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シェアトップ返り咲きの立役者 布施孝之社長がキリンに遺したもの

キリンビール社長の布施孝之氏が9月1日、急逝した。享年61歳。業績が最悪だった2015年に社長に就任。そこから巻き返し、20年には11年ぶりにキリンをシェアトップに戻した功労者だった。徹底した現場主義者だった布施氏はキリンに何を遺したのか。文=ジャーナリスト/永井 隆(『経済界』2021年11月号より加筆・転載)

現場に徹し続けた営業マン人生

布施孝之・キリンビール社長
急逝した布施孝之・キリンビール社長

 「現場にいないと、私は死んでしまいます」

 昨年7月8日、中野区のキリン本社で筆者のインタビューの中で、こう言って笑ったのが今も印象に残る。

 「来年の今頃、布施さんは別の立場(キリンホールディングス社長)になっているのでは」。あえて話の腰を折り、筆者が投げ込んだ直球に対する返答だったが、現場主義を貫き通すその生き様が言葉に滲み出ていた。

 社員に対しては、よく次のように語っていた。

 「社長が頭を下げて仕事がうまくいくなら、私の肩書は好きなだけ使え」「私のスケジュールは、すべて現場にある」

 出世しても、威張らない気さくな人柄。現場に寄り添う包容力、そして誰でも受け入れられる優しさがあったのは、厳しい競争にさらされた営業畑を一筋に歩んできた、その経歴のためなのか。

 元営業幹部は「特約店(卸)とトラブルになったとき、布施さんが同行してくれて助けてくれた。どんな困難にも決して逃げない、あの人こそ本当の営業マンでした」と語る。布施氏自身、「夜討ち朝駆けの毎日で、土下座は茶飯事でした」と、笑みを浮かべながらあっけらかんと話していた。

バレーボール部監督として発揮したリーダーシップ

 布施氏は1960年2月に千葉市に生まれる。中学からバレーボールを始めるが、ポジションはウイングスパイカー。「中3から急に身長が伸びて、気がつけば1メートル80センチになった」。千葉東高校から早稲田大学商学部に進むが、バレーボールを続ける。早大時代は強豪の同好会に入りながら、2年秋から卒業まで東京女子大学の体育会バレーボール部監督を兼務で務めた。

 「2年半の監督経験は、今に通じる経営者としての学びになりました」

 監督に就いたとき、東女は13部あった関東女子リーグの中で、7部に昇格したばかりの弱小チーム。無理もない、約20人の部員にスポーツ推薦は一人もいなかった。

 「ウチのチームとしての強みは、何だと思う」。布施監督は部員一人一人に、聴いて回る。ベンチ入りメンバーだけではなく、スタンドで応援する控えを含めた全員にだった。分け隔てをせずに、平等に時間を割いて、話し合う。

 特に控え選手に対しては、「みんながしっかりやっているから、レギュラーたちが頑張れる」と声掛けをいつも怠らなかった。

 自分たちの強みをチーム内で共有し、何でも言い合える体質を築くと、東女は4部にまで昇格できた。「チーム全体のモチベーションを上げ、部員の意思統一を徹底する。監督は戦略を明確に示し、決してブレてはいけない」と、経験から教訓を得る。

ビール担当で味わったスーパドライの猛追

 キリンに入社したのは82年。最初の配属先は神戸支店。当時のキリンは6割のシェアを超えていて、さらにシェアがアップすると独禁法により会社が分割される恐れがあった。このため、営業の仕事は売り込みではなく、調整だった。

 「今月はこの数量を割り当てます」と告げるキリンの営業マンを、卸はコーヒーやお茶を差し出してもてなしていた。

 しかし、布施氏がこうした〝殿様商売〟を経験することはなかった。当時力をつけていたスーパーなど新しいチャネル開拓に従事したからだ。商品力の弱い小岩井の乳製品やキリンレモンをバイヤーに売り込む一方、食品売り場に立ち神戸マダムを相手に試食販売も行う。「奥さん、どうですか? 小岩井のレーズンバター、おいしいですよ」「一つおまけしてくれたら、買ってあげる」「困ったなぁ…。内緒ですよ」

 その後も、三宮につくった直営ビアホールの店長を務め、東京の八王子支店に異動してビール営業となったのは89年秋。しかし、87年3月にアサヒビールが発売したスーパードライが大ヒットしていて、キリンは劣勢に立たされていた。

 商戦はひたすら激化し、キリンは支店を急増させる。94年、管理職になっていないのに新宿を担当する支店の課長に就く。34歳だったが、部下はみな年上ばかりだった。その後も、大手飲食店を攻略する部隊を率いるなど、東京の営業最前線で戦い続けた。

 だが2001年、キリンはアサヒにビールシェア1位の座を明け渡してしまう。48年ぶりの逆転劇である。「東京では負けていない!」と自分に言い聞かせた。身体がボロボロになるまで戦ってきた。何より、部下を不憫に思った。

大阪支社長としてシェアトップ返り咲きに貢献

 大阪支社長に就いたのは08年。大阪は大票田であり、アサヒの牙城である。しかし、初年は思うように売り上げを伸ばせない。そこで、年末に布施氏は全員を前に話した。

 「結果が出ないのは私の責任だ。ただし、来年(09年)大阪支社は全国トップをとる。そのため、もう本社の言うことは聞かなくていい。責任は私が取る」、と。本社のキャンペーン指示などの呪縛を解き、その上で共通のテーマを与えた。

 「来年3月にリニューアルされる『一番搾り』の魅力を、料飲店や業務用酒販店に伝えることを最大のミッションとする。方法は君たちに任せる」

 大阪支社は躍進し、これが原動力となりキリンは9年ぶりにシェアトップに返り咲く。

リストラ遂行役の辛いミッションも経験

 支社長として成果を上げたせいなのか、「経営を勉強してきなさい」とかなり上の上司から小岩井乳業社長への異動を命じられる。「役員にもなっていないのに、なぜ自分が」。内心驚いたが、異例の人事の裏側にはそれなりの事情があった。

 10年3月に赴任してみると、小岩井は経営に行き詰まっていて、リストラが計画されていたのだ。「聞いていない……」。何も知らない社長を送ることで、社員の反発をかわし、人員削減を円滑に進めようとする狙いが、〝上〟にはあった。

 リストラの説明会の席上、社員が訴えた。「悪いのはキリンだ。戦略をコロコロ変えるから、小岩井は振り回されて経営が悪化した」。その通りだった。

 リストラの対象は全部門に及び、年齢も広範に渡った。年末までに断行しなければ、経営再建はできないし、キリングループの経営にも悪影響を及ぼす。リストラを受けるのは本当に辛い。だが、執行する方も、実は精神的にきつい。対象者の背景には家族がいる。受験を控えた子どもたちは、進路を変える必要にも迫られよう。

 リストラを終えた後、布施氏は堪らなくなる。便せんとペンを用意し、対象者の一人一人に手紙をしたためようと決める。「赴任したばかりで対象者を知らない。しかし、人として思いを伝えたい」。

 人事部からデータをもらい社内でエピソードを取材し、手紙に盛り込む。したためた便せんは200枚に及んだ。11年が明けて、何通もの返事が届く。そのうちの一つには、次のようにあった。

 「私がリストラされるとは、夢想だにしなかった。しかし、そのときの社長があなたでよかった。手紙に感動しました」

 この年には東日本大震災があり、工場が被災する。本格的な経営再建は12年から。「生乳100%ヨーグルト」を看板商品に設定し、売り上げを伸ばすことで会社を黒字化させていった。

ぶれない戦略でトップに返り咲き

 この実績から14年3月、キリンの営業子会社だったキリンビールマーケティングの社長に就任。キリンビール社長に就いたのは翌15年の年明けだった。

 14年の首位アサヒとのシェア差は、過去最大の5・0%まで広がっていた。09年に8年ぶりにトップに立ったのに、10年には再逆転を許す。「本社の戦略がブレたため。一番搾りが好調なのに、同じビールの『ラガー』も強化せよと無茶な指示があったのが原因」と指摘した。そんな中での緊急登板だった。

 「負け続けていたため、社内は他責であふれていました」「連敗の悪い流れを、どうすれば変えられるのか、随分考えました」
 社長就任後、全国の支社支店、工場などの現場を徹底してまわる。「このままでは赤字転落もあり得る」と、地道に現実を訴え続け、社員の意識を変えていく。何しろ、少子高齢化からビール類の国内市場は05年から昨年まで16年連続で縮小を続けている。

 布施氏が社長として社内改革を断行したのは18年から。「お客さまのことを一番に考える組織風土を目指す」というシンプルなメッセージを発した。ただし、17年後半から社内の各部署から人を集め、「浮上のためのスイッチは何なのか」を徹底して議論した。

 そこで分かったのは「キリンには戦略がない、ということでした」。小岩井と同じに、短期的な成果を追うあまりコロコロと戦略が変わり、現場は振り回されていたのだ。

 投資する商品ブランドの選択と集中を行いながら、イオンなどから第3のビールのプライベートブランド(PB)受託生産も本格化させた。さらに、外部からマーケティング部長を招請し、第3のビール「本麒麟」をヒットさせる。

 この結果、布施氏は社長就任6年目の20年、11年ぶりにシェアトップを奪還したのである。コロナ禍に直面した中での勝利だった。

 戦略では、ビールの一番搾りをブラさずに強化させ続けた点が最大の功績だ。ビールは26年までに減税されていくからだ。

 本社は外界を見て、現場は内側を見る。布施氏は、本社と現場の間に〝橋〟を架けた、あるいは融合させた経営者だった。

 だから、他責を排除できて、新しい体質の会社に変貌させられた。布施氏が遺した、新しい体質を、つなげていけるなら。それにしても、あまりに早すぎた。会社にとっても、酒類業界にとっても損失なのは間違いない。あのはにかんだような笑顔はもう帰らない。