今年創業130周年を迎えた松竹。その成り立ちは、創業者兄弟が興行師として歌舞伎プロデュースや劇場の経営を手掛けたことだ。130年の伝統と「かぶき者」としての革新をどう両立させているのか。歌舞伎座支配人の千田学氏に、現代日本への歌舞伎の届け方を聞く。聞き手=小林千華 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年10月号より)
千田 学 松竹 歌舞伎座のプロフィール

せんだ・まなぶ 1967年、山口県生まれ。関西大学文学部を卒業後、91年に松竹入社。道頓堀 中座(当時)、京都 南座、大阪松竹座、新橋演舞場、歌舞伎座と異動を重ね、それぞれで団体営業に従事。2015年から新橋演舞場支配人、19年から大阪松竹座支配人を歴任し、21年、歌舞伎座支配人に就任(現任)。
客入り、演出、大向う 全てが失われたコロナ禍
―― 松竹は今年、創業130周年の節目です。歌舞伎座でも記念興行を開催しているそうですね。
千田 3月、9月、10月の3カ月、記念興行として三大名作の一挙上演が決まっています。三大名作とは、「義太夫狂言」と呼ばれる作品群の中で代表的な、『仮名手本忠臣蔵』、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』の3演目。これらの一挙上演は、1995年の創業100周年以来です。
―― 千田さんはもともと歌舞伎が好きで松竹に入社されたのですか。
千田 いえ、松竹に入社したのは映画が好きだったからです。山口県で生まれ、生でお芝居を見る機会がない環境で育ちましたし、松竹が演劇事業をやっていることも入社してから知りました。
演劇との出会いは、新入社員研修で見た平成三年(91年)四月大歌舞伎『法界坊』です。主演は二世中村吉右衛門さん。内容が喜劇的で分かりやすく、歌舞伎にもこんなジャンルがあるのかと意外でした。これまで好きだった映画とは違う生のお芝居の魅力も感じました。
入社まで演劇には縁がなかった私ですが、入社後はずっと劇場に配属され、松竹直営の全ての劇場で勤務することになりました。
2014年までは各劇場で団体営業に従事しました。客層は劇場によって異なります。歌舞伎座では1年を通して毎月歌舞伎を上演しますが、新橋演舞場、大阪松竹座、京都南座では歌舞伎、ミュージカル、松竹新喜劇、OSK日本歌劇団、新派、コンサートなど幅広いジャンルの公演を上演します。月ごとに営業展開を変える難しさはありましたね。
そして15年、新橋演舞場で初めて支配人になりました。映画が好きで入社しましたが、気付けば演劇一筋でここまで来ていました。
―― 19年には大阪松竹座へ異動して支配人になりますが、ここでコロナ禍に見舞われたのですね。
千田 大阪松竹座は道頓堀にあり、着任当初は劇場周辺がインバウンドの観光客であふれ返っていました。それがコロナ禍となり、人っ子一人歩いていない状況に。感染症対策を実施し、政府の方針、業界団体策定のガイドラインを順守しながら、上演を再開していきました。
歌舞伎座も20年3月に休演に追い込まれ、同年8月に上演を再開しています。再開時は、桟敷席、4階一幕見席の販売はなし。その他の座席も1席ごとに間を空けて販売しました。また、お客さまの劇場滞在時間を減らすため、上演時間60分以内を目安に演目を選定し、1日に4部、毎回観客を総入れ替えする形で上演しました。俳優、スタッフも各部入れ替え、接触機会を減らす工夫もしていました。
ちなみに通常時だと、歌舞伎座の定員は、約1900人。舞台は、お客さま、俳優、出演者が同じ劇場空間で共鳴して成立しています。空席が目立つ劇場空間では、本来の舞台と客席の一体感や迫力が出ず、悔しい思いもしました。
―― 大変な苦労です。
千田 コロナ禍の時は、極度に緊張感のある状態でした。マスコミも連日コロナ感染症の状況を報道していましたから、お客さまもどうしてもピリピリされていました。私が東京に異動になり、歌舞伎座支配人に就任した21年も、まだ感染症対策をしながら、みんなで試行錯誤している最中でした。
例えば歌舞伎の醍醐味である大向う(※)も、禁止せざるを得ませんでした。それでも時々いつものように掛け声をかけられるお客さまもいらっしゃって、周囲のお客さまからクレームが寄せられることもありました。22年10月から、声を出す観劇の制限緩和を受けて、4階席に「大向うエリア」を設置し、大向うを2人に限定して再開しました。コロナ禍で劇場も大変でしたが、そのような状況の中、足を運んでいただいたお客さまには、感謝の気持ちでいっぱいでした。
ただ、歌舞伎はやはり比較的年齢層の高いお客さまが多いので、他のライブエンタメよりも回復が緩やかだったと思います。アイドルのコンサートなどが満席になる中、歌舞伎座はまだなかなか、ということもありました。
―― コロナ禍で開始した歌舞伎のオンライン配信は、今も継続されています。
千田 実は私もコロナ禍に入るまで、配信なんか始めたら直接劇場を訪れるお客さまが減るのではと危惧していました。俳優、スタッフの中にも、同じように考えている方もいらっしゃいました。
しかしコロナ禍に入ったことで、俳優、スタッフも口を揃えて「配信をやってみた方がいいんじゃない?」と。こうした試みは、俳優も含めてみんなが同じ気持ちにならないと進めにくい面もありますので、全員の気持ちが一致したという点では良いきっかけになりました。
実際に配信を始めてみると、「入院していても見られた」「海外にいても見られた」などのお声を頂いたり、一度生で舞台を見た方が配信で見返して、新しい発見があったと言ってくださったり。配信で見たことをきっかけにご来場された方もいました。それに、劇場のチケットは上限が客席定員になりますが、配信は一度にご覧いただける規模を増やせますし、好きな時間に見ることもできます。劇場での観劇と配信が両立することが分かったのは、コロナ禍の大きな収穫でした。
現代に届ける歌舞伎 多様な魅力を見つけて

202510_特集_松竹_2509「秀山祭九月大歌舞伎」特別ビジュアル (2) (002):画像提供=松竹
―― 近年、初音ミクの登場する「超歌舞伎」など、若い人や海外の人をターゲットにした演目も増えています。歌舞伎を現代に届けるための工夫には、他にどんなものがあるのでしょう。
千田 歌舞伎座の成り立ちを振り返れば、初代歌舞伎座が開場したのは明治22年(1889年)。江戸時代が終わって文明開化の時代となり、歌舞伎も今までのやり方を見直し、演劇の近代化や西洋化を推進するものにしようという「演劇改良運動」の対象になりました。その運動の推進者だった福地桜痴が中心となって、歌舞伎座は建設されたのです。世の中の変化に合わせて演劇も新しくしていくべきだと。歌舞伎座はそんな運動の象徴でした。
今の人たちの中にも、歌舞伎は「伝統芸能」「古いもの」と捉えている方は多いのではないでしょうか。他社製作作品ですが、大ヒット中の映画『国宝』でも、『京鹿子娘道成寺』『曽根崎心中』といった古典作品が取り上げられています。一般的に、歌舞伎と聞いてイメージされるのはこうした演目でしょう。
しかし実際は「超歌舞伎」や、7、8月に新橋演舞場などで上演した歌舞伎『刀剣乱舞』のように、新作がどんどん生まれています。これは新しい試みではなく、そもそも歌舞伎とは、常に時代に合わせて変化していくものなのです。歌舞伎の語源は「傾(かぶ)く」。奇抜な身なりや常識外れの振る舞いをして流行の先端を行く「かぶき者」を表現した「かぶき踊り」が歌舞伎のルーツです。だからいつの時代も歌舞伎は現代に届けるものとして、古典を大切にしながら、今の時代を反映した新作も作られているんです。
―― 歌舞伎が新しいもの、という印象は確かに薄かったです。
千田 逆に常に新しくしていかなければ、これだけの規模の劇場を続けていくのは困難です。
演目自体もそうですが、俳優さんがアドリブで「大谷翔平選手が……」とか、「最近お米が高いからね」といった時事的なセリフを入れることもあるんですよ。やはり生のお芝居ですから、こうしてお客さまの笑いを誘って一服していただくこともあります。
―― その魅力を世間に伝えるのも難しいですね。
千田 私自身、松竹に入社するまで歌舞伎は縁遠い世界でしたから。今、当時の自分と同じように歌舞伎になじみの薄い方が、それこそ映画『国宝』をご覧になったことなどをきっかけに興味を持ち、生で見たいと思っていただけたら、それはとてもうれしいです。
しかし歌舞伎と一口に言っても、演目、ジャンルも多様です。たまたま見た演目が自分に合わなかったからといって、それでやめてしまうのはもったいないですよ。私もそんな歌舞伎の多様な魅力を伝え続けていきたいです。
※大向う:歌舞伎の上演中、見せ場に合わせて客席後方から歌舞伎俳優の屋号を叫ぶこと。

