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溢れるエネルギーと地道な努力で全国的な配送ネットワークを構築―宮原弘幸(ネクサス社長)

宮原弘幸(ネクサス社長)

福岡県大川市に本社を置くネクサスは、通販商品を中心とした配送業務のほか、商品の保管、管理、イベント会場における設置作業などを手掛けている。強みは「あらゆる物流を一本化する」を旗印に、全国に張り巡らせた独自ネットワークだ。

宮原弘幸・ネクサス社長プロフィール

宮原弘之

(みやはら・ひろゆき)1977年生まれ。佐賀県出身。高校卒業後、九州日野自動車に整備士として入社。その後法人担当の営業マンとなり福岡県大川市を中心に顧客基盤を築くかたわら、フリーカメラマンとしても活動。2012年ネクサスを設立し、代表取締役社長に就任。家具配送から始まり、現在は総合物流企業として全国に配送ネットワークを構築する。

トラック整備士から営業マンへ

これまで何度か訪れた人生の転機を、奇跡のような巡り合わせで切り抜けてきた。本人は「たまたま上手く行った」と謙遜するが、幸運を引き寄せるオーラのようなものを感じさせる。ネクサス社長の宮原弘幸氏はそんな人物だ。

福岡県大川市に本社を置くネクサスは、通販商品を中心とした配送業務のほか、商品の保管、管理、イベント会場における設置作業などを手掛けている。強みは「あらゆる物流を一本化する」を旗印に、全国に張り巡らせた独自ネットワークだ。

宮原氏は高校を卒業後、九州日野自動車に整備士として入社。もともとはバイク好きで、二輪関係の会社に就職したかったが、バブル崩壊後の就職難で希望は叶わなかった。整備士として勤務すること6年。その後はコミュニケーション能力の高さを評価されたのか、営業部に異動することになった。整備士から営業への転身は、同社では初めてのケースだったという。

法人担当営業マンとして長崎県の過疎地で新規開拓の実績を残した宮原氏は、次に福岡県大川市に赴任することになった。このときの顧客基盤が、独立後も活きることになる。

宮原弘幸

整備士としてキャリアをスタートしたが、営業マンとしての実力が開花した

趣味のカメラから始まった独立への道

独立のきっかけはカメラだった。バイクが趣味だった宮原氏は、旅先での人々との交流を写真に収めるために一眼レフを購入。没頭するうちに、休日はカメラマンとしてブライダル撮影や、フリーペーパーの仕事なども手掛けるようになった。そんな宮原氏に、営業先だった大川市の家具会社から声が掛かったのだ。

「カメラマンの仕事は副業としては良かったのですが、食べていくのは厳しいと思っていたんです。そんなときに、知り合いの社長に商品を撮影して売ってみないかと誘われました」

大川市で本格的に家具の通販会社としてスタートを切った宮原氏。仕事は家具会社から商品を卸し、写真に撮ってネット販売するというもので、立ち上がりは順調だった。

ところが、この事業はすぐに頓挫することになる。家具会社から上がってきた最初の請求書は当初の話と違い、さまざまな口実で追加料金が上乗せされていた。対応不可能と判断し、即座に撤退を決めた。

そんな状況を救ったのが、家具通販の配送代理店の仕事である。大手運送会社と違って信用がなかったため、自らチラシを配ったり、バイヤーが集まる展示会にブースを出したりして顧客を探していたところ、佐賀県では有名な家具の製造・卸を手掛ける東馬から仕事を受注し、同社の配送を一手に引き受けるようになった。この評判が広まり、他からも仕事が舞い込むようになった。

商品の配送に関しては、これも営業マン時代から付き合いのある地元の小川運輸から協力を得ることができた。県外の配送については宮原氏自身が協力会社を開拓し、配送ネットワークを構築していった。

宮原弘幸

独立のきっかけは趣味のカメラだった

ピンチのたびに救われる

宮原氏は起業してからの歩みをこう振り返る。

「順風満帆ではなかったですね。家具の配送の仕事を始めたものの、誰も相手にしてくれなかった頃は、会社を畳んでアルバイトでもしようかとも考えました。そんなとき兄貴分と慕う小川運送の小川達也社長から『会社がまだ潰れてないのになぜ諦めるのか』と喝を入れられました。そこで踏ん張って、地道にお客さんを獲得して何とかやっていきました」

メガソーラーブームで太陽光パネルの配送を一手に引き受けるなど、絶好調な時期もあった。そのときは社員も増やし、自社で配送用車両も数台購入した。

だが、それも2年ほどで収束。再び厳しい状況に陥り、赤字決算が続いていたタイミングで、今度は大手運送会社が家具の輸送から相次いで撤退するという幸運に恵まれた。荷台スペースの大きさや人手不足による効率の悪さを嫌った大手が退場し、再び家具輸送の仕事が入ってくるようになった。

こうしてピンチに陥るたびに、なぜか生き延びる道が開けてきた。冒頭述べたように「たまたま偶然」と言う宮原氏に対し、小川社長はこうたしなめたという

「たまたまではなく、お前が取った行動の結果ラッキーが起きているということを自覚しろ」。

それ以来、自らの行動をより意識するようになった宮原氏は、「さらにいろいろな人との良い出会いに恵まれるようになった」と語る。

奇跡的な出会いから会場設営の仕事を受注

偶然が生んだ「良い出会い」の極め付きは、介護福祉士講座の会場設営を受注したエピソードだ。

年末も押し迫ったある大雪の日、請求書の束を持って宮原氏が郵便局に向かったところ、年賀状を出しに来た人々の行列ができていた。すると、宮原氏の後ろに並んだ人物が突然会社のジャンパーの背中に掛かれていた「EXPRESS」のロゴを見て、「運送会社の方ですか?」と声を掛けてきた。

聞けば、運送業者を探しているという。何を運ぶのかと尋ねたら「お人形さんを運んでほしい」となんとも怪しい答えが返ってきた。どんな会社なのか尋ねると「今は新品の名刺を切らしていて、これしかない」とメモ書きだらけの名刺を渡された。

半信半疑ながら名刺の住所を翌日訪問すると、世間では名の知れた会社で、名刺を渡した人物はそこのマネージャーだった。介護福祉士の試験に使う医療用の人体模型を、会場に運んで設営する業者を探しているのだという。

一日に複数カ所を回ることがあるため、時間的に厳しく条件も多いことから引き受けてくれる業者がいないとのことだった。ハウスメーカーのモデルハウスで設営業務を経験していた宮原氏は、その仕事を二つ返事でOKした。

医療用模型の搬送は九州の現場から始まり、その後は山口、大阪、東京と、瞬く間に範囲が拡大していった。宮原氏は自ら現場への配送を手掛ける傍ら、空き時間を利用して各地の運送業者に電話をかけまくって協力会社を探していったという。そしてわずか1年で、日本全国をカバーするネットワークを構築するに至った。

ネクサス

自社での運送のほか、全国に配送ネットワークを構築する

海外進出も視野に全国的な企業へ

現在は家具、医療用模型の他にも、総合物流業としてさまざまな商品配送や設営を手掛けるようになった宮原氏が次に見据えるのは海外展開だ。

以前、休暇で訪れたフィリピンに将来の可能性を直感し、本格的に参入する構造を描いている。輸送ではなく、これから建築される家具付きビル、マンションなどの設置を手掛けるビジネスを展開するつもりだという。

「全国で名を残す企業にしたい」

そう語る宮原氏の最大の武器は、営業マン時代から培ってきた行動力と、いつの間にか周囲に協力者が増えている人間力だ。

宮原弘幸氏

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