文化・ライフ

 日本人にとって、破れそうで破れないのが陸上100㍍の9秒台の壁である。

 現日本陸上連盟・男子短距離部長の伊東浩司が10秒00を叩き出したのは、もう今から15年も前のことだ。

 「何か別世界にいるような感じでした。夢の中を走り終え、目が覚めると、ゴールの2㍍くらい先にランニングタイムが出ていた。9秒99。アレッて感じでした。まだ力を残していたし、タイムにこだわったわけでもなかった。確実に(準決勝では)一番に入り、決勝では金を取る。考えていたのは、そのことだけでしたから……」

 1998年12月、バンコクアジア大会準決勝。風のように走り去った伊東の目に飛び込んできたゴールタイマーの数字は「9・99」。会場がひとしきり沸いた直後に発表された正式タイムは「10・00」だったが、伊東が決勝に備えて後半を流したこともあり、9秒台突入は時間の問題かと思われた。

 快挙の数日後に会った陸連幹部は「これで20世紀中の(日本人の)9秒台は間違いない」と胸を張った。

 とうに21世紀に入ったが、100分の1秒の壁は恐ろしく厚い。「時間の問題」どころか「永遠の宿題」になりつつある。

 近年は100㍍の話題さえ耳にすることはほとんどなかった。この15年近く、伊東をはじめとする多くのトップスプリンターが9秒台の壁に挑んだが、ことごとくはね返された。

 参考までに言えば、伊東以降の日本人最高記録は2001年7月のゴールデンリーグ第3戦ビスレーゲームズ(オスロ)で朝原宣治がマークした10秒02である。

 この間、世界記録は6度にわたって更新された。現在のそれはウサイン・ボルト(ジャマイカ)が09年世界陸上ベルリン大会でマークした9秒58。比喩ではなく、影すら踏めないような状況が続いていた。

 そこに現れたのが17歳の高校生・桐生祥秀だ。4月29日の織田記念陸上で、日本歴代2位となる10秒01をマークしたのだ。初のシニア大会で、日本人悲願の9秒台に100分の2秒差まで迫ってみせた。

 「いつもより体が軽くて前に進むイメージがあった」

 「10秒1、2は出るかと思っていたが、まさか0秒台が出るなんて……。信じられない」

 記録を出した本人が一番驚いたような表情を浮かべていた。

 その1週間後、17歳は東京・国立競技場で海外の一線級と初めて対決した。

 セイコー・ゴールデングランプリ。このレースには9秒台の自己記録を持つ選手が米国のマイケル・ロジャーズ(9秒85)、バハマのデリック・アトキンス(9秒91)、米国のムーキー・サラーム(9秒97)と3人いた。

 レース前には「3人に引っ張られて9秒台を出すのではないか」と期待の声が上がったが、1・2㍍の向かい風に遮られた。

 それでも10秒4のタイムで10秒19のM・ロジャーズ、10秒24のアトキンスに次いで第3位に入り、1週間前の記録がフロックでないことを証明した。

 レース後、本人は「後半のストライドやピッチをもう一段階上げれば(外国勢とも)勝負できるようになる」と冷静に自らの走りを分析していた。

 聞けば桐生、練習する高校のグラウンドの直線コースは80㍍くらいしかないそうだ。後半の走りに課題を残すのは、そうした理由に依るものなのかもしれない。

 逆に言えば、だからこそ今後の〝のびしろ〟への期待がたかまる。

 10秒01を記録した直後、元100㍍日本記録保持者の朝原は「ラスト4、5㍍で力が入った。気持ちよく走り続けていたら9秒台が出ていたかもしれない」と語っていた。

 桐生は身長175㌢、体重68㌔とスプリンターとしては小柄だが、体幹がしっかりしているためかフォームにブレがない。つまりエネルギーのロスが極めて少ない走りなのだ。これは教えたからと言ってできるものではあるまい。

 あるテレビ番組で小学校時代、マット運動や跳び箱などを得意にしていたことが紹介されていた。バランスのいいフォームや安定した重心は、その頃にかたちづくられたのではないか。少なくともフォームにおいて、今すぐ改善すべき点は見当たらない。

 実は桐生、10秒01を記録した直後、部室の黒板に年内の目標タイムを「9秒96」と書き込んでいる。これは10秒を切ったくらいでは満足しないとの意思表示か。

 9秒台は日本人のみならず、東洋人、いや黄色人種の夢でもある。その夢に最も近い男が17歳の日本人スプリンターとは近年、これほど痛快な話はない。

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