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「マイナビ」ブランドを確立し社員数は20年間で25倍に マイナビ 中川信行

中川信行 マイナビ

就職・転職・進学情報の提供や人材派遣・人材紹介などのサービスを提供するマイナビ。今では社員数1万人を数える日本を代表する人材関連企業だ。会長の中川信行氏は、昨年まで20年にわたり社長を務め、マイナビを大きく成長させた。その20年間の軌跡とは――。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2022年9月号より)

中川信行 マイナビ
中川信行 マイナビ会長
なかがわ・のぶゆき 1949年生まれ。77年毎日コミュニケーションズ入社。99年常務を経て2001年社長に就任。20年間務めた後、昨年会長に就任した。この間11年に社名をマイナビに変更した。

パソコン雑誌のお陰でインターネットで先行

―― 昨年、20年間務めた社長を降り、会長に就任しました。会社も随分変わったでしょう。

中川 マイナビも随分大きくなりました。私が入社したのは1977年。創業から4年後で、社員数も30人程度でした。もともとは毎日新聞の関連会社(旧社名は毎日コミュニケーションズ)でしたが、何でもやっていいという雰囲気でした。当時は日中国交回復からあまり日もたっておらず、中国が一種のブームになっていたので、中国関連のビジネスを提案したところ、それが通り、10年以上、携わりました。その後、新卒の就職ガイドの需要が大きくなって、バブルの終わった頃には社員数が430人ほどに増えたものの、その後10年、社員数はほとんど変わりませんでした。

―― バブル破裂後の日本の低迷と同期してしまったわけですね。

中川 「失われた10年」と言われたほどの低迷期ですから、企業も採用を手控えました。ただ幸いパソコンブームが起きて、『Mac Fan』や『PC Fan』といったパソコン関連雑誌がよく売れた。そのお陰で、就職情報事業に加えて出版事業という2つ目の柱ができました。ですから事業規模としての成長は止まりましたが、会社の構造としてはバランスの取れたものになりました。

―― 現在の主力サービスである「マイナビ」の前身にあたるインターネットでの就職情報提供サービスを開始したのは1995年です。

中川 パソコン雑誌をやっていたお陰で、インターネットなど新しいメディアに興味を持つのが早かった。そのため他社に先駆けてインターネットに対して取り組むことができ、その後の会社の発展に大きく寄与しました。今から振り返れば、1990年代の10年間は、そのための助走期間だったような気がします。

―― 当時はインターネットによるマッチングはなかったんですか。

中川 そういう時代がくると語られてはいたけれど、実用化しているところはほとんどなかったような気がします。当社にしても、最初は紙媒体の付録のような形でスタートしました。そこからどんどん大きくなっていきました。

―― 紙とインターネットでは、営業のスタイルも違うでしょう。

中川 新卒用の就職情報誌の発行は年に1回です。締め切りを迎え、印刷したらそれで終わり。ところがインターネットの場合は、いくらでも情報を追加できるので、その後もクライアントさんとの付き合いが続きます。その過程で、まだホームページを作成していない企業の作成を請け負うなど、そこから波及したビジネスも始まりました。その意味では企業との結び付きははるかに大きくなったと思います。

―― 2001年に社長に就任します。何を変えましたか。

中川 私が社長に就任したのと同時期に、他の人材マーケットへと参入しました。新卒向けの就職情報だけだったのを、転職情報、アルバイト情報、人材紹介と人材派遣の5つの事業へと広げていった。それに伴い事業規模も社員数も増えていきました。最初はそれぞれ、違うサービス名だったのですが、2007年にマイナビに統一します。

―― その翌年、男子プロゴルフトーナメント「マイナビABCチャンピオンシップ」が始まり、石川遼選手がプロ入り後初優勝を飾ります。中川 当時はまだ、マイナビというブランド名はそれほど知られていませんでした。そこで一人でも多くの人に知ってもらうためにゴルフトーナメントを始めました。そうしたら、石川遼選手が優勝してくれた。彼のお陰でテレビの視聴率は10%を超えました。彼が参戦する以前からは考えられない数字です。マイナビにとってもいい宣伝になりました。

独立企業の意思表示で毎コミからマイナビへ

―― 11年には社名もマイナビにします。

中川 当時いろいろ調べたら、社名にコミュニケーションズとつく会社は、大企業の関連会社であるのがほとんどでした。でも毎日新聞の出資比率が10%強とだんだん少なくなっていました。それに毎日コミュニケーションズという社名は長い。そこで短く覚えやすく、しかも独立した会社であることを示すために、社名変更に踏み切りました。これにより社員の意識も相当変わったと思います。

―― 当時の社員数は。

中川 2千人ほどです。社長就任時は430人でしたから、10年で5倍に増えました。

―― 順風満帆だったわけですね。

中川 いいえ。2008年のリーマンショックの時は大変でした。

 リーマンショックは9月でしたが、10月末に先ほど話したマイナビABCチャンピオンシップを開催しました。ただ08年中は、それほど影響が出ていません。ところが年が明けると、急速に数字が落ち始めた。そのため、新年が始まって2週間後ぐらいに、年明けの挨拶を訂正しました。最初の挨拶は大変かもしれないけれど頑張ろうといったような、まだ余裕のある内容でした。ところがそれどころじゃなくなった。そこで緊急事態を宣言しました。

 ただしその時に、ボーナスは減るかもしれないけれど、人は絶対に減らさないと伝えました。当時既に、いろんな会社がリストラに取り組んでいました。でも当社はやらない。だからみんなで乗り切ろうと社員に呼び掛けました。結果的に2年間、赤字となりましたが、その後はV字回復です。これは人を減らさなかったおかげで、もし減らしていたら、社員のモチベーションが全く違ったと思います。

―― 昨年、会長になった時の社員数は。

中川 約1万人です。ですから社長として最初の10年間で5倍に、その後の10年でさらに5倍になった計算です。今では各事業が、それぞれ独自に成長できるまでになりました。

―― 新卒情報サイトの掲載求人数では、人材ビジネスの巨人、リクルートを上回ったとも言われています。どんな手を打ったのですか。

中川 私は社長になる前は出版事業にいたので、人材のことを詳しくは知りませんでした。でもだからこそ見えてくる部分もある。新卒マーケットで重要なのは、学生の反応です。そこで当社では、大学回りを一生懸命やった。以前は担当者が10人前後でしたが、それを80人にまで増やしました。そうやって愚直に活動をしていると、徐々に求人件数も増えてくる。

 そしてこの愚直さこそがわれわれの強みであり、マイナビがここまで成長できた原動力だと思います。