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「逆境をくぐり抜けることで身についた社会的責任」池上一夫―(長谷工コーポレーション社長)

池上一夫・長谷工コーポレーション

インタビュー

マンション建設最大手の長谷工は、ゼネコン業界屈指の高利益率を誇る。しかし、かつてバブル経済崩壊時には、会社の存続が危ぶまれるほどの危機に陥った。当時部長職だった池上一夫社長は、何を考え、どう行動してきたのか。そしてその経験は現在、どう生かされているのか。文=関 慎夫 Photo=横溝 敦(『経済界』2021年5月号より加筆・転載)

池上一夫・長谷工コーポレーション社長プロフィール

池上一夫・長谷工コーポレーション
(いけがみ・かずお)1957年生まれ。80年早稲田大学理工学部建築学科を卒業し長谷川工務店(現長谷工コーポレーション)入社。2008年執行役員、14年取締役常務執行役員、17年取締役専務執行役員を経て20年4月社長に就任した。

逆境を乗り越えてきた長谷工の歴史

バブル崩壊後は新聞を見るのが怖かった

―― 長谷工にとってコロナ禍はどのような影響を与えていますか。

池上 サービス関連事業、例えば大規模修繕などはコロナにより先送りになるなどの動きが出ています。その一方で、マンション工事の進捗とテレワークの普及で家時間が増えたこともあり、郊外の広さと環境の良さを求める住宅需要が昨年の夏以降、急速に回復してきました。ですから今期は期初の想定どおりの数字が出せそうです。ただしこれ以上長引くと、所得の減る人が増えてくるでしょうから、住宅需要に影響が出るようかもしれません。

―― 長谷工の場合、バブル崩壊後に多額の負債を抱え、金融機関の債権放棄でようやく命脈を保ってきた過去があります。恐らくその時が長谷工にとって最大の危機だと思いますが、そういう状況で池上さんは何を考え、どう行動していたのですか。

池上 私は1980年に入社し、一貫して設計畑を歩んでいました。バブル崩壊後、経営状態が悪化した時は、部長職でした。もちろん大変なことになっているのは、ある程度分かります。株価も13円まで落ちたわけですから。でも幸いなことに仕事はあったんですよ。当時は首都圏でマンションが年間8万戸供給されていた時代ですので、目の前の仕事をしっかり仕上げようという、その使命感だけでした。技術者ですから、良い仕事をしていれば、最終的には評価してくれる、評価していただければ、次の仕事につながる、それだけを考えていました。

 仕事があったこともあり、社内の雰囲気はそれほど暗くはなかった。それは救いでした。万が一のことは起きないという確信はありました。それでも、毎朝、新聞を見るのは怖かったのを覚えています。自分の知らないところで、会社の今後が決まっているかもしれませんでしたから。

池上一夫・長谷工コーポレーション

会社が厳しくてもやめるつもりはなかった

―― 再建時には人員削減にも取り組んでいます。会社を去ろうとは思わなかったんですか。

池上 私の同期入社は570人です。社員数は約1700人の会社がそれほどの大量採用を行っていた。入社直後の私は、いずれ一国一城の主になろう、ここで勉強して自分で設計事務所を立ち上げ、自分の思い通りの仕事をやるつもりでした。ですからすべてのことが勉強でしたし、実務を一生懸命吸収しようと考えていました。

 でも、会社が厳しい状況に置かれた時には辞めるつもりはなくなっていました。というのも、建設の仕事は自分たちだけではできません。発注者、協力会社、そして長谷工が一緒になって建物をつくっていく。仕事をしゃにむにやるうちに、こうした世界に惚れ込んだというのが、一番正確な表現のような気がします。この会社にいたほうが良い仕事ができて、社会にも貢献できる。そう思ったんですね。

 会社を去っていった仲間もいます。優秀な部下も辞めていく。そうした彼らを見返すということではありませんが、良いものをつくる会社にしていくんだという思いはものすごく強くなりました。残った人間はみなそういう意識だったと思います。

リーマンショックでデベロッパーに技術を売り込む

―― 再建の手ごたえはいつ頃感じました?

池上 なかなか感じることはできませんでした。一度、良くなってきたかな、と思った時に、リーマンショックで再建完了が延びたりもしました。ですから、多くの社員が常に危機感を持って仕事をしてきたと思います。
 それでも強いて言うのなら、新生・長谷工として再誕・躍進するという意味で名付けた「New Born HASEKO」という6年計画をスタートさせた2014年かもしれません。この年、再建過程で発行した優先株を全株消却し、復配も果たしました。

―― リーマンショックの時はどうやって乗り切ったのですか。

池上 リーマンショックを機に大手デベロッパーとの仕事を増やしていきました。それまでは独立系のデベロッパーとの仕事が多かった。長谷工は土地情報の取得を強みとしています。その土地情報をデベロッパーに持ち込んで工事を受注する。ところが大手デベロッパーは土地情報を持っていますので、今までと同じやり方をしていては受注できません。そこで技術を認めてもらおうと考えました。

 当社は過去に66万戸のマンションを建設してきました。その実績を元に、独自の基本仕様をつくってあります。その仕様に基づけば、安く、性能が良く、しかもアフタークレームのこないマンションを建設することができる。ところが、大手デベロッパーの仕様とは違いますから、最初は全部はねられました。

 そこでわれわれは1千を超える項目について資料をつくり、技術的な検証もしていきました。私は設計部門の担当として、その最前線に立っていましたが、一つ一つ丁寧に説明することで、長谷工の技術に納得し、当社仕様を認めていただけるデベロッパーを増やしていきました。これは今、大きな強みとなっています。

逆境を乗り越えた長谷工がこれから目指すもの

マンション専業が高収益の源泉となった長谷工

―― 今では長谷工は営業利益率10%台(2020年3月期)という高収益会社になりました。これはゼネコン界ではトップクラスです。

池上 マンション専業であることが大きいと思います。経営再建時に絞り込みました。

 長谷工は協力会社との関係が非常に強く、バリューアップ活動というものを、東京ではもう25年ほどやっています。協力会社には鉄筋、型枠、内装、外装などさまざまな業種がありますが、業種が異なる会社同士が情報交換を行っています。これにより前工程や後工程で仕事が効率的に進められるだけでなく、われわれの設計部隊にフィードバックしてもらえる。

 例えば、こういう設計にしたらもっと仕事がやりやすくなるし、後の手直しが少なくなると教えてくれる。こうした活動により生産性は大きく向上しました。われわれにとってはコストが下がり、協力会社は同じ期間であれば、より多くの仕事ができるため、実入りが多くなります。

―― そのマンションの長谷工が、昨年、戸建て建売住宅の細田工務店をTOBにより子会社化、最近では「戸建てのことなら長谷工」というテレビCMも放映しています。方針が変わったのですか。

池上 両社ともに住宅をつくる会社です。細田工務店は木造、長谷工は鉄筋コンクリート造と構造は違いますが、住宅設備、ユニットバスや洗面化粧台、あるいは内装材などは共通しています。グループに入ったことで集中購買によるコストメリットが出てきます。

 もう一つの理由は土地です。われわれのところには、マンション用地だけでなくいろいろな土地情報が入ってきます。戸建て用地なら戸建て業者にこれまでは売却してきました。細田工務店がグループ入りしたことで今後こういう土地も事業化できる。こうしたシナジーが期待できます。

新たな事業モデル創出を目指す

―― 最後になりますが、逆境を経験したからこそ得たものはありますか。

池上 社会的責任を大きく意識するようになりました。これが一番、大きく変わった点だと思います。危機を乗り越えないことには社員、その家族、さらには協力会社の社員とその家族など、さまざまなところに影響が及びます。その責任たるや非常に大きなものがあります。あの危機がなかったら、そういう責任感はあまり実感しなかったかもしれませんね。

―― 危機がなかったら、逆に入社時の思いを持ち続け、独立していたかもしれませんしね。

池上 そればかりはどうなっていたか分かりません。ただ、そんなことを考える暇がなかったというのが正直なところです。それほどまでに、目の前の仕事に懸命に取り組んでいた。そんな記憶があります。仕事があるというのはとても幸せなことです。仕事さえあれば、元気も出てくる。経営者の立場としては、何としてでも仕事を確保する。これが一番大事なことだと思います。

 現在は、新型コロナウイルス感染拡大によって、住まい方や住まいに対するニーズが大きく変化・多様化していますので、マンションの間取りや設備などにも創意工夫が求められています。DX(デジタルトランスフォーメーション)を積極的に推進することで、商品・サービスの競争力強化や生産性向上に革新的に取り組み、新しい事業モデルの創出を目指していきたいと思います。