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全てが顧客との接点になる「社員全員マーケター」に込められた思い 魚谷雅彦 資生堂

魚谷雅彦 資生堂

日本コカ・コーラで缶コーヒー「ジョージア」、ペットボトル飲料「爽健美茶」「紅茶花伝」をヒットに導いて副社長、社長を歴任。その後資生堂の経営を担い、昨年末会長を退いたプロ経営者・魚谷雅彦氏。「マーケティングは経営そのものだ」との言葉の背景を、魚谷氏のキャリアから読み解く。聞き手=小林千華 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年6月号より)

魚谷雅彦 資生堂のプロフィール

魚谷雅彦 資生堂
魚谷雅彦 資生堂シニアアドバイザー
うおたに・まさひこ 1954年生まれ。同志社大学を卒業しライオン入社。その後、クラフトジャパン副社長、日本コカ・コーラ社長・会長などを経て2013年資生堂マーケティング統括顧問、14年4月に社長に就任した。23年、会長CEO就任。24年末、会長を退きシニアアドバイザー就任。

ライオンで過ごしたマーケティング漬けの日々

―― 新卒でライオン歯磨(現ライオン)に営業職として入社し、4年後に米コロンビア大学へMBA留学しています。昔からマーケティングを学びたい思いがあったのですか。

魚谷 ライオンに入るまでは、マーケティングのことはほとんど知りませんでした。大学の英文学科で英語に目覚め、社費留学制度のある会社に入りたいと思って選んだのがライオンです。当時は、文系出身者はほとんど営業現場に配属される時代で、僕は大阪の営業に。まだ新しかった虫歯予防のための商品や歯磨き指導を、歯医者さんから患者さんへ伝えてもらう活動をしていました。

 しかしライオンは、日本の中では早い時期からマーケティングに力を入れていた企業です。ここではマーケターになるきっかけをたくさんもらいました。

 まず入社式の後、先輩が僕ら新入社員を集めて「当社はマーケティングの会社です。マーケティングとは何か分かりますか。はい、魚谷くん」と僕を指したのです。僕はよく分からなかったので、「市場調査ですか」と。はっきりと否定はされませんでしたが、次に指されたマーケティングゼミ出身の同期が「企業と社会をつなぐ循環の活動」とかっこよく答えていて驚きました。すごいところに来ちゃったな、と思ったのがマーケティングとの出会いです。

―― 社会人初日にマーケティングに出会ったのですね。

魚谷 入社式後は営業の実務に就き、商品を買ってください、置いてくださいと歯科医院を回る毎日。しかし意思決定権のある歯科医の先生方は忙しくてなかなか会えず、うまくいかない。どうしたら買ってもらえるのだろうと悩みました。

 そんな中ある先生に、ライオンの研究所が撮影に成功した、虫歯ができる過程を収めた映像を見たいと言われたのです。歯科医向けの勉強会で見てもらったところ非常に好評で、皆さん「だからこんなブラッシングが必要なんだね」「こんなハミガキが良いんだね」と。参加した方の6割近くが商品を注文してくれました。

 それで、ただ揉み手して「買ってください」と下からお願いするばかりでは、相手のモチベーションは上がらないことに気付いた。相手の潜在的なニーズに応じて情報を提供するから関心を持ってもらえる、それが購買につながっていく。これがマーケティングか、と思って興味を持ち始めました。

 そこから自分で本を読んで学び、社内の人々とも語り合って、まさにマーケティング漬けの日々を送りました。留学先でもマーケティングを専攻し、経営とのつながりについても学びましたね。

 ライオンでマーケターになるきっかけを得て、アメリカで体系的に学んだ。それ以降、モンデリーズ・ジャパンや日本コカ・コーラで、マーケティングの現場に立つようになりました。

資生堂で掲げた「全員マーケター」

―― 魚谷さんの、資生堂での組織改革について教えてください。

魚谷 2013年に顧問として関わり始めた当初、マーケティング部門の社員に「あなたは何の仕事をしているのですか?」と聞くと、「商品企画です」と返ってきたのを覚えています。当時の日本には、そういう意識の企業がまだまだ多かったのです。

 それを変え、商品企画のアイデア出しから実際の販売までの機能をマーケターが一気通貫でマネジメントする、ブランドマネージャー制にしようと。そこで外資系企業出身者を中心に、ブランド育成の経験者を外部から数十人単位で採用しました。初めは既存の社員から不安の声も上がりましたが、「組織全体をレベルアップさせるため」としっかり説明しました。

 それが奏功して、現在では社内でも人材を育てられる体制ができてきています。マーケティングの重要性が日本企業にも浸透して、経験値を持つ人材の価値が認められるようになってきたと感じています。

―― 社長時代には、従業員に向け「全員がマーケターになれ」とメッセージを発したと聞いています。

魚谷 マーケティングといっても狭義・広義の意味があります。この時伝えたかったのは広義の方です。

 ドラッカーが「企業の目的は顧客の創造だ」と説いた通り、どんなビジネスも顧客がいるから成り立ちます。さまざまな選択肢がある中で、顧客が自社の商品を選んでくれるのは、「この商品、このブランドが、私のことを一番理解してくれている」と思うからです。この状態をどうつくり、どう維持するか。もしくはどう広げていくかが企業の存続に関わるわけです。その意味で私は「マーケティングとは企業経営だ」と考えています。

 これを従業員全員に、それぞれの立場で考えてほしいのです。資生堂という企業は、当社の商品を選んでくれるお客さまが150年以上い続けたからこそ存続してきた。そのことを念頭に置いて、顧客の創造のために自分はどうあるべきか、全員が考えなければいけません。

 例えば営業部門の社員が、得意先店舗の立地や地域住民の属性を考え、どんな価格帯、特長の商品が求められるかを見極めることもマーケティングです。また、当社では美容部員をパーソナルビューティーパートナーと呼んでいますが、こうした店頭に立つ職種の社員も、店舗の立地や時間帯などから顧客の特性を考えて、接客に生かすこともできます。バックオフィスや工場の社員もみんな同じです。

 逆に言えば、どの職種の社員でも、常に世の中の変化が自分の仕事の在り方に反映されなければいけません。みんなが感度を高めて、世の中の、そしてお客さまの変化にいち早く対応できる一つの集団になること。これが企業文化として浸透した時、初めて顧客志向の企業になったと言えると思います。

魚谷雅彦 資生堂
魚谷雅彦 資生堂

―― 魚谷さんの経歴の中で、そうした文化を浸透させられたと感じたことはありましたか。

魚谷 NTTドコモの特別顧問を務めた時に経験したことです。当時はまだ、建物の中や地下などで携帯電話がつながらなくなったり切れてしまったりすることが多く、クレームもたびたび寄せられていた。そこであえて「つながらなければご連絡ください。48時間以内に駆けつけます」というキャンペーンをやったのです。技術に自信がないとできないキャンペーンだと思いませんか。

 そしてお客さまの連絡を受け、技術系の社員が駆けつけて対応するわけですが、まず「本当に48時間以内に来てくれた」と喜ばれる。アンテナを調整したりして不具合が直ると、またすごく喜ばれるのです。彼らは、普段はクレームを受けて対応に向かい、怒られることも多い。しかしこのキャンペーンを通して、自社のサービスや価値をお客さまに直接伝える役割になったのです。

 いわゆるマーケティング専門ではない職種でも、NTTドコモのブランドを代表していることを実感でき、大きくモチベーションが上がった事例でした。

―― どのポジションにいても、ブランドを発信する立場になりうるのですね。

魚谷 僕がコカ・コーラで学んだ「エブリシング コミュニケイツ(Everything Communicates)」という言葉があります。つまり、お客さまが見たり聞いたりするものは全て、企業とのコミュニケーションになりうるということ。商品、ブランド名、広告。僕だって今この瞬間、資生堂という企業を代表してあなたの前にいるわけです。

 僕だけでなくどの社員も、資生堂の看板を背負っている以上、どこかでブランド発信を担うことになる。もし社員が社外の方とお会いして「資生堂の掲げるイメージと全然違うな」と思われれば、ブランド作りの統合的なアプローチが崩れてしまいますから。

デジタル知識と好奇心がマーケターの必須素養

―― 魚谷さん自身、多くのヒット商品を生み出したマーケターです。その魚谷さんから見て、これからのマーケターに必要な力はなんですか。

魚谷 僕がマーケターとして長く実務に就いたのは、日本コカ・コーラにいた頃です。当時はマスマーケティング全盛期で、日本コカ・コーラは毎日約2千万人と接点を持つ企業だと言われていました。大量製造・大量販売の時代です。僕も年間70~80本の広告制作に関わって、毎日さまざまな反響に触れながら刺激的な毎日を送っていました。

 僕が入社するのがあと20年遅かったら、もっとデジタル技術を駆使し、高度なターゲティングを図るマーケターになっていたと思います。経済が発展して価値観の多様化が進み、ブランドを通して誰にどんな価値を提供するのか、よりターゲットを細分化して戦略を練る時代ですから。だからこれからマーケターになる人は、テクノロジーの進化に敏感であることが必要です。

 しかしそれ以前に、世の中の変化を想像・予測できる人でなければ、マーケターにも経営者にもなれない。そのイマジネーションを働かせるためには、インプットの量も重要です。インプットとアウトプットの量は必ず比例しますから。

 ではそのインプットは何によって起きるかといえば、キュリオシティ。好奇心ですよ。ヒントはいろいろな場所にありますから、いつでもアンテナを張って、インプットしていかないといけません。

 僕のコカ・コーラ時代は、自分の娘が一番厳しい評論家でした。あの広告を見たけど私たちから見れば変だとか、競合企業のこの広告の方が良かったとか。そういう意見を取り入れるのもいいですし、とにかくアンテナを360度広げ、好奇心を持って吸収することがマーケターには必要です。

―― ではマーケティング面で強い組織の条件は何でしょうか。

魚谷 重要な要素のひとつがダイバーシティです。1997年にアップルが打ち出した「シンク・ディファレント(Think Different)」というスローガンがありました。マーケターでも経営者でも、やはり人と違う考え方ができるというのは大きな価値です。そのためにはかつての日本企業のような同質性の高い組織ではなく、ダイバーシティを重視した組織をつくらなければなりません。資生堂はジェンダーや年齢、国籍、障がいの有無などに関わらず多様な社員が活躍することで、イノベーションが生まれやすい環境になったと思います。

 マーケティングはこうして、企業経営、組織づくりとも大きくつながっています。日本企業が世界で戦っていくためには、マーケター思考を身に付けると同時に、多様な人材が集まる組織をつくることが非常に大切だと僕は考えます。