経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

帰家穏坐(きかおんざ)

松本紹圭

ホームがブラック化する悪夢

「帰家穏坐」という禅語があります。旅から帰り、本来いるべき家に、穏やかな心で坐すこと。そんな心もちで家に居られたら良いですが、外出禁止となればなおさらのこと、余計に家に居るのが辛くなるのが人情というものです。

アメリカの社会学者、オルデンバーグのサードプレイス議論によると、第1の場所がホーム(家庭)、第2の場所がワークプレイス(職場)であり、第3の場所(サードプレイス)として挙げられるのが、教会、カフェ、クラブ、図書館、本屋、公園、などです。

しかし新型コロナウィルスの影響でテレワークが進む今、何が起こっているかというと、第1の場所であるホームに、第2の場所であるワークプレイスが、雪崩れ込んでくるという事態です。

ツイッターで見かけた「家にいるのに帰りたい」というつぶやきが、それを象徴しています。

都心のオフィスで働く友人は「在宅でテレワークになったんですけど、すごく苦痛。いつオンラインMTGが入ってくるか分からないので、ずっと緊張しながら家にこもって仕事してなくちゃいけない。ずっと監視されている気持ち」と言いますし、以前から自宅での作業がメインだったフリーランサーの友人も「今まではクライアントの稼働に合わせて仕事していたので、朝晩や土日は仕事の時間を減らして自分なりにメリハリをつけていたけど、今はみんながテレワークになったので休みがなくなった」と嘆いていました。

コロナ以降、もはやオルデンバーグの議論の前提は完全に崩れてしまったと言ってよいでしょう。この、ホームのワークプレイス化という事態。ブラック企業で働く人には、ホームがブラック化する悪夢です。

メリハリのない生活のプロ

ところで、生まれた時からホームにワークプレイスが雪崩れ込んだ状態で当たり前に生活してきた人たちがいます。住職です。

文字通りお寺に「住む職」である彼らは、ホームとワークプレイスが渾然一体となっているにとどまらず、地域コミュニティと信仰の聖地性までもごちゃ混ぜになっており、さらにその場所が社会に対するサードプレイスとして機能することを要求されるという、オルデンバーグの想像を遥かに超える過酷な環境で生きてきました。

今回の危機に対するレジリエンス(ストレス耐性)の比較的高い職業カテゴリというのがあると思いますが、宗教者一般もその経験値という意味ではロックダウン耐性が高いかもしれません。コロナショック下での生活の心許なさには日本人の誰もが不安を高めている中、いわば万年ロックダウン状態で今日までやってきたお寺の人々のたくましさには、学ぶべきものがありそうです。

まず物理的には、同じ建物の中でパブリックとプライベートの空間や時間をはっきり分けるというのも、多くのお寺で実践されている住職の知恵です。来客にも義理の両親にもパートナーにも邪魔されない自分だけの空間や時間を持つことは、自分の実家ではないお寺に入った住職や坊守の場合、特に大事にされている気がします。ホームのワークプレイス化が慢性化することに慣れていない人には、少し強制的にでもそういう区別をしてみることをオススメします。

心構えの面でも、住職から学べることがあります。住職はいわば、「メリハリのない生活」のプロです。家庭も職場も地域コミュニティも信仰もすべてがそこにある。かなりの確率でそこが実家だったりもするし、死んでから入る墓すらそこにある。

そんな中、24時間いつ鳴るか分からない檀家さんからの葬儀の電話に備えて、そこにいる。ダラけようと思えば、いくらでもダラけられる環境ではある。叱ってくれる人もいない。しかし、ダラけた住職であることは世の中が認めないし、自分だってそうなりたくはない。ではどうするか。

田村記久恵

イラスト=田村記久恵

ダラけずに済む環境をつくる

ダラけずに済む環境をつくるのです。意志の力でなんとかすればいいかと思うかもしれませんが、仏道とは自分を知ることであり、自分をよく知れば知るほど、自分の意志など当てにならないこともよく分かるというもの。

だから、ダラけずに済む環境を作るのです。自分の意志に頼るよりも、よっぽどその方が長続きします。人から褒められたくて始めた善行は偽善と呼ばれるかもしれませんが、もし生涯続けばそれは立派な善だと私は思います。

私にとっては、それは仲間とともに行うお寺の朝勤です。朝、時間を決めて、お経を読み、掃除をし、お茶を飲む。メニューは違えど、ほとんどの住職は、朝のルーティンを持っているのではないでしょうか。

「戒とは習慣である」「戒を守るのではない、戒に守られるのである」とは、尊敬する先輩僧方から教わったことです。それ以来、私は「お寺とは良き習慣の道場」と定義しています。習慣は、続けて初めて習慣と呼べます。続ける秘訣は何かと言えば、良き仲間を持つことです。みんなで集まることができない状況下では、オンラインで励まし合うのも良いでしょう。

そしてもう一つ、「神仏に頼る」のも良いと思います。たとえ誰も見ていなくても、仏さまが見ている。ご先祖さまが見ている。そういう感覚が、宗教者の生活のリズムを支えているのだと思います。

「どんなときも、あなたは一人じゃない」というのは多くの宗教に共通するメッセージです。神さまでも、仏さまでも、何でも良いのです。自分を見守ってくれると思える存在をホームに招き入れることは、ウェルビーイングを保つ秘訣です。

このように、自分の意志を過信せず、放っておくとダラけてしまうことを前提として、ダラけずに済む環境を作るセルフマネジメントの手法が「プリコミットメント」と呼ばれていることを、私は数年前、オックスフォード大のビジネススクールで世界経済フォーラムの研修に参加した際に教わりました。人間の知恵というのは昔も今もそう変わらないようです。

「帰家穏坐」、本来いるべき家に、穏やかな心で坐すこと。この家というのは、物理的な場所のことではなく、心の収まりどころのことです。どんな時でもしなやかに工夫して生活を送り、自分の心を整えて、本来の「家」に収めたいものですね。

筆者プロフィール

松本紹圭(まつもと・しょうけい)東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。東京大学文学部卒。武蔵野大学客員准教授。世界経済フォーラムYoung Global Leader。海外でMBA取得後、お寺運営を学ぶ「未来の住職塾」を開講。著書に『お坊さんが教える心が整う掃除の本』(ディスカバートゥエンティワン)●Twitter ID shoukeim●komyo.net