経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

腰掛けOLを起業家として成功に導いた「顧客視点よりも大事なこと」

寿退社が前提で、さしたる目的もなく就職した女性が、今や日本最大級の通訳・翻訳エージェントの社長になった。シナリオライターになりたかったという平凡なOLは、いかにして経営者として独立、成功するに至ったのか。文=吉田浩 写真=佐藤元樹

 シナリオを書くために起業

工藤浩美 「苦労するとはまったく考えていませんでした」

6千人以上が登録する日本最大級の通訳・翻訳エージェントを運営するテンナイン・コミュニケーションの工藤浩美社長は、起業した当時をこう振り返る。

余程の自信家にしか吐けない台詞に聞こえるが、工藤氏の場合はあまり深刻に考えていなかったというのが本当のところだ。何しろ、独立した理由が「シナリオライターとして作品を書く時間を確保するため」なのだから。

工藤氏は大学卒業後の1985年に大手商社に就職。女性は一般職にしか就けなかった時代、周囲のOLと同じく2年後には寿退社し、主婦業に専念していた。その後、単調な生活に嫌気がさし、派遣社員として社会復帰。そこで生涯を通してできる仕事がしたいと思い立ち、通訳者・翻訳者を派遣するエージェント企業に正社員として入社した。

もともと文章を書くのが好きだったという工藤氏は、仕事の多忙さからくるストレス発散のため、シナリオセンターに通い始めた。そのうち、いくつかのコンクールで入賞を果たし、小さな仕事を受けるようにもなった。一方、12年間務めたエージェントの経営陣とは、経営方針を巡って意見が食い違う場面も出てきた。

「自分の理想とするエージェントを創って、自由な時間も持ちたい」

そんな「ユルい」動機で立ち上げた会社だが、起業初日から願望は木っ端みじんに打ち砕かれる。4畳半の一室にPC1台で立ち上げた会社は、ネット回線を引くのにも一苦労。資料の印刷やファックスのために用意した複合機は60万円のリース料を個人負担しなければならず、それまで借金を一度も経験したことがなかった工藤氏は、プレッシャーのために嘔吐したという。

シナリオを書く時間を確保するための独立だったが、仕事を始めるとそんな時間はまったくなくなった。早く見積もりを出したほうが仕事を獲れるため、顧客からの問い合わせには30分以内に返答する。携帯電話の電波が届かないため地下にはいかない。オフィスのある港区以外には極力行かないなど、徹底していた。

「OL時代は仕事が終わって一息ついたときにストーリーが浮かぶことが多かったのですが、独立以後は起きて寝るまで会社のことを考えているので、まったくストーリーが降りてこなくなったんです」

と、工藤氏は言う。

一方で、仕事の面白さに魅了されている自分もいた。映画のチケット売り場を見ても、以前なら「こんな狭いスペースで働けないな」としか感じなかったのが「このスペースで売り上げはどれぐらいか、利益はどうか」などと考えるようになった。自身の中で、仕事とシナリオへの興味が完全に逆転していた。

 鍵は通訳者とのコミュニケーション

顧客はゼロ。あるのは10人ほどの通訳者とのネットワークのみ。起業の翌日から工藤氏は通訳、翻訳の需要がありそうな企業に飛び込み営業を掛けた。そして、約1カ月が過ぎた頃、携帯電話会社のJ-PHONEが英ボーダフォングループに買収されるという新聞記事を見つけた。

「これはチャンスだと。J-PHONEは旧国鉄系の会社だったので、英語が喋れる人は少ないはず。絶対に通訳の需要があると思いました」

早速、J-PHONEに飛び込み営業をかけ初めての受注。気が付けば、年間2億円もの契約となっていた。

大型受注を獲得できたのは単なるラッキーではない。

工藤氏が起業の際に描いていた理想のエージェントとは、「誰よりも通訳者・翻訳者に寄り添う」存在であること。プロの通訳者になるには5年から10年を必要とし、日々勉強を欠かせない厳しい世界だ。失敗すれば2度とお呼びがかからないこともある。

そんな姿を見てきたからこそ、通訳者の立場に立って、良好な関係を築くことに腐心してきた。良い通訳者とのネットワークを持ち、顧客に派遣できればそれが宣伝となり、仕事が拡大していく。J-PHONEのケースはまさにそうだった。

仕事の情報を与えてくれるのも通訳者だった。工藤氏は通訳者を頻繁にランチなどに誘い、通訳を募集している企業の情報を得てから営業を仕掛けることで業務を拡大していった。

顧客を大事にするのは当然だが、活躍してくれるのはあくまでも現場のプロフェッショナルである通訳者だ。そうした視点を持ち、通訳者と深い関係を築いていることが、テンナイン・コミュニケーションの大きな強みとなっている。

 通訳者に選ばれる環境づくりを

同社は2年前に、企業内英会話スクールの事業も開始。顧客企業の社員は、就業時間中にいつでもネイティブの講師から英語を学べるシステムで、既に8社が導入したという。授業内容は企業の事情に合わせてカスタマイズし、社員の上達状況を人事部に定期的にレポート。上級者には通訳トレーニングを取り入れるなど、通訳エージェントならではの取り組みも行っている。

今後の展開についてはこう語る。

「語学を中心として、B to BだけではなくBとCも含めたさまざまなサービスを提供したい。その1つとして、通訳がトレーニングで行うシャドウイングという方法で、一般のユーザーが英語力を高められる教材づくりも行っています」

現在、通訳者・翻訳者の引き合いは多く、需要が供給を上回る状況だ。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年に向けて、さらなる需要の高まりが見込まれる。そうした中でも、「数字に囚われずに、通訳者から選ばれる良い環境を提供していくことに注力したい」という工藤氏だ。

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