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垣内俊哉 ミライロ社長 障害を価値に変える「ミライロID」で実現する世界

垣内俊哉・ミライロ

経済界が主催するベンチャービジネスコンテスト「金の卵発掘プロジェクト2021」で、グランプリを受賞したミライロ社長の垣内俊哉氏。自治体によって仕様がバラバラな障害者手帳をアプリに一元化し、バリアフリー社会の前進に大きく貢献する。本連載では、サービスが生まれた背景と垣内氏が目指す未来像について紹介していく。

垣内俊哉・ミライロ
かきうち・としや 1989年愛知県生まれ。生後間もなく「骨形成不全症」の診断を受け、骨折と入院を繰り返す日々を送る。高校1年で休学し大阪の病院で完治のための治療を行うも、自分の足で歩くことを断念。その後立命館大学に進学し、同級生の民野剛郎氏と2009年に起業、10年に株式会社ミライロを設立する。13年、一般社団法人日本ユニバーサルマナー協会を設立し代表理事に就任。19年「ミライロID」をリリースし、多数の企業に導入を進める。

障害者手帳を一元化し利便性を高める

 「骨形成不全症」――これが、生まれながらに与えられた垣内俊哉氏の宿命だ。先天的に骨がもろく、変形しやすくなるという遺伝性の病気で、発症する確率は2万人に1人。ちょっとした衝撃でも骨折することがあり、女性の場合は出産にも大きなリスクが伴う。神経や肺機能に影響を及ぼすことも多いという難病だ。親族であれば必ず発症するわけではないものの、垣内氏の家系では少なくとも明治時代から世代を超えてこの病気が受け継がれてきたという。

 その垣内氏が社長を務めるミライロが2019年にリリースしたサービス「ミライロID」が、数多くの企業から注目されている。自治体ごとに283種類もある障害者手帳をアプリとして一元化し、交通機関や公共施設など、さまざまな場面で使用できるようにしたものだ。

 「導入事業者はリリースから約1年半で3399事業者(2022年1月末時点)となり、ユーザー数も数万人に増えています。都内では駅構内にポスターを貼っていただいたり、車内広告を出していただいたりしています。全国の自治体でも、障害福祉課で配られるガイドにミライロIDについて記載いただけるなど、かなり認知は広がってきました」と、垣内氏は語る。

 障害者手帳の仕様がバラバラであることの弊害は大きい。レジャー施設の窓口などで手帳を提示しても、本物かどうかの確認のために何分間も要することはザラだ。アプリが利用できる環境が広がれば、障害者にとっての利便性向上だけでなく、企業にとっても業務負担が大幅に削減できるメリットがある。

 車いすで生活を送る垣内氏だからこそ生まれたサービスと言えるが、ミライロIDが実現するまでにはさまざまな紆余曲折があった。垣内氏が起業するまでの経緯、そして事業家として成長してきた軌跡を辿ってみる。

「歩きたい」から「歩かなければ」へ

 垣内氏は愛知県に生まれ、同じく骨形成不全症の父親と弟、そして母親の4人家族で育った。

 自身が周りの友人たちと違うことをはっきりと意識したのは小学校1年生の時。入学式に車いすで参加したのが自分だけだったのが理由だが、当時はまだ歩行ができたため不便さはそこまで感じていなかったという。ただ、小学生時代から骨折するたびに入院を繰り返していたため、友達と会えないことに対する精神的ダメージはあったと振り返る。

 家族も、障害を理由に垣内氏の行動を制限することはなかった。特に母親は特別支援学校ではなく普通の学校で学べるよう、教育委員会にかけ合うなど尽力した。車いすに乗っていること以外は、1人で出かけることも放課後に友達と遊ぶことも楽しむ、普通の小学生だった。

 しかし、学年が上がり自我が芽生えるようになると、時折、教師や友達が見せる同情の態度に違和感を覚えることが増えていった。例えば、掃除当番をサボったときに周りの友人と違って自分だけ怒られないこともあった。そして、中学校3年生の修学旅行のとき、自身が障害者であることを強烈に意識せざるを得ない、決定的な出来事が発生する。安全上の理由から、親の同伴がなければ修学旅行に行ってはいけないと学校から通達されたのだ。渋々承諾したものの、結局、気分が沈んだまま2泊3日の修学旅行を1日で切り上げて帰ることになった。

 「その時に、車いすユーザーであることの不便さと歩けないという障害を克服する必要があると心から感じました。『歩きたい』との思いはもともと持っていましたが、『歩かなければいけない』という義務に変わったんです。障害を理由に分け隔てられるのであれば、それを克服することで打破しなければという気持ちになりました」

 「絶対に歩けるようになる」という強い気持ちが芽生えた垣内氏は、その後入学した高校を休学。周囲の反対を押し切り、大阪の病院に入院して手術、リハビリに励むようになった。だが、結局歩けるようにはならず、絶望のあまり3度の自殺未遂を起こす。

 「自殺まで追い込まれるというのは思考力を伴っていない状況ですから、その時は何も考えることができず、ただただ悲観していました」

歩くことを諦めてからの人生のリスタート

 自殺未遂を起こすまでどん底にいた垣内氏が立ち直り、起業家の道を歩むようになるのに重要な役割を果たした人物が何人かいる。その1人が、この時病室でたまたま一緒になった「富松さん」という高齢者だ。悲嘆に暮れ、病室で毎晩泣いていた垣内氏に富松さんは「君はちゃんと登りきった先の景色を見たのかい?」と、言葉を掛けた。それまでほとんど会話をしたことがない人物だったが、不思議なことにその言葉は心に響くものがあった。

 「自分はまだ人生で何も成しえていない。富松さんに『人生はバネで、いつかバネは伸びるんだ』と言われて、今自分は縮んでいるだけなんだと思えたんです。そこからは成果の見えないリハビリを頑張ることができましたし、まずは自分のできることをやろうと」

 富松さんの言葉がスっと心に入ってきたのには理由があった。それは垣内氏を子ども扱いせず、ずっと対等に接してくれたからだという。それまで多くの大人たちから、時には同情の目で見られ、壁を感じることが多かった中、何も成しえていない17歳の自分を1人の大人として扱ってくれたことに喜びを覚えた。

 富松さんとは入院中の約半年間だけの付き合いで、その後の消息は分からない。しかし、「できれば起業家として頑張っている今の姿を見てほしかった」と漏らすほど、垣内氏にとってその出会いは大きかった。

 「退院するころにはもう歩くことはスッパリあきらめていたので、歩けないことに対する受け止め方が全く違っていました。すべてやり切ったという達成感の下で次に行こうと」

 リスタートの目標をどこに置くか。まだ何者でもない自分の価値を示すためには何ができるのか。垣内氏が描いた夢――それが起業だった。(次号へ続く)