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「何も知らずに入社して仕事で覚えた建設業の面白さ」―天野裕正(鹿島建設社長)

天野裕正・鹿島建設社長

大手ゼネコンの一角、鹿島建設の社長に就任した天野裕正氏は、入社するまで鹿島が何をする会社かほとんど知らなかったという。そこから仕事を覚えるうちに、社会資本を形成する建設業の社会的意義とやりがいに気づいていった。69歳で社長になった天野氏のサラリーマン人生とは――。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(『経済界』2021年11月号より加筆・転載)

天野裕正・鹿島建設社長プロフィール

天野裕正・鹿島建設社長
(あまの・ひろまさ)1951年9月26日神奈川県で生まれる。1975年3月早稲田大学理工学部建築学科卒業。1977年3月早稲田大学大学院(建設工学)修了。1977年4月鹿島建設入社。2007年11月横浜支店次長。2009年4月執行役員建築管理本部副本部長。2012年4月執行役員中部支店長。2013年4月常務執行役員中部支店長。2014年4月専務執行役員東京建築支店長。2017年4月副社長執行役員東京建築支店長。2021年6月社長に就任

天野社長が見る鹿島と建設業界の現状

2世代目に入った日本の超高層建築

―― 社長交代の発表が3月、就任が6月末でした。改めて抱負を聞かせてください。

天野 鹿島は日本初の超高層ビルの「霞が関ビル」を施工しましたが、竣工から既に53年がたちました。そして国内2番目に着手した「世界貿易センタービル」も当社が手掛けましたが、現在、解体工事が行われており、その後再開発されます。つまり超高層ビルも2世代目、新しい時代に突入したということです。そのタイミングで社長に就任したわけですので、伝統を守りながら、いかに次代につなげていくべきか、そういう思いを新たにしています。

 建設業界のミッションは社会資本の形成ですが、鹿島でなければできない、あるいはお客さまから鹿島に発注したいと思われるような会社でありたいと考えています。

―― そのためには何が必要ですか。

天野 やはり技術です。それも実用的な技術です。例えば現在保有している有効な特許の数は、建設会社の中で一番です。この技術の鹿島という意識は社員全員に浸透しています。これを維持し、さらに高めていきたい。研究開発チームにも、実用的なものを目指してほしい。それも明日明後日という時間軸と、5年後あるいは10年後という時間軸の両方で開発してほしいと伝えています。

―― 貿易センタービルの話が出ましたが、今後、次々と超高層ビルが建て替えられるわけですね。

天野 高さ100メートル以上のビルが超高層ビルですが、今後、首都圏には建て替えられる可能性のあるビルの一群が多くあります。その受注も期待していますが、一方で、使い続けるビルもあります。その場合、制震装置を設置するなどして、リニューアルして使っていくことになります。鹿島では既に、新宿の「新宿三井ビル」に制震装置を設置しています。この制震装置は機械式で電気系統をなくしてあるので、故障が起きにくい。こういう技術も当社が業界ナンバーワンだと自負していますし、2008年と18年には日本建築学会賞も受賞しています。

新たな技術を積極的に取り込む

―― 技術といえば、今ゼネコン各社はいずれもDXに力を入れています。鹿島はいかがですか。

天野 建設業というのは、何千年も続いてきたベーシックでエッセンシャルな産業ですから、エレクトロニクス業界のように、破壊的なイノベーションが起きるということはないと思います。新しくできた商品が世界の市場を席巻し、古い商品を駆逐するということもない。ある意味ローカルな産業です。でもその一方で、超速の進歩を遂げるITの技術を使い、鹿島の仕事のやり方を変えていくことは大切です。

 今後、少子高齢化が進み、さらに人手不足が深刻化します。さらには働き方改革関連法の時間外労働の上限規制が、24年から建設業にも適用されます。ですから労働時間も短縮していかざるを得ません。これに対応するためにも、DXにより自動化を進め、生産性を上げていく必要があります。特に土木のほうではそれが顕著で、遠隔操作や全自動無人化を進めていきます。このように建設業の中に新しい技術を取り入れていかなければ時代から取り残されてしまいます。

―― ほかにはどんなところに力を注いでいきますか。

天野 環境問題にも積極的に取り組みます。鹿島が中国電力、デンカ、ランデス工業と共同開発したコンクリートに「CO2ーSUICOM(スイコム)」があります。その名のとおり製造時にCO2を純粋に吸収する機能があり、CO2排出量を実質ゼロ以下にできます。それ以外にもスマートシティのような総合的な街づくりにおいても貢献できることがたくさんあるはずです。そこにどう対応するかが課題であるとともに、可能性があると考えています。

―― 何か新しい事業を始めようという考えはありませんか。

天野 建設会社は、建設や土木だけでなく、建物、およびその周辺について幅広い知見を持っています。その中から新しい試みや新しい発想が社内から出てきてもいいのではないかと思っています。

 例えば、工事現場に警備員は不可欠で、何人も働いてもらっています。でも自分たちで警備会社をやろうとはしなかった。今は警備会社は非常に大きな企業になっていますが、自分たちでできた可能性はなかったのかと思うこともあります。ですから新規事業ができるかどうかは別として、今どういうことが起きているのか、どんな新しい技術が生まれているのか、常にアンテナを張っておかなければならないし、そこに投資を惜しんではいけないと考えています。

天野社長の転機と鹿島の将来像

サラリーマン人生の転機は浜松時代

―― 天野さんは早稲田大学大学院を出て鹿島に入社したのが1977年です。なぜ鹿島だったのですか。

天野 最初は設計家になりたかったのですが、そのためには意匠デザインなどのセンスが必要になってきます。学生時代に自問自答した時に、どうやらその才能はないのが分かった。そうなるとやはり建設会社ということになります。昔の本社ビルには「鹿島」と大きく書かれていて、それが首都高からよく見えた。それで馴染みがあり、どうせならここに入りたいなと。ですから鹿島がどんな会社でどんな仕事をしているか、よく分からずに入社しています。そこから仕事をしながら建設業のことを学んでいきました。同時に仕事の面白さにも気づいていきました。

―― 人生の転機になったような仕事はありますか。

天野 3月の社長交代会見でも申し上げましたが、30年ほど前の静岡県の浜松駅前の「アクトシティ浜松」の開発工事です。当時、鹿島が施工している中で最大の案件で、4つのゾーンそれぞれに大型ビルを建設するというプロジェクトでした。私は前線ではなく後方支援だったのですが、バブル時代だったこともあり、職人を集めることもむずかしかった。現地に事務所を建てるわけですが、食堂をどのくらいの大きさにすればいいのか分からない。会議室はどうするか。私にとっては経験したことのない大型プロジェクトで何も分からない。それを想像で補いながら、事務所をつくったのですが、結果的には2回ほど増築しました。このプロジェクトに5年携わりました。

―― サラリーマン人生にとってどのような意味がありましたか。

天野 規模には驚かなくなりました。その後の東京建築支店時代には「東京ポートシティ竹芝」、「Otemachi One」、「東京ミッドタウン日比谷」などの大型案件にいくつも携わりましたが、アクトシティの経験があるから、どのくらいの人数が必要かとか、全体的な工程のイメージなどが想像できる。皮膚感覚でこんなもんだろうというのが分かるわけです。これは助かりました。

―― 大きな失敗をしたことは。

天野 あの時、もうちょっと努力しておけば違う結果になっていたかもしれない、というのはありますが、決定的な失敗はないですね。これは私が慎重な性格であることも大きいと思います。時にはいやがられるほどしつこく確認しますし、業務のことであれば、それで嫌われても気にしません。

 例えば部下が出してきた書類の中には、耳ざわりのいい文章できれいにまとめたものがあったりします。そういうときは厳しく指導します。建設という仕事は現場にものをつくっていかなければなりません。それなのに机上できれいにまとめただけの書類では物事はうまく進まない。ですからしつこく確認します。

―― 前社長の押味(至一)会長とは、若い頃から苦楽を共にしてきました。社長交代で押味さんは天野さんへの信頼を口にしていました。

天野 ずっとではないけれど、最初の横浜支店の先輩でしたし、浜松の時も私はフルにいたけれど、会長は3年勤務していました。その後、会長が横浜支店長の時は私はそこの建築部長ですから、確かに一緒にいる時間は長かったですね。影響もたくさん受けましたし、感心するところも多々あります。

グループ各部署に自画像を描かせる理由

―― 最後に、天野さんが次の社長にバトンタッチするまでに、こんな会社にしておきたいという姿を教えてください。

天野 われわれは施工部門だけでなく、設計部門、エンジニアリング部門を持っています。これは海外にはない形態で、多くの国では設計会社と施工会社、エンジニアリング会社、そしてそれをつなぐコンサルティング会社にわかれている。それをゼネコンは一社で提供できます。

 例えば工場を建てたいというお客さまに対して、機械をどのように配置すればいいか、それに対して建物はどうあるべきかなど、さまざまな形で提案することができます。建てたあとは維持管理メンテナンスも行えます。そういう総合的なソリューションを提供できる能力があるわけですから、この連携をさらに深めていきたいと考えています。

 そのためにも鹿島グループの全社員に、グループの目指す姿を浸透させていこうと考えています。そこで今、各部署に自画像を描かせています。社員はみな、自分の部署がどのような部署で何をやっているか、感覚的には分かっている。でもこれを言葉にして定義づけることで、日常的に自分たちがやっていることを抽象化する。それによって他の部署との関連性が見えてくる。関連性が見えてくると、その中から新しい展開が出てくるかもしれない。そこを期待しています。