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異なる軸を持った事業を作る そのために私が社長になった 伊佐早禎則 三菱ガス化学

伊佐早禎則 三菱ガス化学

新規事業の創造。多くの企業がそれを目指しながらも苦戦している。今年4月、三菱ガス化学の新たなトップに就任した伊佐早禎則社長は、まさにその難題に挑むことこそが自分が社長になった理由だと語る。50年以上の歴史を持つ企業の風土を、いかにして変革していくのか。聞き手=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2025年8月号より)

伊佐早禎則 三菱ガス化学のプロフィール

伊佐早禎則 三菱ガス化学
伊佐早禎則 三菱ガス化学社長
いさはや・よしのり 1965年、新潟県で生まれる。91年、筑波大学環境科学研究科修了、同年三菱ガス化学入社。2020年4月、執行役員経営企画部副部長、23年4月常務執行役員研究統括管掌、知的基盤担当、同年6月取締役常務執行役員研究統括管掌、知的基盤担当。 25年4月より現職。

仕事で行き詰まったら3メートル離れてみる

―― 4月1日、三菱ガス化学(MGC)の新社長に就任しました。これまでのキャリアで特に思い出深い時期はいつですか。

伊佐早 いろいろな思い出がありますが、苦労したという意味では若手の頃が思い出深いです。私は大学時代に農薬化学を専攻しており、加えて計算科学も学びました。しかし、入社して任された分野は全く異なる領域です。資料を読んでもいまいち理解ができず、とにかくがむしゃらに実験をしました。実験をすればデータは出るわけですが、それがお客さんの要求にミートしていない。そんな日が続いた頃は、素振りばっかりしている感覚でしんどかったです。

 ただ、先輩から「行き詰まったら3メートル離れてみなさい」と言われたのは支えになりました。たしかにちょっと景色が変わるので、目の前の状況も深刻に考えすぎなくていいのかなと、気持ちの切り替えができました。そうこうしているうちに研究のステージが上がり、パイロット計画に進む段階になると悩んでいる余裕もなくなり、どんどん前のめりになっていったのが若手時代です。

研究を俯瞰しているからこそ 会社の10年先を描ける

―― MGCで研究統括出身者の社長は初めてです。このタイミングで研究統括から社長が誕生したことに何か特別な意味合いはありますか。

伊佐早 大前提として、従来のように技術や研究のレベルで欧米の背中を追いかけるばかりの時代ではなくなりました。むしろわれわれ自身がトップを走っている分野もあります。また、世界的に技術が飽和しつつあるなかで、中国やインドを筆頭に資金力を背景にフロッグジャンプで後から追い上げてくる存在も多くあります。先行者利益は確かにありますが、それでも追いつかれるまでの時間がどんどん短くなってきました。

 そういった時代において、これまでの延長の発想にはない、新たな方向性を羅針盤的に示していくことが求められているというのはひとつ言えると思います。

―― 事業部や技術出身の社長では新たな方向性を打ち出すのが難しいということでしょうか。

伊佐早 必ずしもそういうわけではありません。ただ、競争が激化している事業環境ですから、ある程度リソースを集中させていく必要があります。加えて、それは長期視点に立ってバックキャストした発想でなければいけません。

 当たり前ですが、事業部の思考としてはどうしても足元に向きがちです。ですから、もし事業の安定性だけを追求したいのであれば、事業部出身者が社長になる方がいいのかもしれません。新規事業や新規製品のヒントは、オーガニックな事業成長から見つかることも多いですから。しかし、それだけでは不十分な時代を迎えています。10年先をイメージして大きな絵を描くのは、むしろ会社全体の研究を統括しているポジションの方が適していると感じます。

 MGCはこれまでも研究に力を入れてきましたが、今後はより研究開発の成果をお客さんに届けながらわれわれも成長していく、そんな研究開発型企業を目指す必要があります。そして、多少事業全体の安定性を後回しにしても、これまでの事業とは異なる軸を持った事業を作る。あるいは、目まぐるしく変化する市場に適応していく。そのために私が社長になったのだと理解しています。

―― より事業に即して言うと、MGCはどのような状況にあるからこそ伊佐早さんのような社長が必要になったのでしょうか。

伊佐早 当社は、大きく二つの事業を持っています。一つが、メタノールやMXナイロンなど天然ガスと混合キシレンを起点にしたプロダクトチェーンを展開するグリーン・エネルギー&ケミカル事業で、地熱発電や機能性食品素材などの事業も手掛けています。

 もう一つが、脱酸素剤「エージレス」、カメラやめがねのレンズなどに使われる透明樹脂、半導体を直接搭載する高機能プリント基板向け材料のような最終ユーザーに近い製品を提供し、マーケットニーズと直結したビジネスを展開する機能化学品事業です。

 従来、それぞれの事業は別のタイムスパンを持っていて、例えば片方が厳しい時期はもう一つの事業が支えるなど、うまく調和が取れた事業ポートフォリオでした。ところが、近年は競争環境や研究エコシステムの変化があってタイムスパンが圧縮されており、両事業が同じような波を描くようになりつつありました。だからこそ、異なる軸を持つ新規事業が必要になっています。

 今後は、もちろん自社の研究統括部門が主導する形で新規事業の創出に挑戦しますが、他社やアカデミアとも連携しながら、異なる目線、切り口から事業を展開していこうと準備を進めているところです。また、既存の事業についても、ROEにこだわりながらより収益性の高いモデルを追求していくつもりです。

―― 新規事業がどんどんと出てくる組織に必要な要素は何でしょうか。

伊佐早 大前提として、心理的安全性が担保された組織というか、やりたいことを発言・実行しても怒られない組織であることは重要だと考えています。逆に自由に発言できる雰囲気が乏しいと、どうしても既存の事業から積み上げていく発想になりがちです。その方が、予測しやすいですし安定していますから。

 そもそも新規事業とは目の前にはないものです。現在の延長線上にはない大きな絵を描き、どうしたらそれを実現できるか逆算するしかありません。そうした挑戦の先にイントレプレナーのような存在が生まれれば、やがて周囲の人間にも「感染」し次が育ちます。これを数珠つなぎにしていけば会社のムードも変わってくる。そういう社内教育機関のような組織をつくることも構想しています。加えて、より新規事業が生まれやすい企業風土をつくるためには、個人のやる気を削がない組織にしていくことも重要です。

10%ルールが社員の心を守る

伊佐早禎則 三菱ガス化学
伊佐早禎則 三菱ガス化学

―― どうすれば削がない、くじかない組織ができるのでしょうか。

伊佐早 当社の研究職の事例で言うと、勤務時間の10%は現業と関係のないことをやってもいいというルールを作りました。仕事でなかなか成果に結びつかない時期が続くと、徐々に自分の存在意義を失ってしまうのは無理もないことです。

 そんな時に、自分の好きなことや大学時代に研究していたことを少しやってみると、最初からある程度は全体の絵が見えていることもあってちょっと成功するわけです。すると、結構楽しくなって、ハートが回復してきます。失敗するしない、結果が出る出ないは本当にちょっとした差の場合もありますから、そうやって心のバランスが取れれば折れづらくなるかなと思います。

―― 10%ルールに似た制度を持つ企業はありますが、多くは直接的に新規事業を生み出すことを目的に制度設計している印象があります。

伊佐早 10%ルールは新しい研究テーマを発掘させるためのものだという考え方もよく分かります。でも、それはお土産であって、本当の目的は社員の心を折らせないこと。それで何となくみんながワクワクできる組織をつくる。組織文化というか、土壌が大事です。私はこれこそが人的資本だと考えています。

 それから、制度としては現業を90%やり、残りの10%は好きなことをしていいという設計ですが、現実的にはみんな現業で100%頑張ってしまうんです。それなのに、新規事業に直結することを狙って10%ルールを設計すると、結局みんな110%働くことになってしまう。それは誰も幸せではないですよ。10%はあくまで好きなことをやる余白です。その余白でリフレッシュすれば、必ず目の前の仕事にも違った視点が生まれます。結果的に新規事業にもつながるかもしれません。

―― 直接的な結果は度外視の制度とすると管理職の理解も重要ですね。

伊佐早 実際、管理職から見ればびっくりするようなことをする社員もいますけど、それはそれ(笑)。管理職には、それも飲み込んでくださいね、安全管理だけはお願いしますねと伝えています。逆に管理職も勉強になっていい刺激です。

 現状としてこの10%ルールは研究所だけの制度ですが、今後は工場の技術者や本社のコーポレート部門、事務職にも広げていきたいと考えています。イノベーションは技術だけではないですから。既存のものと既存のものを組み合わせるだけでイノベーションになることもあります。発想があれば誰でも提案や活動ができるようにすれば、ワクワクできる仕事の幅が広がるはずです。MGCの社員はおとなしいですが、どんどん手を上げてほしいなと思います。

―― 事業での挑戦。組織での挑戦。伊佐早さんの思い描いていることを実行した時、好かれる社長になると思いますか。

伊佐早 楽しい会社にはできると思っています。ただ、時には激しい対立があっても構いません。いろんな人がいるからいいのであって、金太郎飴のようでは、組織全体に負荷がかかった時にポキッと折れてしまいます。ダイバーシティインクルージョンも含めて、創造的摩擦は大歓迎です。別に殴り合うわけじゃないですから(笑)。