文=大島幹雄 ノンフィクション作家
おおしま・みきお 1953年、宮城県生まれ。早稲田大学第一文学部露文科卒。サーカスプロモーターとして活動し、自ら立ち上げたサーカス学会にて学長を務める。石巻若宮丸漂流民の会事務局長も兼任。著書に『虚業成れり―「呼び屋」神彰の生涯―』(岩波書店)など。
ドン・コサック合唱団を戦後日本に呼んだ男
コロナ、そしてロシアによるウクライナ侵攻のため2020年の公演を最後に見ることはできなくなったが、ボリショイサーカス公演は夏の風物詩として日本人に親しまれていた。
このサーカスが初来日したのは、いまから67年前の1958年。17頭の熊のショーが大評判になり、日本中を沸かせた。「客は長屋の内儀さんにお上りさん、坊やにおばあさん、大学教授からビジネス・ガール、せんべい屋のオッさんまで。老若男女、これほど広い社会層を大多数、観客に動員した興行はかつて例がないのではなかろうか」(『文藝春秋』一九五八年八月増刊号)と評されたように、サーカスが大衆のあらゆる世代を楽しませる娯楽であることを教え、それまでのサーカスのイメージを一新させた。東京だけで35万人、そのあとの大阪公演でも10万人以上の観客を集め、福岡、名古屋、札幌でも大成功を収め、当時のお金で1億円以上の収益を出したという。
この公演をプロデュースしたのは、38歳の神彰(22︱98年)だった。彼が設立した興行会社・アートフレンドアソシエーション(以下AFAという)と共に、神はこの他にボリショイバレエ、レニングラードフィルハーモニー交響楽団、レニングラードバレエなど、ソ連から超一流のアーティストを次々に日本に招聘、ほんものの芸術に飢えていた日本人に届けていった。ソ連と交流のなかった時代に、赤い壁を乗りこえて、興行界に旋風を巻き起こした神は、「赤い呼び屋」として、一躍マスコミの寵児となる。
評論家・大宅壮一は、まったく無手勝流で数々の興行を当てたこの若者のことを「戦後の奇跡」と称してさえいる。彼はもともと興行のプロだったわけではない。画家を目指していた神が、呼び屋に生まれ変わるきっかけをつくったのは、一曲のロシア民謡だった。
函館で生まれた神は、高校を卒業したあと満州に渡る。終戦後帰国した神は、高校時代からの夢であった絵描きの道を歩むべく上京する。画家として芽を出せないままくすぶっていたころ、唯一の慰めとなっていたのは、満州帰りの仲間たちと酒を飲み交わすことだった。
ある日ロシア語が達者な仲間のひとり、長谷川濬が歌う「バイカル湖の畔」を耳にし、神は心を揺さぶられる。漂泊する魂のこだまが胸にしみた。静かに目を閉じ、聞き入っていた神は、突然立ち上がり「誰がこの歌を歌っているか」と尋ねる。長谷川は、「この歌の真情を一番よく知っているのは、革命後故国を追われ、流浪の旅を続けるドン・コサック合唱団しかない」と答える。神は、「それだよ、シュンさん! ドン・コサック合唱団を日本に呼ぼう」と叫ぶ。
神は、ニューヨークに住むこの合唱団の指揮者セルゲイ・ジャーロフに手紙を書く。「戦後の荒廃のなか、うちひしがれている日本人に勇気を与えるのはあなたたちの歌しかない」という神の訴えは、ジャーロフの胸に届く。ジャーロフはすぐに契約書を送るようにと返事してきたのだ。これはまさに奇跡といっていい。
さらに神はこの契約書を持って、銀行から多額の資金を融資してもらい、さらには新聞社と主催契約を交わすことになる。興行のイロハもしらない男は、とうとうドン・コサック合唱団を日本に呼ぶことに成功する。56年来日したドン・コサック合唱団は、日本人の心をとらえる。全国にドン・コサックブームが広がるなど、社会的な現象にまでなった。
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202510_特集_神彰2(レペシンスカヤ):画像提供=大島幹雄
呼び屋に生まれ変わった神が次のターゲットとして狙いを定めたのは、まだ国交のなかったソ連だった。ソ連には、バレエ、オーケストラ、サーカスなど海外にまだ出ていない「幻」のアートがたくさんあった。「幻」を実現するために、神がまずしたことは、大使館(当時は領事部)に日参することだった。毎朝9時に車で乗り付け、文化交流の話をしたいという神の申し出に対して、受付の女性の答えはいつも「ニェート(ノー)」だった。しかし3週間後突然鉄のカーテンが開く。こうして神は、ボリショイバレエ、レニングラードフィル、ボリショイサーカス、レオニード・コーガンを日本に招聘する権利を手にする。誰も不可能だと思っていた奇跡がおきたのである。
ソ連ものだけでなく、ピカソ展、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ、北京曲技団、ソニー・ロリンズ、シャガール展など一流のしかも最先端の芸術を紹介、興行界の頂点にたち、さらに私生活でも、売れっ子の女流作家・有吉佐和子と電撃結婚するなど、マスコミをにぎわせていた神であったが、結婚直後に呼んだアメリカ大西部サーカスが大コケしてしまい、借金に追われるようになる。負債を有吉に肩代わりさせるわけにもいかず、長女・玉青が生まれてまもなく離婚、梁山泊のように神を支えていた社員たちの中で分裂さわぎなどもあり、AFAは64年6月、およそ2億円の負債を抱え、倒産する。
莫大な借財を抱えて、新たに別会社を興すものの、何年ももたず、再び倒産。「呼び屋」神彰は忘れられた存在になっていく。このあと神彰は、「北の家族」という居酒屋チェーン店を興し、居酒屋ブームの火付け人となり、「呼び屋」ならぬ、「飲み屋」として蘇る。莫大な財をなし、98年3月14日、75年の生涯を閉じた。
現代の「呼び屋」にも通じる 半歩先を見た興行師の生き様
6年前に引退したが、私も40年間サーカスの呼び屋を生業にしていた。最初に働いた会社の社長・大川弘は、かつてAFAの社員だった。神やAFAのことは耳にタコができるくらい聞かされ続けた。大川は「AFAは呼び屋の東大、俺たちはほんものしか呼ばなかった。金儲けだけじゃない。それが神魂だ」とも言っていた。この言葉はいつのまにか身体に刷り込まれたように思う。神のように歴史に残るようなものを呼ぶことはできなかったが、ほんものを呼ぶことにはこだわった。モンゴルやウクライナから初めてサーカスを呼ぶことができたのは、ほんものを求める中で出会ったからだと思っている。
もうひとつ大事にしてきたのは、神がドン・コサック合唱団を発見したときのように、みんなに聞かせたい、見せたいものを発掘することだった。売れるものより、こんなのがあるぞと探し出したものを、初めて舞台にかけ、受けたときが一番うれしかった。ただ神のように大当たりした興行ものを呼ぶことはできなかった。
これも大川から聞いたことだが、神は常々「興行は一歩先じゃなく、半歩先を行くこと」と言っていたという。ここに興行の極意があることは分かったが、半歩先がなにか、ついに分からないまま呼び屋稼業を卒業してしまった。神が数々の興行を当て続けたのは、その「半歩先」が見えたということなのだろう。いまさらながらだが私も「半歩先」が見たかったとつくづく思っている。
