戻ってきたインバウンド、そして関西万博の盛況もあり、旅行業界は元気を取り戻した。しかし「コロナ前と今では大きく違う」というのは日本旅行の吉田圭吾社長。コロナ禍によって発想を180度転換した結果、ソリューション事業という、旅行事業に次ぐ第2の柱が育ち始めた。Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年12月号より)
吉田圭吾 日本旅行のプロフィール

よしだ・けいご 1967年生まれ。90年神戸大学法学部を卒業し西日本旅客鉄道入社。大阪旅行センターを皮切りに旅行部門を歩く。2001年日本旅行入社。14年総務人事部長、16年執行役員総務人事部長、19年執行役員東北地区担当兼日本旅行東北社長、24年3月常務ソリューション事業本部長などを経て、25年6月に社長に就任した。
「発地発想」と「着地発想」180度転換した考え方
―― 本誌が発売される時は、大阪・関西万博も幕を閉じています。日本旅行にとってどのような意味がありましたか。
吉田 日本旅行は今年創業120年を迎えましたが、その記念すべき年をこのような大きなイベントで飾ることができたのはとても意義深いと感じています。もちろん国内外多くの人に日本旅行を利用していただきました。
もう一つ、万博をやってよかったと思うのは、日本のポテンシャルをより多くの人に知ってもらうきっかけになったということです。コロナ前から、多くのインバウンドの方が大阪や京都など関西地方を訪れています。でも今回、万博を体験することで、日本をより深掘りすることができたのではないでしょうか。それが日本に対するさらなる興味につながったとしたら、リピーターとなって再び日本を訪れてくれるかもしれません。旅行業界にとっては非常に大きなことです。
―― しかもコロナ禍で大変な苦しみを経てだからなおさらです。そのコロナの時代、日本旅行はソリューション事業という新しい試みを始めています。吉田さんは今年6月に社長に就任しましたが、それまでソリューション事業本部長を務め、現在も兼務しています。日本旅行にとってソリューション事業はどのような存在なのですか。
吉田 コロナによって、われわれは考え方を大きく変えざるを得ませんでした。何しろ旅行需要が消滅したわけですから。パンデミックの始まった2020年当時、私は日本旅行東北の社長を務めていました。その2年前に赴任して地域に根差した営業を目指していたのですが、コロナで仕事がすべてなくなってしまいました。
その中で自分たちに何ができるのか。地域住民や自治体、あるいは地場の会社の意向を聞くところから始めました。その結果はっきりと分かったのは、今まで自分たちには発地の発想だけで、着地の発想がまるでなかったということです。発地、つまり東北に住んでいる人たちを東京や大阪に送りだすことが自分たちの仕事だと思っていて、日本全国の人を東北に呼び込む努力をしてこなかった。地域密着といいながら、地元にお金を落としてもらおうという考えがあまりなかったのです。
―― 発地と着地では考え方がまるで違うのですね。
吉田 そこで考えを180度変えて、コロナの中でも地元にお役に立てることをしよう、というのが社会課題解決のもともとの発想です。そこでまず始めたのが、罹患者が宿泊療養する施設の運営です。罹患者が一気に増えたことで、入院病床はすぐにいっぱいになりました。といって自宅療養では病状が悪化した時が心配です。その一方で、ホテルや旅館は閑古鳥が鳴いていた。仮に宿泊者の中に罹患者がいたら、施設を閉鎖せざるを得ないのが当時の状況でした。だからホテル側も宿泊者の受け入れに消極的でした。
われわれにはホテルや旅館のネットワークがあります。これを利用して、一棟まるごと借り上げて、そこに罹患者に泊まってもらう。その後、軽症患者向けの宿泊施設の一棟借り上げは全国に広がっていきますが、その第一号はわれわれが携わった、仙台市作並温泉です。ここからソリューション事業が始まりました。
旅行会社として培ったネットワークと調整能力
―― 社員の中には、「われわれは旅行代理店だ」と反発する人もいたのではないですか。
吉田 まったくいなかったとは思いません。でもこのままでは会社が存続できなくなるという危機感が強かった。しかもわれわれにはできることがある。さらにいえば、宿泊療養施設の運営にしても、旅行代理店の仕事にしても、ホスピタリティという意味では同じです。ですから社員も理解してくれました。
―― 日本旅行のソリューション事業で有名なのが、東京・大手町に自衛隊が設置したコロナワクチンの大規模接種センターに携わったことです。
吉田 2021年に入ってからワクチン接種が始まりました。この時私は東京に戻っていましたが、防衛省の人たちとは旅行の手配などでお付き合いがありました。その中から、大規模接種センターに協力してほしいという話が出て、お手伝いすることになりました。確か始めるまで1カ月もない時期でしたが、われわれは旅行会社として多くの自治体や教育機関、企業とつながっています。こうした複数の関係者の方々と交渉・調整する機能を有しています。この機能を最大限発揮することで、大規模センターを無事スタートさせることができました。これ以外にも、国・自治体が実施するワクチン接種をパートナーとともに支えています。
―― ワクチン接種は終わりましたが、その後、ソリューション事業はどうなったのですか。
吉田 地域への誘客はもちろんですが、人口減少など地域が抱える課題に対し、解決策を提示しています。あるいは自治体と包括連携を結んで「まちづくり」を行ってもいます。その根底にあるのは着地発想。どうやって地域のお役に立つかが原点です。
人事部時代の失敗で学んだ「全体最適」
―― ところで吉田さんは、神戸大学を卒業後、西日本旅客鉄道(JR西日本)に入社しています。鉄オタだったのですか。
吉田 違います。JR西日本に入社したのは1990年です。その3年前、国鉄が分割・民営化されJRが誕生しました。生まれたばかりの会社ですので、ある意味ゼロイチの仕事ができるのではと考え、入社を決めました。
―― 2001年には日本旅行に転じています。
吉田 JR西日本は日本旅行の筆頭株主で、非常に近しい関係です。しかも私は最初の配属先が大阪駅構内にあった大阪旅行センターで、旅行部門を歩いていました。その後、日本旅行と近畿日本ツーリストの経営統合の話が進みます。これを担当するため日本旅行に転籍しました。ただしその後、統合は中止になるのですが、私はそのまま日本旅行に残り、今に至っています。
外から見た日本旅行は社員同士の仲も良くとてもいい会社でした。ただその一方で業績に対する厳しさに欠けるとも思っていました。そしていざ入ってみると、外から見るのとまったく同じ。私は人事部門の配属となったので、その良さを残したまま厳しさを兼ね備える会社にするにはどうするか、は大きなテーマでした。
―― 日本旅行東北社長になるまでは、一貫して人事畑です。人事の面白さ、醍醐味とは何ですか。
吉田 意識したのは業績を向上するための人事です。社員を異動させることで、それがどう業績につながるか。ですからある部署であまり活躍できなかった人が、異動先の新天地で生き生きと仕事をして業績も上げる。そういう姿を見るのは本当にうれしかったですね。
―― 失敗の経験はありますか。
吉田 支店の規模によって支店長の資格が変わってきます。A支店の支店長の資格がaで、B支店の支店長資格をbとします。しかし人事の上で、A支店からB支店への異動ということもあるわけです。この場合資格もbになるのですが、それまではaのままにしていました。それをある時厳格化して、支店と資格を完全に一致させたのですが、これが大きな反発を招きました。先ほど言ったように日本旅行には厳しさが必要だと考えていましたが、実際には、制度や資格の運用にはある程度の遊びがあったほうがいい。それが若かった私には分からなかった。でも、実行したところ社内がぎくしゃくする。そこですぐに元に戻しました。この時から仕事について、もう一段深く考えるようになりました。
仕事ですから、どんなに一生懸命にやったところでうまくいかないこともあります。あるいは理不尽なことも必ずある。こうした時に杓子定規にダメなものを排除する、あるいは無理をしてでも筋を通す。これは一見正しいかもしれませんが、逆に組織がおかしくなることもある。そうではなく、全体最適の観点から改めて見てみる。それを心がけています。
これは社長になった今でも同じです。社長ですから当然決断しなければならない時がある。その時は部分最適ではなく、社員のためになるか、会社のためになるか、社会のためになるか、全体最適にはAとBどちらを選ぶべきなのか。これが判断基準です。日本旅行は滋賀県生まれです。近江商人の「三方よし」の精神は常に意識しています。
―― 前任の小谷野さん(悦光・現会長)は4年で社長を交代しました。吉田さんも最低そのぐらいは務めるはずです。そして次代にバトンタッチするまでに、日本旅行をどんな会社にしていたいですか。
吉田 次の世代というよりは次の次の世代、もっと長い目でみれば100年後、あるいは120年後を生きるための土台をつくっていきたいと思います。コロナ禍という大変な危機を迎えたことで、否応なしに変化を迫られた結果、ソリューション事業という新しい柱が誕生しました。その結果、今まで以上に地域と密着した会社になれたと思います。地域社会に貢献することは日本に貢献することになる。
われわれは日本旅行です。その社名の重みを感じながら、経営していきたいと考えています。

