高級寝具「エアウィーヴ」、鋳物ホーロー鍋「バーミキュラ」を爆発的ヒットに導き、現在はPR代行会社LITAの代表取締役を務める笹木郁乃氏。PRの世界に新たな風を吹き込む存在として、業界関係者やメディアからの注目度は日増しに高まっている。個人事業主として独立後、法人立ち上げ、そして「日本一のPR会社」を目指すまでに至ったそのプロセスは、経営者の「成長」について考える格好の材料と言える。(取材・文=吉田浩)
笹木郁乃氏プロフィール
独立当初、PRを仕事にしなかった理由
SNSなどを駆使したPR活動は、企業や個人事業者にとって今や当たり前となった。そのムーブメントに大きく貢献した1人が笹木氏と言っても過言ではないだろう。
エアウィーヴの年商が1億円から115億円にまで急成長した時代の広報担当者として貢献し、バーミキュラを購入12カ月待ちの人気商品に押し上げ、PRの力で売上に貢献した実力は折り紙付き。独立後はSNS起業家のアイコンとしてポジションを確立し、主催するPR塾は5年前の立ち上げから現在に至るまで常に満員の盛況ぶりだ。PR代行事業も順調で、コロナ禍にありながら今年度の売上高は前年比約5倍となる5億円を見込む。
ただ、外部から高い評価を受けながらも、自分ではその価値に気付かないというのはよくある話だ。独立当時の笹木氏もその典型だった。会社員時代にPRで大きな実績を残したにもかかわらず、最初はそれを仕事にしようとは全く考えていなかったという。
「バーミキュラが人気商品になって、会社としてPRがそれ以上必要ない状態になり、モチベーションが落ちてしまったんですね。定時に仕事を上がって、スマホのアプリゲームで時間を潰すような毎日になって、専業主婦になろうかと迷ったこともあります。自分の存在意義は何なのだろうって。ただ、子どもも小さかったので他の企業に転職するのも躊躇われたし、とにかくエネルギーのやり場を何とかしたいと。それで独立を決めたのですが、PRを仕事にしようという考えはなぜか浮かびませんでした」と、当時を振り返る。
独立して何をするか、悩んだ末に名刺に刷った肩書は「人生設計プロデューサー」だった。転職などの悩みに寄り添う相談相手としての仕事を想定していたが、一聞しただけではどうにもイメージが湧きにくい。実際に起業家交流会などで挨拶して回っても周囲の反応はイマイチ。考えてみれば当然なのだが、事業家として未熟だった当時の手探り感が窺えるエピソードである。
一方、エアウィーヴやバーミキュラ時代の実績を話すと反応がまるで違った。「それを仕事にしたほうが絶対に良い!」。そんな声を多く受けて、初めて自分のやってきたことの価値に気付いたという。
会社員時代に抱いたPR代行会社に対するイメージも、PRを仕事にするという発想を遠ざけていたかもしれないと笹木氏は語る。
「正直なところ、PR代行会社にはあまり良い印象がなかったんです。報酬は高額でも、結果に責任を負うというよりは報酬の範囲内でやることをやったら終わりみたいな冷めた感じがあったので。それなら一人ひとりに寄り添うPRコンサルタントとして自分がやろうと。今ではPRスキルを教えることによって、結果的にクライアントの人生を変えるという当初の目的に近づけたのかなと思います」
SNSでの発信に本腰を入れる
アメブロやフェイスブックなどの隆盛と並行して起きたSNS起業ブームを覚えているだろうか。OLや主婦などが、趣味や特技などを生かした情報発信で副収入を得る、あるいは本格的な事業へと発展させるのが流行った時期がある。笹木氏もこうしたいわゆる「キラキラ起業女子」のカテゴリーで捉えられがちだが、実際はかなり違った。どちらかと言えば、その歩みはむしろ泥臭い。
そもそもエアウィーヴやバーミキュラを売っていた時代は、メディアに記事を掲載してもらうためのPRが中心で、SNS活用に関してこの頃はほとんどノウハウがなかった。ツイッターの法人アカウント運用を担当したこともあるが、その時は既存顧客への情報発信がメインであり、個人的に新規ファンを開拓するのは初めての挑戦。他のSNS起業家を参考にしつつも「PRスキルを売る」という試みはロールモデルもいないため、未知の世界だったという。
「もちろん長期的にはメディアPRでも認知を広げようと試みながらも、起業当初は確実に一人一人の共感者を作るSNSもかなり力を入れていきました。認知活動は甘くないと会社員時代の経験から知っていたので、それまでプライベートでしか使っていなかったフェイスブックも仕事用に新たなアカウントを作って、とにかく私個人を信用してもらいファンになってもらうことに集中しました」
「女優になりきる」―― 仕事モードの自分を演じ切ると決めた当時の決意を、笹木氏はこう表現する。
飛び込み営業さながら、これはと思う人物に友達申請を出しまくって運営からアカウントを停止されたこともある。そんな失敗も経ながらも、3カ月後には約3千人のフェイスブックフォロワーを獲得。希望者に対して1回3千円でマンツーマンのコンサルをスタートし、顧客に書いてもらったアンケートで好評価を得ると、それをさらにSNSで発信する。PRコンサルタントとして初めの一歩は、そうした地道な繰り返しから始まった。
地道な積み上げとブレイクの瞬間
個別コンサルを行えば相手は喜んでくれるし、手ごたえはあった。とはいえ、1回3千円の報酬ではビジネスとして成り立たない。そこで料金を値上げすると、たちまち申し込みが減少し、自分の力のなさを痛感した。
どうすれば上手く行くのか――愛知県在住で子育ても忙しかったが、機会を見つけては上京し、起業家のセミナーや交流会に通い、講師にSNSで紹介してもらうなどして少しずつ認知度を上げていった。そんな取り組みを続けていたある時、有名な起業塾でPRコンサルタントとしてサブ講師をやらないかと声が掛かった。
「サブ講師を務めることになった矢先に、いきなり代表の方に受講生の前でPRについて今から喋ってほしいと無茶振りされたんです(笑)。何も準備してなくて、大人数の前でプレゼンの経験もなかったので、終わった後は最悪の出来だと落ち込みました。でも、受講生からは意外と好評で、改めて動画を見直すとそれほど悪くないなと思ったんです」
それまで1対1のコンサルしかやってこなかった身としては、多人数相手でもいける自信を持てたことは大きかった。そこでマンツーマンのコンサルから、手始めに4人程度を相手にするお茶会形式に移行。次は無料招待も含めて、さらに人数を増やしたセミナーを開くといった具合に徐々に規模を拡大していった。
そうした慎重さの一方で、初めての大規模セミナーを全国4か所で企画する大胆さも見せた。この時は迷わず会社員時代のPRの実績を大きく打ち出す形で宣伝し、結果的に150人ほどの集客に成功。本人の感覚的にも一つ殻を破った瞬間だった。
今でこそメディアPRとSNSを掛け合わせたPRメソッドで定評がある笹木氏だが、前述の通り、この時はまだSNS活用については自身も試行錯誤の段階だった。セミナーの内容も当初はメディアPRを中心に考えていたが、客層を見るとどうやらSNS活用のほうが需要がありそうだった。
「本当はメディアPRを中心に伝えする方が得意でしたが、当時の自分としては恐縮ながら、大事なのは受講生の皆さんのお役に立つことだと。みなさんが必要とするSNSコンテンツをたくさん作って教える方向にしました」
未熟でも自分のできることをとにかくやる。そしてそれを形にしてしまう馬力によって階段を駆け上がっていった。ただ、個人の力には限界がある。事業としてスケールするには、もう一段のレベルアップが必要だった。
経営者としての意識を変えた出会い
やがてPR塾以外にも、法人クライアントからのPR代行の仕事が増え、それに伴い2017年2月にはikunoPRという会社を立ち上げた。ただ、この時も仕事のスタンスや考え方が大きく変わったわけではない。「やるからには上を目指したい」という気持ちはあったものの、感覚的にはあくまでも個人事業の延長に近かった。
経営者としての意識が大きく変わったのが、現在LITAで役員を務める井上俊彦氏との出会いだ。
「井上はもともとPR塾の生徒で、マーケティング会社を経営していました。受講生の中でも頼られる存在で、私と事業のことについて話をしているときに『どうせやるなら日本一を目指したら?』とい言われたんですね。『大手のPR会社に顧客を取られて悔しくないの?』とも言われて。正直、自分の考えがそこまで追いついていなかったので驚きました」
実は、それ以前にもビジネスパートナーとして共に歩もうとした人物が2人ほどいた。だが、仕事に対する価値観が合わず、いずれも会社を去ることになったという苦い経験もある。逆に、自分を上回る志を持っていたのが井上氏だった。「日本一」「業界1位」と高い目線を置く同氏に最初は違和感を覚えながらも、徐々に感化されていったという。
「私が前面に出て、井上は裏で戦略を練るのが得意。時折衝突しながらも、ゴールが同じだからうまく行っていますね」
波長が同じで、お互いに足りない部分を補い合えるパートナーとの出会い。これが次のステージ向かうための大きな節目となった。
新たな挑戦で会社を次のステージへ
「自分の意識が高まっていく一方で、社員には動揺があったのかなと想像します」―― 今でこそ離職は減っているものの、少し前までは社内人材の入れ替わりが激しかったのも事実だ。現在、従業員は16人。よりプロフェッショナルな志向を持った集団に会社は変ろうとしている。
「この1、2年間でたくさんの経験をしました。会社をもっと良くするために、同じ志を持った仲間と社風をつくる努力をしていきたいと思います」
社内の役割分担や評価制度を整え、現場の責任者も育ってきた。その一方で、さらなる成長を見据えて、来年度以降は新たな事業を構想中だという。
「既存事業は社内のチームに任せて、私と井上は未来のことにもっと時間を掛けていきます。新たな売り上げをつくって会社をスケールさせる考えです」
一時は専業主婦になろうかと迷い、方向性も定まらぬまま歩き出してからまだ5年。その成長ペースはますます加速しそうだ。頂上はまだ遥か彼方だが、日本一を目指す山登りを、笹木氏は心底楽しんでいるように見える。