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大役を任され続けた男の「覚悟」と「信念」―丹羽宇一郎(伊藤忠商事元社長)

伊藤忠商事の社長、会長、そして民間企業出身として初の中国大使を務めるなど、数々の要職を歴任してきた丹羽宇一郎氏。重責を担う同氏を支えたのは、読書と実務経験で培った膨大な知識、そして、正しいと思うことを最後までやりきるという強い信念だ。構成=吉田 浩 Photo=森モーリー鷹博

丹羽宇一郎氏プロフィール

丹羽宇一郎

にわ・ういちろう 1939年生まれ、愛知県出身。名古屋大学法学部卒業後、62年伊藤忠商事入社。食料部門に主に携わり、98年社長、2004年会長に就任。会長退任後、相談役を経て現在は名誉理事。05~10年認定NPO法人国連WFP協会会長、06~08年経済財政諮問会議民間議員、07~10年地方分権改革推進委員会委員長、10~12年中華人民共和国駐箚特命全権大使など、数多くの要職を務める。公益社団法人日本中国友好協会会長。

丹羽宇一郎氏と日中関係

中国とのかかわりが深かったから書けた著書

神田 このたび、『戦争の大問題』(東洋経済新報社)という本を出版されましたが、丹羽さんには、戦争の記憶はあるのでしょうか。

丹羽 終戦の年の2月ごろが名古屋大爆撃で、今でいう小学校に上がる直前、幼稚園修了の頃になります。確かな記憶ではないのですが、空襲の時に防空壕に入った記憶はおぼろ気ですが残っています。今や、社会にいるほとんどの人は、戦争を知らないという時代です。だからこそ、わずかでも知っている世代が書き残しておかないといけないという気持ちがありました。

神田 以前にも多くの方が戦争体験を著書として残されています。

丹羽 そういった著作をたくさん読んだのですが、違和感があったのです。戦争の真実だといって、悲惨な殺し合いだったとか、国のために戦ったということを書き残しておられる方もいます。

しかし、私自身多くの先輩がたにお話を伺い、さまざまな遺物にも触れる機会があったのですが、戦死と伝えられている人の圧倒的に多くの方々は、戦って死んだのではなく、飢餓や現地での病気で亡くなっている。遺言もたくさん残されていますが、「お国のために」「天皇陛下万歳」といった内容の遺書はむしろ少ない。妻や子どもたち、両親や祖父母、兄弟、恋人といった親しい人への想いを綴ったものがほとんどなのです。

私は伊藤忠商事時代に中国と深く関わり、伊藤忠を辞めてからは中国大使として、さらに深く中国と接するようになりました。戦争のことが気になるようになったのは、大使を辞めた後です。

神田 大使として中国との関わりが深かったからこそ、書けたということでしょうか。

丹羽 戦争に関する本を読むようになると、私が見知っている中国とイメージが違ったのです。中国でも日本軍が少なかった地域では、あまり日本のことを悪く言う人はいない。

一方、日本軍がたくさん入ったところではとても嫌われている。でも、一人一人を見ていると、日本人と似ている部分もたくさん見つかる。個人と付き合っていると、全く印象が違うわけです。

それは、きっと戦争という環境のせいだと思います。人は集団になるとたやすく狂う。判断力を失う。そして、深い禍根を残す。だからこそ、絶対に戦争をやってはいけない。最近、自衛のためには戦わざるを得ないのではないかという風潮もありますが、何としても戦争は避けなければならないものです。

神田 そういう想いを伝える著書なのですね。ところで、丹羽さんは、今、日中友好協会会長、グローバルビジネス協会会長なども務められていますが、最も力を入れておられることはどんなことでしょうか。

丹羽 2017年に日中国交正常化45周年、18年に日中平和友好条約締結40周年を迎えます。まさに今こそ、日中関係を考える時です。互いに同じ人間だということを理解すべきです。それは日本人が中国人を理解するだけではなく、逆に中国人にも日本を理解してもらわないといけない。それが、全くできていない。

尖閣諸島の問題も、近世以降は日本が実効支配していてそれは間違いない。では明代は、もっと前の漢の時代はというと、話が違ってくる。ではどこで線を引くのか。これは互いに主張だけを続けても解決しません。日本は領土問題は存在しないという立場ですが、領土問題があると嫌でも直視して、対応しないといつまでも平行線のままです。

大役に就くと問題が起きる運命

神田 丹羽さんは伊藤忠商事に入社されて、社長、会長にまでなられて、退職後は中国大使という、普通の人とはかなり違う経歴をたどられています。自分の将来についてのイメージはできていたのでしょうか。

丹羽 仕事をしていて、いつか社長になってやろうとか考えたことはないです。ましてや中国大使なんて、です。よく、入社したときに出世して、いつかは社長になってやるなんて言う人がいますが、そういう人で社長になった人をあまり知りません。

大使については、サラリーマン時代に商社マンとして食料を扱っていて、中国ともビジネスが多かったので、そうした経験を買われたのではないでしょうか。官僚がする仕事ではなく、民間の発想での仕事を期待されたのだと思っています。伊藤忠時代の経験と人脈もありますし、経営感覚、ビジネス感覚を持って、日中関係を考えなければいけないということだったと思います。

神田 当時の政府は、そういった発想に基づく日中関係を築きたかったのでしょう。しかも、丹羽さんが大使として赴任されていた時期は、反日運動が激しい時期でもありました。

丹羽 私への襲撃事件もありました。そういう時期だからこそ、毛色の違う大使が求められたのでしょう。

神田 おかしな話ですが、丹羽さんが中国大使として赴任されると尖閣諸島問題が起きました。その前に伊藤忠商事の社長に就任された時は、3950億円の不良債権が明るみに出た。丹羽さんが大役に就かれると大問題が起こるのですね。そういう大きな問題に直面したときの覚悟の決め方というのはあるのでしょうか。

丹羽 伊藤忠の社長を辞めた頃に考えたのですが、残りの人生は社会のため、国のために使おうと決めました。だからある意味、覚悟はできていた。

問題に直面したときに大切なのは、まず常識と良識です。これに則って対応することが前提になります。もうひとつは、自分の心に忠実に、ということです。これはロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』の言葉です。若い頃にこの作品を読んでいて、この言葉がずっと心に残っていました。

例えば、お金のため、出世のため、そんなことのために自分にうそをついて生きていったとして、それでいいのか。絶対に嫌ですよね。だから、お世辞は言わないし、正しいと思ったら、口に出す。そうして、常識、良識を持って対応するしかありません。

丹羽宇一郎氏の信念とは

嘘をついてはいけないと叩きこまれた

神田 そうした考え方に、子どもの頃の影響はあったのでしょうか。

丹羽 やはり、誰しも家族の影響は大きいと思います。実家が書店だったので、本は比較的身近な存在でしたし、両親や祖父母の言葉や働き方を見てきました。大人とはこういうものだという、最初の認識はその姿です。影響を受けないほうがおかしい。父は厳格な人で、食事中に少しこぼしたりするとものすごく怒られました。そして、祖父母も嘘を許さない人でした。そういうことは、今でも強烈に覚えています。嘘はついてはいけない。正直に生きるんだ。

神田 では、その後は一度も嘘をつかれたことはないのでしょうか。

丹羽 それが、一度だけあります。まだ20代の頃にニューヨークへの赴任が決まっていて、それまでにやらなければいけない仕事がありました。ある日、「おい丹羽、あれは終わったのか」と上司に聞かれたのですが、実はやっていなかった。でも、やっていないと答えたら、ニューヨーク赴任が取り消しになると思って、「やってます」と言ってしまった。

結局、なんとか帳尻を合わせることができたのですが、それまでは生きた心地がしませんでした。あまりにプレッシャーが大きくて、二度と嘘はつくまいと思ったものです。ただ、私は「白い嘘」はあると思っています。違うことを言うのではなく、「知っていて言わないことがある」ということです。これは、社長時代にはありました。大使時代も「これは口に出してはいけない」ということはあり得ます。嘘をつくのではなく、言わないこと、言えないことがある。これは白いうそですね。

本を読むためにあえて遠くに住む

神田昌典

神田 丹羽さんの過去の発言で「アリのように働き、トンボのような大局観を持って」という言葉があったと思います。懸命にアリのように働くことと、大局観を両立させることは難しいと思うのですが。

丹羽 正確には、20代の頃はアリのようにがむしゃらに働きなさい。そして早く仕事を覚えていく。それから30代になったら、複眼で大所高所から仕事を見るようにしなさい。いろんな人の視点で、多角的に物事を見る力を身に付けなさいということです。

そのためには、専門の学者に負けないくらい勉強しなければならない。そこで必死に学んで、40代を超えると次の段階に入る。そこで人間の血が流れた判断ができるようになるんです。そういう段階でないと、人の上に立ってはいけません。これは、作家の城山三郎氏に教えられたことです。

神田 「人の血が流れた判断」とは?

丹羽 人の血が流れた判断ができるということは、基本的に反権力です。弱いものの味方をしろということです。ただ、これは権力を否定するものではなく、諫言なんです。権力を憎むのではない。社長は社内では大きな権力ですが、それでも会社のために諫言が必要です。

神田 30代で学者に負けないくらい勉強するという話ですが、丹羽さんは当時から日経新聞で食糧事情のレポートを連載されるほどでした。

丹羽 ニューヨーク赴任時代も、アメリカや世界の食糧事情を学ぶのに、図書館でしか読めないような本までコピーを購入して読んでいました。あまりに貴重な本で持ち出し禁止だったので複写をお願いしたら、本を買う数倍のお金が掛かったこともありました。

神田 帰国後も大変な勉強をされて、読書量はすごかったと伺っていますが、仕事が忙しい中でいつ、本を読まれていたのでしょう。

丹羽 実は通勤時に電車の中で読んでいました。そのために、わざわざ職場まで電車で1時間はかかる郊外に家を買いました。始発だとまず座れますから、本を読みやすい。帰宅時も必ず途中で空いてきて座れるので本が読めました。

神田 それでどんな本を読んでおられたのでしょうか。

丹羽 若い頃は、背伸びをして『思想』『世界』なんていう堅い雑誌を読んだ時期もありました。でも、時間がたつと忘れています。背伸びをしているだけで、本来、関心がまだなかったんでしょう。そういう読書は身につかない。だから、人にどんな本を読めばいいのかと相談されると「その時その時で違うんだよ」と答えます。時代によって感動、感激は違いますから、その時に読みたい本を読むのが一番の正解です。

知識より大事なのは諦めない心

丹羽宇一郎と神田昌典

神田 大企業の社長、会長、大使という要職を歴任されて、人の上に立つ能力というものはどうやって身に付くものだとお考えですか。

丹羽 ある有名大学経済学者の研究で、35年間200人を調査したそうです。その結果、子どもの頃から優秀な人でも大人になったら普通だったり、逆に子どものころは目立たなかったのに大人になったら立派な経営者になったりする人もいる。でも、経営者になるような人は共通して、忍耐力、諦めない心があったといいます。知識も大事ですが、それ以上に、物事に取り組む姿勢が大切だということだと思います。

神田 最後に、今の子どもたちに薦めたい本、あるいは自分の子ども時代に印象に残った本で薦めたい本はあるでしょうか。

丹羽 1冊の本というものではないですね。それよりもあらゆる本に触れることができる環境を用意してあげたい。それは偉人伝でもいいし、漫画でもいい。何でもいいから、いつでも好きな本、興味を持てる本を手に取ることができるようにしてあげたい。それと、身近な大人、つまり親が本を日常的に読んでいる姿を子どもに見せることです。親の姿は大切です。最後に、諦めない心、どんなに長い本でも読み始めたら最後まで読むということも大事です。

神田 諦めない心、それを大人が示してあげるということですね。

(かんだ・まさのり)経営コンサルタント、作家。1964年生まれ。上智大学外国語学部卒。ニューヨーク大学経済学修士、ペンシルバニア大学ウォートンスクール経営学修士。大学3年次に外交官試験合格、4年次より外務省経済部に勤務。戦略コンサルティング会社、米国家電メーカー日本代表を経て、98年、経営コンサルタントとして独立、作家デビュー。現在、ALMACREATIONS代表取締役、日本最大級の読書会「リード・フォー・アクション」の主宰など幅広く活動。

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