経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

いま何より必要なのは円の価値を守ること ‐野口悠紀雄

野口悠紀雄

(雑誌『経済界』2022年7月号 巻頭特集「日本経済8つの難題」特別寄稿)

野口悠紀雄
野口悠紀雄 一橋大学名誉教授
のぐち・ゆきお 1940年、東京に生まれる。63年、東京大学工学部卒業。64年、大蔵省入省。72年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院教授などを経て、一橋大学名誉教授。近著に、『リモート経済の衝撃』(ビジネス社)、『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社)などがある。

輸入物価が高騰し転嫁できず企業も苦しい立場に

 ウクライナ情勢の悪化によって資源価格が高騰し、そのうえ円安が進むので、日本は物価高の洪水に巻き込まれる。その半面で、賃金は上がらない。金融緩和政策から脱却し、円の価値を守ることが緊急の課題だ。

 電気料金や食料品価格を中心に、値上げラッシュが始まっている。消費者物価上昇率は、今後、ますます高まるだろう。

 こうなったのは、輸入価格が昨年の秋以降上昇しているからだ。それは、アメリカの景気回復によって原油価格が高騰し、また、アメリカが金融緩和政策から脱却しつつあるために、円安が進んだからだ。

 今年の2月以降、ロシアのウクライナ侵攻によって、この動きに拍車がかかっている。

 4月12日に発表された3月の輸入物価の対前年上昇率は、33・4%となった。

 円安になれば、円建ての輸出売上高が増加するため、企業にとって望ましいことだと、これまで考えられてきた。しかし、円安になれば、輸入原材料の価格も上昇することに注意が必要だ。

 もし貿易収支がゼロであれば、この2つは打ち消しあって、企業にとって円安はプラスでもマイナスでもないことになる。

 ところが、これまで、企業は原材料価格の上昇を製品価格に転嫁してきた。そして、最終的には消費者の負担としてきた。

 しかも、円建ての輸出売上高が増加するにもかかわらず、それに合わせて賃金を上げることもなかった。

 円安が企業の利益を増加させるのは、このようなメカニズムによる。このため、円安が企業にとって望ましいと考えられてきたのだ。しかし、昨年秋からの円安については、これとは違う事情が発生している。

 輸入価格の上昇が激しいことと、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で経済全体の需要が弱まっているため、企業が原材料価格の上昇を完全には価格に転嫁できないという状況が発生しているのである。

 どの程度の転嫁が可能かは、企業の価格交渉力による。一般的に言えば、中小零細企業が大企業の下請けとなっている場合には、原材料価格の上昇を製品価格に転嫁するのは難しく、この分を負担せざるを得なくなっていると考えられる。

 つまり今回の円安は、企業にとっても望ましくないものとなっているわけだ。

 このため、企業としては、賃金を引き上げようとしてもできない。

 他方で、輸入価格上昇の少なくとも一部分が消費者に転嫁されていることは間違いない。冒頭で述べたように消費者物価が上昇するのは、そのためだ。

 したがって、物価が上昇する半面で賃金は上がらないという、きわめて苦しい事態になる。

 円安が、消費者にとっても企業にとっても、望ましくないものになっているのだ。

円安の弊害は今に始まったことではない

 日本は、これまで20年間にわたって円安政策をとり続けてきた。

 もともと、自国通貨安が国益であるはずはない。韓国やトルコでは、自国通貨暴落のために、経済が破綻寸前にまでいったことがある。こうした経験があるために、国民は、自国通貨安に対して強い危機感をもっている。

 ところが、日本では、円安が経済のためによいという間違った考えが信じられてきた。このような考えが支配的になったのは、1990年代の後半からのことだ。

 この頃、中国が工業化に成功して、安い労働力を使った安価な工業製品を世界に供給し始めた。

 これによって先進国の製造業は大きな打撃を受けたのだが、日本は、「安売り戦略」でこれに対応しようとした。つまり、賃金を抑え、為替レートを円安に導く。そうして輸出価格を引き下げなければ、中国の安い工業製品に太刀打ちできないと考えたのだ。

 そして、こうすれば、高度成長を支えた重厚長大型製造業を、そのままの形で残せ、雇用も維持できると考えた。本来必要だったのは、産業構造を改革して、中国との差別化を実現することだったのだが、それを怠ったのだ。

 産業構造の改革という「手術」が必要だったにもかかわらず、それがもたらす痛みが怖かったために回避し、「円安」と賃金固定という「麻薬」に頼って、古い産業構造と古い企業を温存したのだ。

 こうして、日本は、経済成長と賃金上昇ではなく、古い産業構造の温存と雇用の維持を優先したことになる。

 世界が新しい経済に向かって変化していく中で、日本は変化しないことを望んだのだから、世界の中での地位が下落するのは、当然のことだ。そして、その結果が今の状況だ。改革は、待ったなしの段階に達した。
個別物価対策でなく
金融緩和からの脱却が必要

 この事態に対して、政府は物価対策を講じるとしている。しかし、円安を放置したまま個別の物価に対策を講じても、効果はない。

 それだけでなく、対策が講じられる対象とそうでないものとの間で、不公平がまかり通る。しかも、そのために巨額の財政支出が使われる。

 物価が急上昇する原因は、資源高と円安なのだから、これに対応しない限り、物価上昇を防ぐことはできない。

 この2つの原因のうち、原油価格などの資源価格については、残念ながら、日本にはどうしようもない。

 しかし、円安については、コントロールすることができる。

 いま一刻も早く必要とされるのは、金融緩和政策からの転換を宣言し、金利の上昇を認めることによって、円安の進行を食い止めることだ。

 これは喩えて言えば、次のようなことだ。

 ダムが放水を始めた。下流では川の水位が上昇して堤防が決壊し、町が浸水している。それに対して、慌てて土嚢の積み増しをしている。しかし、その前に緊急に必要とされるのは、ダムの放水を止めることだ。

 これは、誰の目にも明らかなことだ。しかし、ダムの管理者は、放水し続けることが下流の利益になるとして、放水を止めない。そのうち、下流の町はすべて水浸しになって破壊されてしまうだろう。

 円安が進んだため、これまで低下し続けてきた日本の国際的な地位は、さらに低下した。

 統計的な数字がまだ得られないので正確な評価はできないのだが、韓国、台湾の一人当たりGDPが日本を抜いた可能性が高い。

 韓国や台湾が豊かさの点で日本に迫りつつあり、賃金や生産性では、既に韓国が日本を抜いている。この傾向が加速し、一人当たりGDPという最も重要な経済指標にまで及んできたわけだ。

 日本経済改革の必要性は、一刻の猶予もない焦眉の急となった。

 これまで、円安は企業の立場からは望ましいと考えられていたため、円安政策からの転換が、政治的に難しかった。しかし、既に述べたように、現在は、企業にとっても円安が望ましくないものとなっている。

 そもそも、中央銀行が設立されているのは、自国通貨の価値を守るためだ。日銀は、その最も重要な責務を放棄している。

 この機会をとらえて、20年以上の期間にわたって続けられてきた円安政策からの脱却を図るべきだ。