経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

ジャーナリストを選んだ理由とマルハビライフの奨め――蟹瀬誠一(ジャーナリスト)

ジャーナリスト 蟹瀬誠一氏 イラスト

今回はジャーナリストの蟹瀬誠一さんをゲストにお迎えしました。ニュースキャスターとしてお茶の間でもおなじみの蟹瀬さんですが、一時は画家を志したこともあったとか。それがなぜ、ジャーナリストになったのか。きっかけは、あの「大事件」だったそうです。

勤務先は変われど転職は一度もなしと語る蟹瀬誠一氏

佐藤 蟹瀬さんというとニュースキャスターのイメージが強いですが、もともとは海外の通信社や雑誌など、文字媒体で活躍された硬派のジャーナリストです。なぜジャーナリストの道を志したのですか。

20160823SANSAN_P01

(かにせ・せいいち)1950年生まれ。日本大学文理学部体育学科中退後、上智大学文学部新聞学科卒業。AP通信社記者、AFP通信社、『TIME』誌東京特派員を経て、ジャーナリストとして独立。TBSやテレビ朝日などでニュースキャスターを務める。現在、明治大学国際日本学部教授、日本ゴルフ改革会議副議長等を務めている。

蟹瀬 これを言うと笑われるんだけど、高校3年生の時に突然、画家になろうと思ったんです。絵は好きだったけれど描いたことはない。それでも画家になると思い込み、武蔵野美術大学を受験しました。でも成績は悪いし、絵は描けない。当然落第です。

そこですぐに「これは無理だ」と諦めて、今度は体育の先生になろうと思い日本大学文理学部体育学科に入学したものの、「これは違う」と感じて中退。どうしようかな、という時に目についたのが上智大学新聞学科です。新聞学科なんてほかでは聞いたことがない。人と違うことをやりたい天の邪鬼の私にはうってつけだと思い、入学しました。

佐藤 そこからジャーナリスト人生が始まるんですね。

蟹瀬 その時はまだ、ジャーナリストになりたいという強い気持ちはありませんでした。でも在学中の1970年11月25日、三島由紀夫事件が起こります。現場の市ヶ谷駐屯地は大学の近くでしたから、私もすぐに駆け付けた。その後、大学に戻ると、教授が授業を中止にして三島の死について語り合おうと言う。ノーベル賞候補の世界的作家がなぜ割腹自殺をしなければならないのか。そういうことを考えるうちに、知りたいことを知り、そしてそれを伝えるジャーナリズムへの関心が少しずつ芽生えていった。ですから、あの事件がなかったら私はジャーナリストになっていません。

その後、フィリピンに留学、さらには『TIME』誌のインターンを経験したのちにAP通信に入社。AFP通信、TIME誌を経てフリーになり、今日に至っています。

佐藤 どれも世界を代表する通信社や雑誌ですが、ひとつのところにじっとしていることは苦手のようですね。

蟹瀬 初めて社会人になった時から、何の根拠もないけれど、1社3年までと決めていました。私の父は転勤が多く、だいたい2年か3年で勤務地が変わっていた。だから私も1カ所にとどまるのは得意じゃないようです。だけど、働く会社や場所は変わったかもしれないけれど、転職したことは一度もありません。道に迷うことなく、ずっとジャーナリストとして働いています。

九死に一生を得た蟹瀬誠一氏がロシアでの銃撃戦を語る

佐藤 蟹瀬さんには現場を大事にするというイメージがあります。ニュースキャスターでありながら、よく現場からレポートしていたのを覚えています。インターネットの発達によっていろんな情報を得ることが簡単になりましたが、その一方で現場に行くことが少なくなったような気がします。

蟹瀬 インターネットは便利ですが、一次情報を一生懸命に取りに行く人が減ったように思います。でもジャーナリズムの原点は現場での取材にあります。

何度か危ない目にも遭いました。93年のロシアでエリツィン派と議会派の対立を取材した時は、私たちを挟んで銃撃戦が始まりました。その瞬間、周りがスローモーションになり、空に家族の顔が浮かびました。この時はさすがに覚悟しましたね。

カンボジアではデング熱にもかかりました。帰国して寝ていたら地震が起きた。でも実際はベッドがガタガタいうほど震えが止まらなかった。そこで病院にいったらデング熱だと診断され、1週間入院しました。でもそのお陰で、昨年、日本国内でデング熱が発生した時は、経験者として取材されました。やっぱり身をもって知るということは大切ですね(笑)。

蟹瀬誠一氏のスタイル 平日東京、週末軽井沢のマルチハビテーション

佐藤 蟹瀬さんとはゴルフ場で会うことが多いですね、今は日本ゴルフ改革会議副議長も務めていらっしゃいます。

20160906SANSAN_P01

(かにせ・せいいち)1950年生まれ。日本大学文理学部体育学科中退後、上智大学文学部新聞学科卒業。AP通信社記者、AFP通信社、『TIME』誌東京特派員を経て、ジャーナリストとして独立。TBSやテレビ朝日などでニュースキャスターを務める。現在、明治大学国際日本学部教授、日本ゴルフ改革会議副議長等を務めている。

蟹瀬 ずっと硬派のジャーナリストとして過ごしてきましたが、50歳を機に間口を広げることにし、ゴルフにも関わるようになりました。堕落したと言う人もいましたが、自分の人生、自分で楽しまないと。

佐藤 それで今は軽井沢ライフを楽しんでいらっしゃる。

蟹瀬 軽井沢に家を持ったのは10年近く前です。取材でヨーロッパ、特に北欧に行くと、普通の人がセカンドハウスを持っている。月曜日から金曜日までは都会の家から職場に通い、週末になると、1時間ほど離れたところにある自然に囲まれたもうひとつの家に移り、人間らしさを取り戻す。そういう生活をまねしたいとずっと思っていました。

日本で、都心から1時間で行けて都会的利便性がありながら自然を楽しめる場所というと、軽井沢がダントツです。そこで、家を持つことを決めました。

佐藤 蟹瀬さんは確か賃貸派でしたよね。それなのに軽井沢に家を建てると言ったら、奥さんは驚いたでしょう。

蟹瀬 最初はぎょっとしてた(笑)。そこで戦略を考えました。彼女の喜ぶ景色を見せれば心がなびくだろうと、彼女が好きなコブシの花が咲く頃に連れて行った。案の定、その風景を見たら、軽井沢に住むことに乗り気になりました。

今では平日は東京、週末は軽井沢ですし、夏の間はここから東京へ通勤する生活になりました。「デュアルライフ」という言葉があるけれど、これだと本妻以外の別宅がある二重生活と受け取られかねない。そこで、複数の住居がある「マルチハビテーション」、略して「マルハビ」をはやらそうと思っています。

40代まで種をまき50代からは収穫期と語る蟹瀬誠一氏

佐藤 蟹瀬さんは本当に人生を楽しんでいらっしゃいますね。その秘訣を教えてください。

蟹瀬 行き当たりばったりに人生を楽しんできただけです。ただ、取材でいろんな現場に行くと、ベルリンの壁のようにそれまで絶対と思っていたものがあっという間に崩れることもある。「9.11」のように、突然何千人もの命が奪われることもある。そんな命のはかなさを知れば知るほど、今この瞬間を楽しく生きようという思いは強くなります。

もうひとつ、アメリカにいる時代に、10年ごとに軸を変えていく生き方はいいな、と考えるようになりました。それは「20代は美、30代は強、40代は賢、50代は豊、60代は健」というものです。

20代はやりたいことができるし、失敗してもやり直しがきく。30代は家庭を持ったりローンを抱えたりで肩に荷物が乗ってくる。歯を食いしばりがむしゃらに働く時期です。40代はひと息ついて、それからの人生をにらんで賢明な選択をする時期。ここまでが種まきで、50代からは収穫です。

50代は豊さを実感する時期。自分で幸せを感じることにお金と時間を使うべきです。私が仕事の間口を広げたのも50代になったからです。そして60代は健康に生きる。健康でなければ人生を楽しむことはできません。年寄りになったから遊ばなくなるのではなく、遊ばなくなるから年寄りになるんです。年齢を重ねても老人になる必要はありません。

佐藤 だから蟹瀬さんはいつまでも若々しいんですね。私も大いに見習いたいと思います。


対談を終えて

20160906SANSAN_P02お会いするたびに、その若さに驚かされる蟹瀬さん。「人生、行き当たりばったり」とおっしゃっていましたが、その場その時に全力で物事にぶつかってきたからこそ、人生を楽しむことができるのではないでしょうか。

 

 

経済界 電子雑誌版のご購入はこちら!
雑誌の紙面がそのままタブレットやスマートフォンで読める!
電子雑誌版は毎月25日発売です
Amazon Kindleストア
楽天kobo
honto
MAGASTORE
ebookjapan
 

雑誌「経済界」定期購読のご案内はこちら

経済界ウェブトップへ戻る