の開場だ。「トスカ」も「サロメ」もウィーンでの初演はこの劇場だった。二作とも現在の国立歌劇場シュターツオーパー検閲官に上演拒否された作品だった。シェーン・ベルクの一幕オペラ「幸運な手」は1924年が初演で、この劇場だった。由緒正しき劇場だ)

― フォルクスオーパーという歌劇場との契約は得難いものですね。

平野 2012年の新演出版『フィガロの結婚』のタイトルロールをはじめ、在籍12シーズンで約400公演に出演。2017/18シーズンは、フォルクスオーパーの新制作版、ベルリオーズ作曲『ロメオとジュリエット』、再演版『ルサルカ』の水の精、ブレゲンツ音楽祭の湖上オペラ『カルメン』のスニガ、ウィーン楽友協会大ホールでの『ドイツ・レクイエム』のソリストとして出演しております。

 ジャパン・アーツの方も「君はヨーロッパで研鑽を積んで、時々凱旋公演するみたいな形が絶対に良いよ」とおっしゃってくださいました。 

 フォルクスオーパーでは、2012年の新演出版「フィガロの結婚」のタイトルロールを始め、様々な素晴らしい役、舞台を経験することができました。現在在籍12シーズン目に差し掛かりましたが、これまで400公演以上の舞台に出演しました。音楽の都と称されるウィーンの聴衆の前で、常に演奏できるのはやはり幸せなことです。

 このような素晴らしい環境を捨てて、日本を活動の拠点にするということは、今のところ考えてはおりません。日本での所属事務所のジャパン・アーツの関係者も、私がヨーロッパでキャリアをどんどん積んで、ソリストとしての価値を上げることを望んでおります。同事務所に所属して以降、日本での演奏の機会がどんどん増えています。ヨーロッパでの研鑽の成果を日本のお客様の前でも披露できることは、私にとって本当に嬉しいことです。

平野和PHOTO3

「ルサルカ」にて©︎Christine Kaufmann

 

平野和の今後の挑戦と目標

 

― 日本ではクラシック音楽で生活するのは容易ではないと耳にしますから、正しいアドバイスですね。フィギアスケートだと10代がピーク、サッカー選手の場合は20代、野球選手は30代くらいだと思いますが、バリトン歌手というのは何歳まで出来るのですか?

平野 70歳で現役という方々もいます。私はまだ40代なので楽器を作っている段階です。

― ご自分の身体を楽器と見做されるのですね。楽器はどうやって育てていくのですか?

平野 自分の年齢にあったレパートリーを歌うということではないでしょうか。若くして喉に負担のかかる重い役を歌うと、どうしても声帯に問題が生じたりします。

 あとは歌曲などの繊細な表現を求められるジャンルを演奏することを私は心がけています。

 そのために呼吸法の先生から日々のトレーニングのプログラムをもらって実践しています。呼吸法のトレーニングはストレッチに近い運動が多いですね。あとは良く食べ良く寝ることです。私の楽器はまだ発展途上です。今、ようやくスタート地点に立ったという感じです。

 親から授かった楽器を壊さないように育てていく必要があります。

― 大きな目標は何ですか?

平野 ワーグナーオペラの総本山、バイロイト音楽祭に出演することです。私の場合は、まだブレゲンツでも主要なキャストが決まってから順次声が掛かって埋まっていく、という立場です。オーディションも必要です。

― 具体的なバイロイトへの道はどんなものですか?

平野 まず、欧州においてソリストとしての知名度を上げる必要があります。それには、私のホームであるフォルスクスオーパー以外で、客演としての仕事を積み重ねていく必要があります。

 自分にとっての打開策の一つは、来シーズンにロール・デビューする、『魔笛』のザラストロ役を成功させることです。この役をレパートリーに出来れば他の劇場での出演のチャンスはぐっと広がります。そして客演の積み重ねで、後々ワーグナー作品を歌うチャンスも巡ってくるはずと信じています。

 もちろん、オーディションは私のようなランクの歌手には絶対条件で必要とされますし、エージェントのコネも必要です。そして、先ほどのザラストロのお話に関わることですが、まずはフォルクスオーパーという劇場でこの重要な役をやったという実績が必要とされます。そして公演を記録した録画、録音を添付資料として、各劇場に売り込みをすることも必要でしょう。

 

終わりに―経営者に期待するオペラへの支援

 

 エジプトの高僧ザラストロになった平野和が「この神聖な殿堂の中」を歌う姿は容易に想像できる。

 平野和には華がある。立派な日本語を話せるし、恐らく、ドイツ語も立派なものだろう。円熟の70歳まではまだ30年もある。発展途上の「楽器」もどんどん完成に向かうだろう。バイロイト音楽祭も、ブレゲンツ音楽祭と同様に、フォルクスオーパーが休みに入る7月と8月にバイロイト祝祭劇場で行われる。平野和がその舞台に立つ日も近いだろう。

 メジャー・リーグにコテンパンにやられていた日本野球も野茂以降、日本人スター選手を排出しているし、サッカーもテニスも世界レベルに迫った。まさか、のオペラの世界でも地殻変動が起きるだろう。

 経済界に身を置かれる読者諸兄、もっと劇場に足を運ぼう。普段使わない脳の部分に刺激を受けて、明日のビジネスにも役立つ。

 また、経営者の方々はスポンサーになろう。

 ジャパン・アーツの創始者が言ったように、「音楽は人間が生きていくのになくてはならないもの」である。それが、台所でお皿を洗いながら聞くポップスであれ、カラオケの演歌であれ、オペラのアリアであれ、テクノであれ。ジャズであれ。

 そしてウィーンのフォルクスオーパーが休みで平野和が来日する時には是非、その歌声と華のある姿を堪能して欲しい。

 もちろん、ウィーンに旅行して平野和のパフォーマンスに触れるには、こちらのスケジュールを参照されたい:

http://www.yasushi-hirano.com/jp/index.html

 

平野和プロフィール

平野和プロフィール(ひらの・やすし)日本大学芸術学部音楽学科同大学を首席で卒業、卒業時に学部長賞受賞。2000年オーストリア・ウィーン国立音楽大学声楽科へ入学、2003年同大学声楽科修了後、2007年同大学大学院オペラ科を首席で卒業。末芳枝、R.ハンスマン、R.ホルの各氏に師事。オペラではバロックから現代にいたるまで広範囲をレパートリーとし、ウィーン国立音大在学中より数々のオペラに出演。2004年ドイツ・ラインスベルク室内歌劇場国際コンクールで入賞、同オペラ主催の夏の音楽祭で世界的演出家ハリー・クプファー演出のヘンデル作曲「オットーネ」エミレーノ役に抜擢される。2006年夏にはザルツブルク音楽祭、ブレゲンツ音楽祭にソリストとして相次いで出演。コンサート歌手としてもバッハ、モーツァルト、シューベルトなどのミサ曲・カンタータ・オラトリオのソリストを数多く務め、ウィーン楽友協会、ベルリン・フィルハーモニーなど主要なホールに客演。2007/08シーズンよりオーストリア・グラーツ歌劇場と専属歌手として契約。2007年10月の「魔弾の射手」の隠者としてセンセーショナルなデビューを飾る。  2008/09シーズンからは、ウィーン・フォルクスオーパーと専属歌手として契約。2012年の新演出版「フィガロの結婚」タイトルロールをはじめ、在籍10シーズンで約350公演に出演。2008年、2011年にはStyriarte音楽祭で故N.アーノンクールと共演、2012年に出演したヴェルディの歌劇「アルツィーラ」(G.クーン指揮・演奏会形式)が映像化され、その模様がヴェルディ生誕200周年の2013年、世界中にて放映される。2017/18シーズンは、フォルクスオーパーの新制作版、ベルリオーズ作曲「ロメオとジュリエット」のロレンス神父、再演版「ルサルカ」の水の精、ブレゲンツ音楽祭の湖上オペラ「カルメン」のスニガ、ウィーン楽友協会大ホールでの「ドイツ・レクイエム」のソリストとして出演。日本国内では新国立劇場の「影のない女」(冥界の使者)、「ドン・ジョヴァンニ」(レポレッロ)、「アイーダ」(エジプト王)に出演。2018年6月にサントリーホールにて開催されるロシア年&ロシア文化フェスティバルのオープニング公演“ミハイル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団「イオランタ」”にルネ王として出演。高く評価された。(ジャパン・アーツホームページより抜粋)

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