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小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長「イノベーションを起こすために“人間とは何か”を問う」

現在、新型コロナウイルスが猛威を振るい、観光産業をはじめ多方面に大きなダメージを与えている。それ以前には米中摩擦などもあり、日本経済の先行きはより不透明になっている。経済同友会代表幹事時代から危機感なき日本に警鐘を鳴らし続けている三菱ケミカルホールディングスの小林喜光会長に、改めて日本の進む道について聞く。聞き手=古賀寛明 Photo=山内信也(*本インタビューは2020年2月20日に実施しました)

小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長プロフィール

小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長

(こばやし・よしみつ)1946年山梨県生まれ。71年東京大学大学院理学系研究科相関理化学専攻修士課程修了。ヘブライ大学、ピサ大学留学後、74年三菱化成工業(現・三菱ケミカル)入社。96年、三菱化学メディア社長、2007年三菱ケミカルホールディングス社長を経て、15年より会長。前経済同友会代表幹事。総合科学技術・イノベーション会議議員、規制改革推進会議議長など公職も多く務める。理学博士。

日本の現状に対する小林喜光氏の視点

デジタル化で遅れる日本

―― 現在、新型コロナウイルスによる経済への影響が心配されていますが、東京五輪の終わりとともに日本経済の先行き不安も顕在化していくのではないですか。

小林 既に2019年の秋くらいから米中貿易摩擦の影響で、鉄や化学といった素材系はじめ、日本企業の業績はスローダウンしています。昨年11月の業績予想と今年2月の予想を比べても、多くの企業が悪化しています。

 そこに輪をかけて新型コロナウイルスが発生した。今年は東京五輪がありますが、このVUCA(ブーカ・先の読めない)といわれる時代の中で、今は、これから起こる最悪のシナリオを想定して未来に備えるべきだと思います。

―― グローバル化、デジタル化、ソーシャル化いずれも日本は遅れていて、その危機意識がないとおっしゃられていますね。

小林 グローバル化に関して言えば、そういう時代だという認識こそあるけれども、政治にしても企業にしても、世界を相手にする交渉やグローバルな舞台での発言といった意味ではまだ存在感が薄い。

 しかし、圧倒的に遅れているのはデジタル化。何しろ、まだマイナンバーカードの普及率が15%ですよ。銀行口座を開くにも、マイナンバーカードを提示した上でまだ印鑑が必要とかね。デジタルリテラシーというか、感覚が鈍すぎますよ。日本人は空気を読むとか、和を保つといったことを重視しすぎて、論理を突き詰めたゼロイチのデジタルの世界になかなか移行できない。これが一番の問題ですね。

―― デジタル化に成功しているといえばどこの国ですか。

小林 例えば韓国や中国は既にキャッシュレス決済比率が相当高い。また、契約や決済の際の本人確認も、中国は指紋認証や顔認証が急速に普及していますし、インドに至っては顔認証、指紋認証を組み合わせた個人識別システムに12億人が登録しているといわれます。

 中国の監視カメラの使われ方が良いか悪いかは別にして、日本はシステムの導入の過程において圧倒的に遅れているのです。

 長く培ってきた貨幣とか印鑑とか、それなりに信用もあった日本の文化・制度を打ち破ることができない。日本のようにデジタル化を10%、20%と段階的に普及させていこうとしたら、その間に世界から取り残されてしまいます。

 だから、普及には政治の力が必要なのですが、国民の意識がなかなかそれを受け入れない。インド、中国は言いだして4、5年で劇的に変わる。その違いをもっと意識すべきでしょうね。「非連続に進化するためにはどうするか」、といった議論が必要です。

変わらなければ日本は置き去り

―― 日本は変われると思いますか。

小林 変われるかどうかではなく、変わらなければ世界から遅れてしまう。戦後、奇跡的な復興を遂げ技術大国、経済大国となった日本のあらゆる指標がGDPをはじめ、この5年、10年で下がってきています。

 研究開発費も論文数も、1人当たりの購買力平価GDPなどシンガポールはもとより台湾より低い時代です。

 海外に目を向けずにスマホの中を見ていれば、日本は結構心地いい国なんだと思う。でも井の中の蛙。

 留学生の数を見ても分かります。インド人は40万人が海外で学んでいる。中国人は80万、90万人が海外へ留学する。一方日本の留学生は、韓国よりも少なく3万人を切る人数しかいない。これは由々しき問題です。

 今はまだ過去の遺産と、ある程度の内需があるから良いかもしれない。でも、人口減少が進む5年先、10年先は危険です。

日本の教育と社会の問題点はどこにあるのか

日本人に必要な知的ハングリーさ

―― 日本人の危機感のなさを考える時に、小林会長のイスラエルへの留学経験も影響していますか。

小林 ヘブライ大学に留学したのは1972年です。翌73年の10月に第四次中東戦争が起こるのですが、当時のイスラエルの人口が約300万人、周りを取り囲むアラブ諸国は3億人いました。

 イスラエルからしたら、敵の数は100倍です。学生は大音量でラジオをかけて、世の中の動きをウオッチしながら実験していた。みな自分が国を守るという意識を持って研究していたわけです。ゲバ棒ふるって大学紛争をしていた日本人からしたら驚きですよ。「造反有理」って言って、先輩たちを吊し上げて反逆することが正義でしたからね。

 イスラエルでは国を守らなければ自分たちが地中海に放り投げられてしまうという危機感が常にあります。第二次世界大戦のさなかには、ホロコーストによって600万から800万のユダヤ人が虐殺されていた。話し言葉としては消滅していたヘブライ語を復活させ、建国とともに公用語の一つとした。

 民族として生き残ろうという強い想いと緊張感を持つユダヤの人々と日本人とでは環境があまりにも違う。当然ながら逆境に置かれた者は生き残るために必死の努力をする、能力が磨かれるわけです。日本には、幸か不幸かそれほどの厳しい環境はないので、そこは若い人を責めても仕方がないですが。

―― では、どうすれば。

小林 戦争をすることでも仮想敵国をつくることでもなく、知的好奇心を刺激することが大事だと思うんです。

 今はモノがあふれる飽食の時代ですから物質的には満たされています。従って、物質的な欲とは離れたところで、人生における、高度なゲームと言っても良いのかもしれませんが、

 まだ知らぬ世界を探求したいという知的ハングリーさを養う。そういう知的な好奇心を刺激することでAIやバイオ、量子コンピューターなどに徹底して挑み、世界の最先端をいく人材を育てていく。こういった姿勢を国として持つことが日本の目指すべき姿でしょうね。

イスラエルの教育と日本の教育の違い

―― 量子コンピューターの発明にも日本人が関わったとか。

小林 初期の原理を考案する段階では日本人が結構貢献していて、量子暗号の分野では今も東芝が強く、実用化もしています。量子とか光技術といった分野はまだまだ日本が強いんです。こういった領域に果敢に挑戦し、世界をリードしていくこともできるのではと思っています。

 ただ科学技術立国と長い間言っていた割には理科系にいく学生が少なく、博士号取得者も少ない。もっとサイエンス、基礎科学を盛んにするべきだと思います。

 イスラエルの大学は、国がアラブ諸国と戦っている中でも基礎的な研究をやっていた。留学した当時ですが、戦時にある国なのにものすごくベーシックな研究をやっていたんです。ご存じだと思いますがユダヤ人には優秀な人が多い。アインシュタイン、マルクス、政治家で言えばキッシンジャーもそう。ノーベル賞でもユダヤ系は23%もいる。

 イスラエルに800万人、イスラエル以外に600万人。合わせて1400万人しかいないユダヤ人がです。世界の人口70億のうちの1400万人ですから0.2%しかいないのに、ノーベル賞の受賞者は23%もいる。科学者だけでなく音楽家のバーンスタインなど芸術家も多く、ビジネス、科学や芸術など自らの才覚で世の中を渡る職業で傑出した人材を輩出している。その理由は彼らが土地を持たないからです。

 ローマ軍に包囲されたマサダの要塞が陥落、世界中に離散(ディアスポラ)して以来、土地を持たずに生きていくためには教育しかなかった。だから教育に熱心で、みな優れているのです。

―― 彼らの教育は好奇心を刺激するようなものですか。

小林 好奇心を刺激するものもありますが、歴史やトーラーというユダヤ教の律法、それからタルムードも勉強します。厳しい自然観と言いますか、荒涼たる砂漠で遊牧をしていた民族ですから、明日どうなるか分からない。今日ヤギを殺して食べることができたとしても、明日は何もなく、飢え死にするかもしれない。

 一つの判断の間違いが死に直結するゼロイチの社会で生きてきたわけです。

 一方で、島国で水も自然も豊かな日本人は稲作の民。飢饉になれば少ない収穫を皆で分かち合う。多神教で異民族に征服された経験もなく、ユダヤ人とは本質的に違います。ただ日本人もノーベル賞をこれまで二十数人輩出しており、他のアジア諸国と比べて突出している。しかし現状に満足し、スマホの中のバーチャルなものに満足してしまえばクリエーティブさは失われてしまいます。

 日本の集団主義も、組織として何かに取り組み、成果を出すという目的には向いていて、モノづくり、特に大量効率生産には力を発揮しました。

 ところが、今求められているのは個の力です。加えて、データを握る者がすべてを制する時代、AIによって脳を外部化しようとする時代に必要なのは「人間とは何か」「自由とは何か」という哲学的な問いです。テクノロジーが究極に進化する世界では、人間の存在意義が揺らぎかねません。

 大学において専門の分野を学ぶことも重要ですが、その前に、デジタル社会の基礎となるベーシックな数学や物理、一方で哲学や倫理を学んでほしいと思います。「人間らしい生き方とは何か」「人間どう生きればよいのか」。そういうことを考える教育が必要ですね。

―― 会長自身は理想の実現に向けてどんな活動をやっていますか。

小林 まさに、ムーンショット型(従来技術の延長にない、より大胆な発想)研究開発制度の有識者会議や総合科学技術・イノベーション会議で、大学の在り方を議論しながら、これからどうするのかと、いろんな人に議論を吹っかけている(笑)。規制改革推進会議でも、デジタル社会への対応を中心に議論している。

 でも出席している方は皆さん、日本の大学教育、科学技術の将来を案じているんです。学界だけではダメで、われわれのような企業人が入って、当然国も入って産官学が協力していかなければいけない。教育は国の根幹ですから。

日本の教育への危機感を持つ小林氏

小林喜光氏が提言する日本企業と経営者の未来

経済同友会時代につくった議論の場で分かったこと

―― 経営者に対してはどのようなメッセージを発していますか。

小林 経済同友会時代にテラスと称した「場」をつくっていました。これまで経済人は経済人の、学者は学者の話し合う場はあったけれど、経済人や政治家、学者が交わって話す場はあまりなかった。さらに若者とも議論する場を積極的につくってきました。そういう草の根運動を通じて、例えば、大学で博士号取得後のキャリアに不安を感じていた人に、新しい道が生まれたこともあります。

 話してみて分かったのですが、若者たちは、私たちが思う以上に、日本のため、社会のため、世界のため、環境問題をはじめとするさまざまな問題を考えています。欧州からグレタ・トゥーンベリさんが出てきましたが、若者から見れば今の大人たちは自分たちの将来にすごく不利益を及ぼすことを行っているのだから、不健全な財政にしても、化石燃料を燃やしまくっていることに対しても、もっと怒っても良いですよね。

日本は「心技体」の「体」の意識がまだ足りない

―― 日本の国力を伸ばすために3つの軸を使って説明されています。

小林 経済同友会の頃に最大化すべき国家の価値を三次元でとらえたものをつくりました。X軸が経済の豊かさの実現でY軸がイノベーションによる未来の開拓。そしてZ軸が社会の持続性の確保。これらは企業のマネジメントをやってきて行き着いた3つの柱なのですが、言い換えると心技体のバランスです。

 相撲でも心技体のバランスがとれていなければ勝てないじゃないですか。「心」に相当するのがESGやSDGsといったZ軸の持続可能性。「技」は文字通りテクノロジーでY軸のイノベーションにつながる。そして「体」が経済の豊かさであるX軸で、企業で言えばこの体が最も大事にしなければならない資本効率の軸。利益を上げて、株主に還元し、法人税をたくさん払うことが大事です。

 日本企業は心技体のうち心と技ばかり伸ばして、欧米諸国に比べ体が比較劣位。一方、米国は、最近は少し風向きが変わってきましたが、体、つまり利益ばかりを追いかけている。せっかく心技体という良い言葉があるのだから、この3つをバランスよく伸ばしていかねばならない。

 国であれば体となるGDPを上げること。GDPがすべてを表しているかどうかは別として、まずは国民の生活を豊かにすることが重要。次に技であるテクノロジーはAI、バイオなどサイエンスを伸ばしていく。最後に心は財政の健全化や安全保障であり、国家としての持続可能性。温暖化対策もあるけれど、根本的には教育ですね。

 次の世代を育てなければ、この国に未来はありません。デジタル化を進め、同時にリベラルアーツを大事にする。今や文理融合、文系でも理系でも良いけれど、ユダヤの民のように、生き残るために死に物狂いで勉強すること、われわれは子の世代、孫の世代のためにその環境を整えること。まだまだ、やることはいっぱいありますね。