経営環境が激変し、売上高が半分に落ち込めば、ほとんどの会社は赤字に転落、存亡の危機に立たされてしまう。フルキャストホールディングスの落ち込み方はそれ以上で売上高は6分の1に激減した。創業者の平野岳史も、何度もこれまでかと覚悟した。しかしここにきて業績は急浮上し、最高益が見えてきた。何が平野を支えたのか。文=関 慎夫 Photo=西畑孝則
平野岳史・フルキャストホールディングス会長プロフィール
売上高1千億円から100億円台に急落したフルキャスト
ピーク時には1千億円以上あった売上高は、一時174億円にまで落ちた。その後回復に転じたとはいえ、前12月期の売上高は253億円にすぎない。それでもフルキャストの平野岳史は「売り上げのピークだった10年前より、今のほうが充実している」と言い切る。
平野がフルキャストホールディングスの前身、神奈川進学研究会を立ち上げたのは1987年のこと。その名の通り家庭教師の派遣などの教育関連事業を行っていたが、のちにスポット派遣と呼ばれる日雇い派遣事業に参入する。
「会社を立ち上げて4年ほどたった頃です。ある引っ越し業者が明日、5人ほど人手が足りないと相談してきた。そこで50人ほどに声をかけ、5人を確保して朝8時に集合させました。すごく感謝されましたが、その引っ越し業者が言うには、本当は3人でよかったし、8時ではなく9時でよかったと」
当時も人材を斡旋・派遣する業者はいたが、いい加減なところが多かった。希望した人数が集まるかどうかはその日にならないと分からない。しかも時間どおりには集まらない。平野に頼んだ引っ越し業者も、それを見越して人数と時間のサバを読んだのだが、平野は要求に完璧に応えた。これをきっかけに日雇い派遣業に軸足を移していく。業界のいい加減さを知ったことで、逆にビジネスチャンスがあることに気づいたのだ。
「働く側、労働者を受け入れる側、それぞれにニーズがあった。働く側は、今すぐお金がほしいけれど、好きな時にできるだけ家の近くで仕事をしたいと考えている。一方、企業側も、仕事量に合わせた人材がほしい。そのため前日に大量の発注をしても、きちんと時間どおりに人材を送り込んでくれるのであれば利用したいと考えている。お互い非常にわがままです。そのニーズを満たしてあげることで、仕事はどんどん増えていきました」
2年目にはマッチングのシステム化に取り込む。当時、そんなシステムは世の中に存在していなかったため、自力で開発。これによりフルキャストの業績はさらに拡大していく。とはいえ初期段階では資金繰りは火の車だったという。日雇い派遣の場合、売り上げよりも労働者への支払いが先に発生する。またシステム開発も先行投資であり、回収には時間がかかる。キャッシュ不足に見舞われることは日常茶飯事で、丸井でキャッシングをして派遣労働者の給料を払ったこともあるという。
楽天の本拠地の命名権を獲得
しかし時代は平野に味方した。90年代、働き方の多様性を高めようと、労働者派遣法が改正され、派遣可能な業種が大きく広がった。またバブル崩壊後、人件費の見直しに直面した企業は正社員の採用を控えるようになる。その結果、フリーターやニートが急増、フルキャストは彼らの受け皿となった。平野自身も会社を立ち上げるまではフリーター生活を送ったことがあるため、短期労働市場の重要性を誰よりも分かっていた。
2001年には株式を店頭公開、03年には東証2部上場、さらに翌年には1部へ指定替えととんとん拍子で成長を遂げていく。この当時ライバルだったのがグッドウィル・グループで、両社は競うように業績を伸ばしていった。
05年には東北楽天イーグルスの本拠地、宮城球場のネーミングライツを獲得、フルキャストスタジアム宮城と命名し、フルキャストの名前は全国区になっていく。当時のことを平野が振り返る。
「フルキャストスタジアムで始球式を行った時は、自分もいよいよここまできたか、という思いでした。でも周りを見れば、楽天の三木谷さんや、光通信の重田さんのように、先を行く起業家たちがいる。そこを目指して、さらに走っていこうと考えていました」
当時の平野にとって、成長こそがすべての目標だった。日雇い派遣の世界でも、グッドウィルが少し先を行っている。追いつき追い越せと懸命に数字を追いかけ続けた。
業績悪化の責任を取り経営の一線から退いた平野岳史
平野自身は別にいい気になっていたわけではないという。しかしいつの間にか足元が留守になっていたのだろう。06年になると、突如、逆風が吹き始める。
労働者派遣法で禁じられていた建設業務への労働者派遣が表面化。それ以外にも残業手当の計算不備等、いくつもの不祥事が報じられる。同様の問題はグッドウィルでも起こり、両社の経営手法に批判が集まった。しかもこの頃、若者の正社員と非正規社員の格差が社会問題化、日雇い派遣そのものが「ワーキングプア」の根源と指摘された。
前述のように、平野は自身の経験から短期派遣は社会的意義があることと考え、事業を進めてきた。ところがいつの間にか「社会悪」としての烙印を押されてしまっていた。
07年8月、違法派遣が繰り返されたとして東京労働局より業務停止命令を受ける。これを受けて平野は代表権を返上、さらにはコンプライアンスやチェック体制を強化する再発防止策を発表した。ところが、暴走問題はそれでは収まらなかった。業務停止命令中に違法な派遣を繰り返したとして、翌年10月、2度目の業務停止命令を受ける。
「最終責任者は私ですから、すべての責任は私にある。真摯に反省しました。ただその一方で、きちんと体制を整えたはずなのに、なぜこんなことになったのかという思いも正直なところありました」
さらにそこにリーマンショックが襲い掛かる。07年9月期からフルキャストは3期連続で最終赤字を計上する。07年9月期には1083億円あった売上高は13年12月期には174億円にまで落ち込んだ。平野は責任を明確化するために経営の一線からも退いた。
「虚業ではなく実業」―危機を脱した平野岳史が思うこと
「何度も辞めようと思いました。思いとどまらせたのは意地というかメンツというか。もしこれで終わってしまったら、自分のやってきたことが法の盲点を突いただけの虚業と思われてしまう。それだけは許せなかった。それに危機に瀕して辞めていく社員も多くいる中で、それでもついてきてくれた社員がいた。彼らの存在が心の支えになっていました」
12年労働者派遣法が改正され、30日以内の短期派遣が原則禁止された。それに伴いフルキャストは、企業が直接雇用するアルバイトの人材紹介と、給与計算などの雇用に関わる代行業務に舵を切る。その戦略がうまくはまり、業績は上向き始める。現在では、毎月2千~3千社のクライアントが、短期人材紹介を利用、登録者も年間約20万人に達した。
その結果、前12月期決算では売上高は前期比12%増の253億円、営業利益は同25.5%増の28億円となった。なお、人材派遣と人材紹介では売上高の計上の仕方が異なり、現在の数字の3倍が、人材派遣時代の売上高に相当する。つまり前期の売り上げは、ピーク時の7割ほどまで回復した。
「利益も7~8割まで戻ってきています。20年に50億円の営業利益目標を立てていますが、これは過去最高益に匹敵します」
何より平野にとってうれしいのは、短期労働ビジネスが社会的に認知されてきたことだ。虚業ではなく実業であることを、復活することで証明してみせた。そして平野自身も、2年前に会長に復帰した。
10年前のピーク時、フルキャストはM&Aを繰り返し、傘下に20社以上を抱える企業グループとなった。経営危機に際しすべてを手放したが、ここにきて再び平野はM&Aに意欲を見せる。
「同じM&Aでも10年前とは考え方が違います。以前はレバレッジを効かせて、何が何でも手に入れていた。それをやるのが優秀な経営者と思われていました。今は違います。本当の意味でシナジーが見込めるか。中長期で新しい事業ができるか吟味して取り組みます」
激動の10年を経て平野は「いい意味でしたたかになった」と自己分析する。フルキャストという組織もまた、たくましくなった。成長スピードはかつてのようには速くはないが、「人ありき、組織ありきで成長していく」。(敬称略)
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