9月初旬現在、中堅ゼネコンの前田建設工業を傘下に持つインフロニア・ホールディングスによる三井住友建設のTOBが進行中だ。実現すれば、インフロニアの売り上げは1兆円を超え、スーパーゼネコンを視界に捕らえる。しかし社長兼CEOの岐部一誠氏は「そんなことに興味はない」と一蹴する。それでは岐部氏はその先に何を見ているのか。岐部氏が目指す「脱請負」とはいかなるものなのか。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年11月号より)
岐部一誠 インフロニア・ホールディングスのプロフィール

きべ・かずなり 1961年長崎県生まれ。86年に熊本大学工学部を卒業し前田建設工業入社。現場施工・営業担当を経て、経営企画部門へ異動。 2007年に本店総合企画部長、10年執行役員、14年常務執行役員、を経て16年取締役。21年5月に副社長となり、同年10月、前田建設工業、前田道路、前田製作所を傘下に置く持株会社インフロニア・ホールディングス発足に伴い社長兼CEOに就任した。
スーパーゼネコンを蹴って前田建設入社を決めた理由
―― 本誌発売日には結果が出ていますが、三井住友建設のTOBに成功すれば1兆円企業の仲間入りです。
岐部 よくそういわれるのですが、実は売り上げについてはそれほどの興味を持っていません。そもそも建設会社はトップラインの指標である売上高と受注目標をなくすべきだと私はずっと主張してきました。目標はボトムラインの利益です。ですから1兆円を超えることへの感想を聞かれても実は何もありません。
―― 岐部さんは熊本大学工学部を卒業して前田建設に入社。もともと建設・土木に興味があったのですか。
岐部 親が公務員で土木関係の仕事をしていたり、親戚にもゼネコン関係が何人もいたために身近な存在ではありました。ただ公務員ではなく民間企業に行きたいという気持ちはありました。
―― なぜ前田建設だったのですか。
岐部 学校推薦です。それとは別に、あるスーパーゼネコンからも内定をもらいました。ただ最終面接の時の雰囲気は前田建設の方がはるかによかった。こっちの方が自分に合うのでは、と考え決めました。ところがスーパーゼネコンの方はまさか自分たちが断られるとは思っていなかったようで、断った翌日、九州支店長がわざわざ熊本にまで来て、説得されました。それでも気持ちは変わりませんでしたし、同席した研究室の先生も君の思う通りにしなさいと言ってくれて、前田建設入りが決まりました。
―― 後悔したりしませんでした?
岐部 なくはないです(笑)。例えばボーナスひとつとっても当時のスーパーゼネコンと前田建設では全然違いました。なんでこんなに違うのかとは思いました。ただ私は執行役となった時に、そのスーパーゼネコンにも挨拶に行きました。「何歳?」と聞かれ「48歳です」と答え「うちなら課長の年齢だ」と言われた時に、前田建設でよかったと心の底から思いました。
―― 最初は土木現場で働いて、その後、営業、企画へと転じています。転属は希望した結果ですか。
岐部 私はこれまで、自分の希望で部署を異動したことは一度もありません。会社に言われたとおりにやってきただけです。営業配属になった時も、本音ではあと数年、現場に張り付いていたかった。もう少しやったら、誰にも負けない絶対的な自信が得られるのではないかと思っていました。ただ支店の管理部門でマネジメントのサポートをやるうちに、営業の人がクライアントに提案する時に技術的なサポートで一緒に動くことも増えていた。そんな仕事をしていると、いずれ営業に来いと言われるのではないかと思っていたら、本当に呼ばれてしまいました。
営業に行ったら行ったで仕事は面白い。やっていればその道を究めることができるのではないか、と思っていたら、今度は経営企画に行けと。これも本意ではありませんでした。
―― 経営企画ではどんな仕事をしていたのですか。
岐部 前田建設の経営企画は2つあって、一つは渉外、もう一つがいわゆる経営企画です。私は渉外でした。当時の会長、前田又兵衛が日建連の会長をやっていたこともあり、日建連や経団連、経済同友会などで会長をサポートする役割でした。
大学の先生、霞が関、あるいは政治家の方々へのロビイングも当時の仕事でした。そういうことをやりながら、徐々に経営企画の分野についても関わるようになっていきます。
ゼネコンでは唯一無二 支店独立採算制を廃止
―― 前田建設はバブル崩壊後に業績が低迷し、2000年代には赤字に転落しています。
岐部 2000年代に2度にわたり最終赤字を計上しています。最初の03年3月期の時は、多くのゼネコンが同じ状況で、バブル時代に抱えた不良債権の減損処理を行わざるを得なかった。前田建設の傷は、ゼネコン全体の中でもまだ軽い方でしたが、それでも300億円の処理を行いました。それに伴い経営改革を迫られたのですが、正直、会社全体が本気になったとは言えませんでした。人事により担当者に責任を取らせたりしましたが、抜本的な改革には程遠いものでした。
2度目の08年3月期の時は456億円(単体)の最終赤字でした。不採算の工事もまだ進行中のものが多かったので、数年に分けて処理することもできました。でもそれよりも前倒しで膿を出すだけ出して本気で経営改革をやるべきだと、当時の社長や副社長と話をしたのが、前年の夏ぐらいのことでした。その結果、赤字受注の工事を一掃する、海外事業も大幅に見直す、さらには早期退職制度も導入する。この3点セットの改革を実行しました。
―― 事業本部制を導入したのもこの頃ですか。支店独立採算制をやめ事業本部ごとに収益を管理するというゼネコンでは例のない試みでした。
岐部 事業本部制を導入したのは04年です。最初は形だけで、今までどおりに支店が独立採算的に受注・工事を行う体制が続いていました。08年の赤字をきっかけに支店独立採算とは完全に決別しました。
―― ゼネコンの支店長と言えば一国一城の主であり、ミニ社長です。支店長を目指して働いている人も多くいます。その支店長から経営の裁量を奪うわけですから反発が大きかったことは容易に想像がつきます。
岐部 すごかったですね。とにかく岐部を辞めさせろ、という人間もいました。でもそこまでやって企業体質を変えないことには前田建設が生き残ることはできない。というのもわれわれは準大手、セカンドランナーです。トップランナーなら今のままでも生き残ることはできるでしょうが、われわれはそうではない。長い慣行であったルールを変えるしかない。その焦燥感はものすごく強かったし、それが原動力になりました。
―― 当時の岐部さんは総合企画部長。トップはおろか、役員でもないのによくできましたね。あるいはトップの全面的な協力があったとか。
岐部 最終的にはトップが全面的に応援してくれました。この話を他のゼネコンに言うと、必ず、どの時点でトップから指示がきたのですかと聞かれます。でも思い切った改革をトップが指示することはまずありません。現場をよく知る人間が上に提案して説得する、そうでなければ会社を変えることは難しいと思います。
―― 下から上げたのでは、途中でつぶされる可能性が強いです。
岐部 ですから覚悟が必要です。本気で会社を変えようと思ったら、心の底から改革が必要だと思ったら、クビを覚悟で実行する。それしかありません。その覚悟がなければ新しいことなど絶対にできません。
―― その覚悟はどこからくるのですか。
岐部 楽観主義なので、まあ、クビになったらなったで食べていくことはできるだろうとは思っていました。現場にもいたので、仕事のやり方は分かっている。営業部、企画部の時に金融機関などいろんな人たちと仕事をした経験からアイデアと行動力さえあれば仕事はいくらでもあることにも気づきました。例えば私が建設アナリストになったら、それなりのレポートを書くことができる。クビになりたいわけではないけれど、なっても何とかなる、という気持ちでした。
―― 過去のインタビューを読むと中谷巌さん(元一橋大学教授、元多摩大学学長)の勉強会に通ったことが人生に影響を与えたとあります。
岐部 通い始めたのは04年です。最初の赤字を受けて経営改革案を出したのですが、思った形にはならなかった。そこで会社を辞めることも考えたのですが、慰留のつもりで会社が海外留学を用意するという。ところが蓋を開けたら中谷学校だった(笑)。でも結果的にはすごく勉強になりました。社会人としてのターニングポイントだといって過言ではありません。学ぶことは宗教や哲学、社会学や歴史です。学校でも学びましたが、すべて忘れている。それを世界システムの変化として学び直す。それによってより深く思考する訓練ができ、国家や社会、さらには資本主義の根本原理も理解できるようになる。ひいては建設業のマーケットも、それ以前と以後ではまるで違って見えるようになりました。
三井住友建設と組み日本のインフラを守る
―― リベラルアーツを学び、社内改革を推進し、2021年には副社長に就任します。そして同年10月、前田建設工業・前田道路・前田製作所の3社でインフロニア・ホールディングスを設立し、社長兼CEOとなり今日に至ります。そして掲げたのが「脱請負」です。
岐部 いえ、脱請負を言い始めたのは2011年当時の社長の年頭挨拶からです。民主党政権で、年度内の3月までに2つの閣議決定が行われることを予想していました。一つは再生エネルギーのFIT制度(固定価格買い取り)、もう一つがPPP・PFI(公的施設・サービスへの民間活用)の導入です。今まで建設業は請負が中心でしたが、生活インフラや公共施設の運営権を取得してその対価を得るコンセッション(民間による公共施設運営)事業に関わることができ、それが次の成長エンジンになる。そう考えて年頭挨拶で語ってもらいました。そして実際、15年に一号案件である仙台空港の運営を獲得することができました。その後、同様の事例は大きく広がっています。
―― そして今度は三井住友建設という歴史あるゼネコンの買収です。
岐部 われわれと三井住友建設は同じ程度の規模ですが、収益力がまるで違います。それはこれまで経営改革をやってきたかどうかの違いだと思っています。つまり、われわれの経験を注ぐことで、業績の改善は可能です。しかも補完関係もある。例えば前田建設は一時海外事業を凍結しましたが、三井住友建設は実績があるし、利益も出ている。お互い手を組むことで国内外のインフラを守りパイオニアとなる。そんな会社を目指します。

