経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

脱炭素に「異議」を唱えるトヨタ自動車社長の真意

豊田章男・トヨタ自動車社長


昨年秋に菅首相が旗を振ったことで、日本は「脱炭素社会」実現に向け、大きく動き出したが、これに慌てているのが自動車業界。脱炭素は日本の産業構造を大きく変える可能性があるだけに、業界の盟主である豊田章男・トヨタ自動車社長自ら、懸念を表明する事態となった。文=ジャーナリスト/立町次男(『経済界』2021年3月号より加筆・転載)

菅政権で突如浮上した2050年の脱炭素

政策転換の黒子は経産省

 昨年9月に就任した菅義偉首相は、2050年までに二酸化炭素などの温室効果ガス排出を「実質ゼロ」にする目標を打ち出した。これを受けて経済産業省は、30年半ばに国内で販売する新車をすべて「電動車」とする目標を掲げる検討に入った。

 事実上の規制強化は、自動車業界をはじめ、産業界に与える影響が大きい。日本自動車工業会の豊田章男会長(トヨタ自動車社長)もオンライン会見で、「ビジネスモデルが崩壊してしまう」と懸念を示した。

 環境への配慮という〝大義〟があり、反対しにくい脱・炭素だが、慎重かつ戦略的に進めなければ日本経済に禍根を残す恐れがある。

 「50年までに、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする、カーボンニュートラルを目指す」

 昨年10月、菅首相は臨時国会冒頭の所信表明演説でこう述べた。カーボンニュートラルとは、二酸化炭素の排出量を抑えるとともに森林面積の拡大や新技術による二酸化炭素の吸収量を増やし、両者を完全にバランスさせることだ。

 政策転換の〝黒子〟は経産省だ。「経産省内閣」と揶揄されるほどに同省の発言力が高まった安倍政権が退陣。菅政権では「これまでのようにはいかない」(経産省幹部)という危機感が強かった。引き続き存在感を発揮したい経産省と、独自色を打ち出したい菅氏との利害が一致した結果のようだ。

 経産省は経済成長に資する政策を、環境省が環境に配慮した政策を受け持つのが従来の姿だ。

 だが、したたかな経産省は世界の趨勢が「環境」に向かっていることを十分に認識している。環境省と真っ向から対立せず、エネルギー政策を所管する立場として環境への配慮を少しずつ打ち出すことで、政策的な〝得点〟を挙げることができる。その一つが昨年7月、梶山弘志経産相が表明した、効率の悪い石炭火力発電の段階的な削減だ。

 しかし、環境目標がひと足飛びに引き上げられると、日本の産業競争力に悪影響を与えかねない。もともと、経産省でもこうした警戒感は強かった。

 梶山経産相は再任直後の9月18日の閣議後記者会見で、「30年のエネルギーミックスの目標(太陽光や風力などの再生可能エネルギーの割合を全体の22~24%に引き上げる)は、かなりハードルが高い。実現に向けた取り組みはまだ道半ば。まだ飛んでいないものを、さらにまた引き上げて飛ぼうとするのは、なかなか難しい」と述べていた。

 しかし、菅首相が大方針を打ち出したことで、こうした声は鳴りを潜めることになる。政府全体が「環境配慮」に一気に舵を切り、産業界の声が届きにくい状況になった。

 世界的にも脱・炭素の流れは明らかだ。電気自動車(EV)が普及し、再生可能エネルギーの活用が進んでいる北欧を含む欧州連合(EU)が先行する中、米国ではバイデン氏が次期大統領就任を不動のものにした。

 バイデン氏はトランプ大統領が離脱したパリ協定に復帰する意向を示すなど、環境に配慮した政策を打ち出す構え。米欧が足並みを揃える中、環境政策で既に出遅れている日本としては、高い目標を掲げざるを得ないという事情もあった。

「駆け込み寺」となるトヨタ

 経済成長重視の安倍政権から一転しての環境シフトに慌てたのは経済界だ。特に警戒感を強めたのは自動車業界だった。環境規制が徐々に強化されることは想定済みだが、多くのメーカーの主戦場である米国と日本が飛躍的に環境目標を引き上げることによる影響は甚大だからだ。

 経産省は既に、30年代半ばまでに国内で販売する新車をすべて電動車とする方針のようだ。ここで言う電動車には、トヨタが「プリウス」で市場を切り開いたハイブリッド車(HV)も含まれる見通し。

 そうなると当面は、トヨタの優位性が強まる可能性が高い。トヨタはスズキ、SUBARU(スバル)、マツダと資本提携しているほか、契約を結んだ会社にハイブリッド技術を提供する事業も行っている。電動化技術が低いメーカーにとって、トヨタは〝駆け込み寺〟のようになりつつある。

脱炭素に向けた豊田章男・トヨタ自動車社長の懸念とは

EV化が内包する問題

 しかし、自工会会長として昨年12月に開催したオンライン会見で、豊田氏の顔色はさえなかった。

 豊田会長はまず、「このタイミングに『カーボンニュートラル』を政策の柱に、そして体制も立てられたのは、われわれ自動車業界にとっては大変ありがたい」と歓迎の意を示し、自工会として菅首相の方針に「全力でチャレンジすることを決めた」と説明した。

 しかし一方で、「画期的な技術ブレークスルーなしには達成が見通せない。サプライチェーン全体で取り組まなければ一切、競争力を失うおそれがある」と強調。「大変難しいチャレンジであり、政策的、財政的な支援を要請したい」と話した。

 そして、「EV化でガソリン車を廃止しましょうと、マスコミ各社も対立的に報道している」と指摘。現時点での電動車の主流はHVなのに、トヨタがEVをほとんど販売していないことから、「電動化に出遅れている」と批判されることへのいら立ちを垣間見せた。

 その後の論旨展開で、豊田会長が懸念するポイントが明らかになる。「乗用車400万台をすべてEVにしたらどういう状況になるか」として、試算結果を披露したのだ。

 「夏のピーク時は電力不足が起きる。解消には発電能力を10~15%増やさないといけません。これは原発なら10基、火力発電(の発電所)であれば20基必要な規模だ」と指摘。

 また、「EV生産の完成検査時には、充放電が行われる。1台当たりのEVの蓄電量は家1軒分の1週間分の電力に相当し、これを年50万台の工場だとすると、1日あたり5千軒の電気を充放電することになる」と、生産時の消費電力の大きさに言及した。

 「こういうことを分かって、政治家の方があえて『ガソリン車をなしにしましょう』と言っておられるのか。正しくご理解いただきたい」と、強い口調で述べた。細かな数字の積み上げではなく、内包する問題点も吟味しないままに、大目標を突然、公表した政府に抗議したい気持ちをにじませたようだ。

豊田章男・トヨタ自動車社長
政府の方針転換に異議を唱えた豊田章男・トヨタ自動車社長

サプライチェーン崩壊と価格高騰の恐れ

 そのうえで、「この国でものづくりを残して雇用を増やし、税金を納めるという自動車業界の現在のビジネスモデルが崩壊してしまう恐れがあるということは、ご理解たまわりたい」と、〝警告〟した。

 豊田会長が警戒しているのは電動車シフトではなく、EVシフトであることは明らかだ。現時点ではHVが規制の対象にならなくても、環境への取り組みが進めば今後、「すべてをEVに」という議論に発展しかねないからだ。

 大きな懸念としてはやはり、自動車メーカーを頂点に、ピラミッド状に部品会社などのサプライヤーが配置されている日本特有の「系列」の解体が進みかねないことがある。

 エンジンやトランスミッション(変速機)などの部品は、EVでは全く使われなくなる。また、部品点数が減ることで、日本勢が得意とする「すり合わせ」の技術の重要性が著しく低下すると言われている。デジタル化や製造技術の発達で日本の電機メーカーが中国や韓国の企業に対する競争力を失い、凋落した事例を想起させる。

 また、EVに搭載する電池のコストは大きく、車格の近いガソリン車やHVと比べると割高感がある。価格の上昇が車離れを加速させる懸念があり、日本独自の仕様である「軽自動車」にとっては特に問題だ。

 購入や維持にかかる費用が比較的手頃な軽自動車は、地方を中心に普及が進んでいる「国民車」(豊田会長)と言える存在だが、売価のアップは致命的な需要減を引き起こしかねない。

「バッテリー大国」中国を利する可能性

 何よりも見逃せないのは、現時点でEVのニーズは小さいということだ。

 日本自動車販売協会連合会が集計した昨年1~6月の車名別販売台数(軽自動車を除く)によると、上位50位のうち、EVは42位の「リーフ」(日産自動車)だけ。販売台数は6283台で、首位の小型スポーツタイプ多目的車(SUV)「ライズ」(トヨタ)の約9分の1にすぎない。まだまだ、多くの消費者がガソリン車やHVではなくEVを選ぶ積極的な理由を見いだせていない状況だ。

 鉄鋼業界からも懸念の声が上がった。日本鉄鋼連盟の橋本英二会長(日本製鉄社長)は定例記者会見で、実質ゼロ目標に向けた研究開発について、「個別企業として続けるのは無理だ」と述べた。

 効果的に二酸化炭素の排出量を減らすには、原子力発電所の活用が不可欠で、中長期的にみれば「新設や増設が絶対に必要だ」(エネルギー業界関係者)とされる。だが、衆院議員の任期が今年10月に迫る中、政府・与党は新増設の議論に当面、踏み込まない可能性が高い。こうした態度も、産業界に不信感を抱かせる要因になっている。

 また、電動車の基幹部品である電池は、CATL(寧徳時代新能源科技)などの中国勢が圧倒的な力を持ち、日本の大手メーカーも頼らざるを得ない状況だ。背景には「EV強国」を目標に掲げ、資本主義的なルールを無視しても自国産業の振興に邁進する中国政府のバックアップがある。EVシフトが、「ゲームのルール」を中国が有利な方向に進める側面も否定できない。

 経産省も国内の雇用が減り、産業競争力が低下する事態は避けたい。このため、さまざまな支援策を講じていくとみられるが、〝見切り発車〟のような政策転換をみると、付け焼刃で終わる懸念も否定できない。

 自動車をはじめとする産業界との意思疎通をはかり、時には環境政策のスピードを緩めながら、それぞれの会社が強みを発揮できる環境整備に踏み込めるかが問われそうだ。