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海外での経験から得たもの--島田 精一氏(日本ユニシス特別顧問、津田塾大学理事長)

日本ユニシス特別顧問で、津田塾大学理事長の島田精一さんをゲストにお迎えしました。数々の要職を歴任される一方、ビジネスマン時代は海外で生命の危機に何度か晒されるなど、壮絶な経験をお持ちの方です。今回は、若き日のイタリア、メキシコでの経験を中心にお話を伺いました。

島田精一氏の半生 ナポリに憧れて総合商社に入る

島田精一

島田精一(しまだ・せいいち)1937年生まれ。東京都出身。61年東京大学法学部卒業後、三井物産入社。三井物産本社取締役情報産業本部長、副社長CIO(最高情報責任者)などを経て日本ユニシス社長に就任。そのほか住宅金融公庫総裁、住宅金融支援機構理事長などの要職を務めた。現在は日本ユニシス特別顧問、津田塾大学理事長などを務める。

佐藤 父の時代から、島田さんには大変お世話になっています。

島田 最初に佐藤正忠さんにお会いしたのは、1980年代後半に三井物産の経営企画室長を務めていたころでした。佐藤先生は当時、人材発掘に非常に興味を持っておられて、広報から「佐藤正忠先生からインタビューを受けろ」と言われたのが最初の出会いで、その後も継続的にお付き合いさせていただきました。

佐藤 本当にありがとうございます。島田さんは三井物産副社長、日本ユニシス社長、住宅金融公庫総裁、津田塾大学理事長など、華麗なるご経歴を歩まれていますね。

島田 いえいえ(笑)。ただ振り返ってみると、運というか偶然というか、産、官、学の領域をすべて経験させていただくことになり、幸運だと思います。

佐藤 三井物産に入られた経緯は。

島田 学生時代にゲーテの『イタリア紀行』に感銘を受けまして、ずっとナポリに行きたいと思っていたんです。当時、海外に行くのに一番早いのは商社に入るか、外交官になるかでしたが、実家は祖父の代から繊維問屋で商売をやっていましたし、性格上も自分は官僚には向いていないと。あと、図書館で見た文献に「人の三井、組織の三菱」と書いてあったのを見て、僕は組織じゃなくて人のほうがいいと(笑)。入社3年後にナポリ大学に入学させてもらいましたが、その後の人生でも世界中でいろんな経験ができ、思う存分やってこられた気がします。

苦しさを乗り越えれば将来につながると語る島田精一氏

佐藤 イタリア時代のご経験をお聞かせください。

島田 ナポリ留学の後、63年からミラノで機械の販売を担当し、自動車メーカーのフィアットまで、130キロの道のりを毎日のように通って、3年がかりでようやく長期契約を取ることに成功しました。ところが、ニクソンショックが起きて変動相場制に移行したために、そのままドル建てで契約すればウチが大損することになってしまったのです。それで契約を円建てに変更してもらうよう先方に必死にお願いして、ドル建ては変えられないが、少し値段を上げてもらう約束を何とか取り付けることができました。そのまま行けば何億円も会社が損をしますから、あの時は本当に会社をクビになるんじゃないかと思いましたね。ただ、若いころにそういう経験をしたお蔭で、自分が責任者だったらどうするか、考えて仕事をするクセがつきました。

島田精一佐藤 20代で、しかも外国で責任あるポジションに就いたことが役立ったわけですね。

島田 どんなときも言い訳はできないですから。起きたことに対して、前向きに一生懸命に取り組んでいけば必ず解決できるということを学びました。

佐藤 その後赴任したメキシコでも、壮絶な経験をされていますよね。

島田 年にメキシコ三井物産の副社長だったころ、ビジネス上のトラブルに巻き込まれて、私を含む4人が投獄されてしまいました。当時メキシコは債務危機で、経営が苦しくなった取引先企業が関連機関を巻き込んで虚偽の事件をでっち上げたのです。僕個人にも会社にも大変な事件でした。結局195日間投獄され、生命の危機もありました。ただ、それを乗り越えたことで、仕事で失敗しても、生きるか死ぬかのあの時に比べれば大したことないじゃないかと思えるようにはなりましたね。あえてそういう経験を志願する必要はないですが、若い人たちには「仕事で苦しい経験をしたときはチャンスだと思いなさい、乗り越えれば将来に必ずつながる」と言っています。

「島田は何をやってるんだ」と言われても自らを鼓舞

佐藤 海外で経験を積まれた後は、米ハーバード大学に留学されましたね。

島田精一

島田精一(しまだ・せいいち)1937年生まれ。東京都出身。61年東京大学法学部卒業後、三井物産入社。三井物産本社取締役情報産業本部長、副社長CIO(最高情報責任者)などを経て日本ユニシス社長に就任。そのほか住宅金融公庫総裁、住宅金融支援機構理事長などの要職を務めた。現在は日本ユニシス特別顧問、津田塾大学理事長などを務める。

島田 1993年にインターネットが商業解禁される前の86年、今はICTと呼びますが、ハーバードでITに出合いました。ウォーレン・マクファーレン教授の講義を受け、これからはITが分からないと経営ができない、という考えに感銘を受けたのです。

ITは単に決算書などをつくるための道具ではなく、経営の中核になるものだと。実はその前にメキシコで投獄されていた時、やることがないので本を300冊読んだのですが、その中にマルチメディアの本も含まれていました。その後、ハーバードの大先生に出会ってITを勉強する機会に恵まれ、非常に運が良かったと思います。

佐藤 ただ、誰もITはおろか、パソコンも分からない時代でしたから、帰国後はご苦労されたとか。

島田 情報産業開発部長になってから3年間は何をやっても社内で稟議が通らず、92年に本部長になりましたが、全然利益が出なくて、「島田は何やってるんだ」と言われるわけです。自分は楽観主義者ですが、事業は赤字になる、投資した会社もダメになるで、本当に大変でした。ただ、そこでナポリやメキシコでの経験を思い出し、「朝の来ない夜はない、何とかなるさ」と考えることができたんです。

例えば、今では日本で最大の衛星放送会社となったJSAT(現スカパーJSAT)という会社をつくった時は、三井物産としても多額の投資を行ったのですが、なぜ商社が衛星通信会社をやるのかと反対の声もありました。でも、事業をやらないと会社の将来はない。創業以来の中間業者型のビジネスモデルから、事業型のビジネス中心に転換していく必要があったのです。その改革をしたから総合商社は生き残れました。その後も50代で経営企画部長として、60代で経営企画専務として2度改革の場面に立ち会えたことは幸せだと思っています。

佐藤 出社前に体が動かなくなるほどのプレッシャーを抱えていた時、奥様の励ましが大きかったのだそうですね。

島田 今考えるとワイフに助けられましたが、一生頭が上がらなくなりましたね(笑)。

島田精一流リーダー論とは

佐藤 華やかな経歴の裏には大きな苦労があったのですね。

島田 偉そうなことは言えませんが、困難を一つひとつ乗り越えていくのが人生ではないでしょうか。

2001年に日本ユニシスに来た時も、ITもハードからサービスへの大きな転換期でした。でも、技術者にはプライドが高い人が多いため、社長が変えろと言うだけでは変わらない。それでも危機感を共有するために「そんなことやっていたら会社が潰れるぞ」と、必死になって繰り返し言い続けたんです。三井物産の時もそうでしたが、何度でも繰り返す。それで下の人も、社長は本気だと感じるわけです。そして、言い続けるだけでなく実行することが大事です。住宅金融公庫でも、津田塾大学でも、同じようにやってきました。

佐藤 島田さんが考えるリーダーの条件とは。

島田 まずはビジョン。組織が向かう方向を描く能力です。そして実行のためのプランを、自分だけでなく社員と一緒に作り、実行する。PDCA(Plan・Do・Check・Actionという事業活動の「計画」「実施」「監視」「改善」サイクルのこと)の歯車を回すという能力が、非常に重要だと思います。



島田精一と佐藤有美対談を終えて

柔和な笑顔からは想像できないほど、過酷な経験を重ねてきた島田さん。これからも尊敬する経営者として、人生の師として、指導を仰ぎたいと思います。

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