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「不可能を可能にした」熊谷正寿GMOインターネット社長の復活劇

熊谷正寿氏

熊谷正寿

熊谷正寿(くまがい・まさとし)
1963年生まれ。長野県出身。國學院高等学校中退し、父親の仕事を手伝った後、91年ボイスメディア設立、95年インターキューに商号変更、インターネットインフラ事業を開始。99年JASDAQに上場し、独立系ネットベンチャーとしては初めて株式公開を果たす。2001年グローバルメディアオンライン(GMO)に商号変更、04年東証第2部上場、05年東証第1部上場、商号をGMOインターネットに変更。一般社団法人新経済連盟理事。現在グループ76社、スタッフ4千人を率いる。

熊谷正寿社長がどん底に落ちた2年間

 「ついこの間、4千人分作り替えたんですよ」

 GMOインターネットの熊谷正寿会長は、新しく導入したというスタッフ用のネームプレートを指してこう話し始めた。新たなプレートは文字が大きく、遠くからでも名前が見える。色分けしたり番号を付けたりすることで、一目で所属や職種が分かるようになっている。

 「スタッフからは、メールでしかやり取りしたことがない人の顔も分かるようになったと好評です。社内のコミュニケーションは確実に増えているし、外部の方にも名前をすぐに覚えてもらえます」

 ほかにも、週末には社内でパーティーを開催、混雑時のエレベーター渋滞の緩和、スタッフのための昼寝スペースの提供等、社内コミュニケーションや生産性を高めるさまざまな試みを同社グループでは行っている。

 「小さな無駄の改善が、グループスタッフ4千人×1年間と考えると、大きな効果になる。たかが、と思うかもしれませんが、知恵とプライドをかけてやっているんですよ」と、熊谷氏は言う。

 細かな気遣いと気配り。熊谷氏のこうした部分はよく知られるところだが、一時は全く社内のことなど構っていられない期間があった。会社存続の危機に直面した2006年秋からの約2年間である。

過払い金問題でGMO存続の危機

 05年に東証1部上場を果たしたGMOは、金融事業に本格的に参入。イーバンク銀行(現楽天銀行)への出資、ネット証券会社の設立、そして消費者金融事業を手掛けるオリエント信販の買収を矢継ぎ早に実行した。主力のウェブインフラ事業とネットメディア事業に次ぐ柱の創出を目指してのことだった。

 そのまま軌道に乗るかに見えたが、06年後半に事態は一変。最高裁でグレーゾーン金利に対する違法判決が下り、利用者から過去の過払い金請求の嵐が見舞ったのだ。

 これだけなら何とかしのぎ切れるはずだったが、会計基準の改定で公認会計士協会が打ち出した引き当て基準は、予想をはるかに上回る過去10年分。オリエント信販を買い取る以前の負担までのし掛かることになり、314億円もの巨額引き当て金を積まざるを得なくなった。熊谷氏はこう振り返る。

 「もともと消費者金融をやろうと思ったわけではなく、当時既に海外で導入されていた銀行、証券、住宅ローン、クレジットカード、保険とさまざまなことがタブ1つ、ID1つで可能なユニバーサルバンクの仕組みをつくろうと考えていました。消費者金融事業はその一部でしかなかったんです。でも、そのせいで東証1部に昇格して1年で、いきなりゴーイング・コンサーンがついた。そんなことは思ってもみませんでした」

売れるものは何でも売った

 理不尽な基準改定に忸怩たる思いだったが、

 「文句は後回しで、とにかく債務超過になってしまったら他人の会社になってしまうので、それを防ぐことだけを考えました」という。

 10年分の引き当てに加え、買収金額の270億円、さらに過払い金返済負担の増加による自己資本比率低下を食い止めるために熊谷氏は個人名義で76億円を増資、そして50億円の貸付を行った。最終的に、オリエント信販は売却されることになったが、その額はわずか500万円。この件で約400億円が吹き飛ぶことになった。

 「当時は、とにかく売れるものは何でも売った。自己資本がほとんど吹き飛んで、それでも足りずに自分の保有する株を担保に借金するなどして、僕個人で合計170億円を会社に入れました」

 熊谷氏は個人所有の不動産を売却しようとしたところ、ブローカーに騙され、直前で契約が破綻するという痛い目にも遭った。その時はいよいよ債務超過を覚悟したが、不動産を現物出資するよう顧問弁護士からアドバイスを受け、東証の担当者から上場廃止の可能性を忠告されながらも実行するという荒業も使った。上場企業の現物出資による増資は前代未聞だった。

 この間、会社買収のオファーもあったが、熊谷氏は首を縦に振らなかった。個人的にも数十億円単位の借金を背負っていたため、売却資金を得て苦しい立場から逃れるという選択肢もあったが、

 「僕が35歳の時に作った『55年計画』というものがあるんですが、ずっとそれを社内数千人の仲間たちと達成しようと言ってきたので、嘘をつきたくなかった。消費者金融事業は大失敗しましたが、他の事業には自信があったことも会社を売らなかった理由です」

 最悪期には自己資本がわずか7億円程度にまで落ち込んだ。だが、しぶとく粘り続けた結果、首の皮一枚ながらも何とか債務超過を逃れることに成功した。

熊谷正寿社長が苦境から得た教訓とは

経営者も会社もしぶといほうがいい

経営者も会社もしぶといほうがいい

 不幸中の幸いだったのは、危機を脱したのがちょうどリーマンショックの直前だったことだ。GMOを見放す銀行もあった中、メーンバンクのあおぞら銀行をはじめとするいくつかの金融機関が融資を継続したため、キャッシュフローをギリギリ維持することができた。熊谷氏は言う。

 「もし、問題がリーマンショックの時期とぶつかっていたら、金融機関はみんな融資を回収して引き上げていたでしょうね。僕らはリーマン・ブラザーズともお付き合いがありましたが、リーマンショックの当日に担当者から『熊谷さんのところより先にウチが逝ってしまいました』と言われました。会社は債務超過ギリギリでコベナンツ(銀行の借り入れ契約条項)に抵触していたので、銀行はいつでも引き上げることができたんですが、彼らが冷静でいた時期だから、助けてくれたところもあった。キャッシュが回らなくなったら、黒字倒産。目をつぶって針の穴を通すくらいの確率で生き残ったんだろうなと思います」

 危機の最中、社内の雰囲気はどうだったのか。

 「振り返ると、スタッフが一番成長した時期かもしれません。正月に実家に帰ると家族に心配された人もいたようですが、利益が出ている部門を中心に、みんな淡々と耐えてよく仕事をしてくれました。幹部は1人も辞めませんでしたし、本当にみんな強くなった気がします」

 スタッフだけでなく、当時手を差し伸べてくれた人すべてに感謝している、と熊谷氏は言う。一部の銀行が貸し付けをストップしたり、リースのパソコンが引き上げられそうになったり、新規の取引を断られたりと、ありとあらゆる苦難に毎日のように見舞われる一方、資産の売却に協力したり、苦境脱出のさまざまな知恵を出してくれた人々もいた。

 「経営者も会社もしぶといほうがいい。苦境の時、本当の力が試されます。あの時の経験を通じて自分は経営者として一番成長したと思います。教訓だらけですが、一番実感したのは、本当に〝不可能が可能になる〟ということでしょうか」

一皮むけたGMOインターネット

 手痛いやけどを負った上、ユニバーサルバンクをつくりたいという当初の目標は頓挫した。だが、熊谷氏によれば金融事業はインターネットと親和性が高いため、今後も伸ばしていくつもりだという。

 「ローンクレジット事業に手を出すつもりはもうないですが、例えばグループ会社のGMOクリック証券はユーザーが順調に増えていて、FX取引では世界一になりました。もともとインフラビジネスに関心があるので、経済のインフラとしての総合金融サービスをやりたいという気持ちはあります」

 成長を目指す余裕などまるでなく、苦境を切り抜けるためのミーティングに毎日明け暮れた2年間。冒頭に紹介したように、社内の細かな改善まで目が向く余裕ができた今とでは、まさに天と地ほどの差である。短期間で会社はこうも変わるのだ。

 壮絶な経験を経て、一皮むけたGMOインターネットだが、ベンチャーとしての意識は常に持ち続けると熊谷氏は言う。インタビューの最後に、同氏はこう結んだ。

 「ベンチャーとしてのチャレンジ精神を持ち、大胆なリスクテイクをしながら、通常の企業がやらないようなことを革新的なスピードでやっていく。そういう気持ちを生涯忘れないでいようと思います。グーグルにしてもアマゾンにしてもフェイスブックにしても、世界のメガベンチャーはどこも同じ考え方ではないでしょうか。そういう企業群と常に同じ領域にいたいですね」

(文=本誌編集長・吉田浩 写真=森モーリー鷹博)

 
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