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乗用車の原点「追浜工場」閉鎖で日産自動車は蘇ることができるのか

日産自動車の追浜工場と言えば、戦後の日産の乗用車の歴史そのものとも言える由緒ある工場だ。この追浜工場の閉鎖が決まった。業績低迷に苦しむ日産の苦渋の決断だが、過去の工場閉鎖は思ったような効果を上げていない。追浜閉鎖はその頸木から逃れることができるのか。文=ジャーナリスト/伊藤賢二(雑誌『経済界』2025年10月号より)

追浜工場の起源は海軍初の飛行場

 今年7月に閉鎖が発表された、日産自動車の現役生産拠点の中で最も長い歴史を持つ追浜工場。自動車工場は大抵地方部にあるものだが、横浜から京浜急行で20分少々という追浜もまた、大都会に隣接しながらその喧騒が嘘のような三浦半島らしい長閑な空気感の漂う地である。

 追浜駅前は有事の際には軍需道路として機能する幹線国道16号線が通っている。4車線化されているが道幅は狭く、便が良いとは言えない。近隣を通る自動車専用道路は横浜横須賀道路のみ。インターチェンジから追浜工場までのアクセスロードが整備されているわけでもないので、特段行き来がしやすいというわけでもない。

 そんな追浜に日産が同社初の乗用車工場を建設したのは1961年のことだが、何もないところに突然工場をつくったわけではない。

 追浜工場の住所は神奈川県横須賀市夏島。かつてはその名が示すように、夏島という島が存在した。鎌倉時代には「徒然草」を著した吉田兼好が居を構え、江戸時代には歌川広重をはじめ多くの浮世絵師が風景を描きとめた名勝、金沢八景の一部である。そこに大々的に開発の手が入ったのは20世紀初頭のことだった。

 開発主は大日本帝国海軍。当時世界は帝国主義の真っ盛りで、強国は競って軍事技術の工場に努め、戦力の拡張に余念がなかった。その中でとりわけ注目を集めていた新技術が1903年にライト兄弟が「ライト・フライヤー」で史上初の動力飛行に成功した航空機である。海軍も航空機の可能性に着目し、航空基地を建設することにした。その場所として選ばれたのが追浜だったのである。

 海軍初の航空基地、追浜飛行場が開設されたのは大正元年の1910年。当初は水上機の基地として発足したが、やがて陸上航空機を運用可能な滑走路を持つ基地の建設のため一帯の埋め立て、夏島の破砕を開始。26年に陸上基地としての追浜飛行場が完成した。

 1916年、横須賀海軍航空隊が発足し、追浜飛行場はその拠点となった。以後、太平洋戦争に敗北する45年8月まで追浜は海軍の航空戦略の中心地のひとつとなった。2023年に解体されてしまったが、日産追浜工場の敷地内に残存していた往時の格納庫はその遺構のひとつだ。

 軍事基地として建設された追浜飛行場だが、日本は四方を海に囲まれた島国で他国からの直接的な侵攻の重圧を継続的に受けていたわけではなく、本土防衛の必要性もそれほど大きくはなかった。横須賀航空隊は実戦部隊というよりは新型航空機の試験飛行、操縦技術の研究、飛行教練など実験的な性格の強い部隊となり、追浜飛行場はその拠点となった。

 その傾向を加速させたのは1932年、海軍が追浜飛行場の隣地に海軍航空技術廠(空技廠)を設立したことだった。これは中島飛行機、三菱重工業、川西航空機など民間企業が自社でリスクを負って行うのが難しい航空分野の先端技術開発を軍主導で行うための総合研究所で、これを境に追浜は一線級の科学者、技術者が集う地に変貌していった。

 だが、航空機技術の〝聖地〟としての追浜の歴史は決して輝きに満ちたものではなかった。1933年に国際連盟から脱退するなど日本が世界で孤立を深めていく中、空技廠は設立当初の趣旨を逸脱し、実戦用の航空機開発を手がけざるを得なくなる。

 先端分野の研究が任務の組織にとって、実用性と手堅さが求められる実戦機の開発はおよそ不向きで、開発を手がけたモデルの多くは日本の工業技術では生産不能、品質未達などの問題で日の目をみることがなかった。艦上爆撃機「彗星」、陸上爆撃機「銀河」など実用化されたモデルもあり、それらは航空機先進国であったアメリカの同類の機種と対等に渡り合える性能を持っていたが、整備性の悪さや工作精度の問題から故障が多く、実力を発揮できなかった。

 最後の実戦投入機は弾頭に翼を装備した弾頭をロケットモーターで推進する「桜花」。パイロットが操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器である。そして終戦間際、ロケット戦闘機「秋水」が追浜飛行場で初飛行を行ったが、墜落して大破。テストパイロットは殉職した。これが空技廠の最後だった。

米軍に接収され米軍絡みで再生

 敗戦後、追浜飛行場はアメリカ軍に接収され、横須賀航空隊と空技廠に依存していた追浜の産業は命脈が尽きたかに見えた。が、3年後の1948年、今度は追浜と自動車が結びつく。追浜飛行場跡地には太平洋戦争や日本進駐の使用過程で消耗したアメリカ軍の自動車が山積みされており、それを修理、再生したり解体して部品を取ったりする必要性が生じたのだ。

 その業務を狙って同年に特需会社として発足したのは富士自動車(現・小松ゼノア)。母体は戦前ダットサンの車体製造を受託し、戦後も政府から日産の指定工場にアサインされた日造木工所で、それを富士自動車としたのは終戦直後に日産の社長に就任したものの公職追放で3年で辞任した山本惣治氏だった。

 追浜飛行場跡に工場を設置した富士自動車は旺盛な需要を背景に急成長を遂げた。従業員数は1951年までの3年間で6千人にまで増え、一説によるとピーク時は1万人を数えたという。10年で再生させたアメリカ軍車両は約23万台に達した。が、戦後の進駐がピークを過ぎ、50年に始まった朝鮮戦争が53年に休戦となったことで富士自動車の業績は急激に悪化。59年に特需会社としては閉鎖となった。

 同年、追浜飛行場跡地は日本に返還されることになったが、その払下げに名乗りを上げた72社の中に日産があった。自動車業界ではちょうどトヨタが日本メーカー初の乗用車専用工場として元町工場を竣工させており、日産としては急いで対抗策を講じなければ生産効率で負けるのは目に見えていた。返還、民間への払下げが決まった追浜飛行場跡地は乗用車専用工場をつくろうとしている日産にとって渡りに船だった。

 建設は急ピッチで進められ、1961年には第1号車として主力車種「ブルーバード」がラインオフした。71年に2番目の組み立て工場である栃木工場が稼働するまでは大衆車「サニー」から高級車「セドリック」まで、量産モデルは何でも追浜工場でつくった。

 追浜工場の過去の生産モデルを見ると、日産ファンにとっては懐かしく思われるであろうモデル、グローバルでの日産のプレゼンス向上を狙った野心的なモデルなど、多士済々である。

 プリンス自動車を取り込んだこともあって元々中大型車を得意としていた中、顧客層を広げるためにつくった排気量1000ccクラスのミニカー「マーチ」、サファリラリーを走った「バイオレット」、旧プリンス自動車のスタッフが中心となって1990年にクルマの基本性能世界一を目指す「901運動」の集大成「プリメーラ」、そしてリチウムイオン電池搭載の電気自動車「リーフ」等々。

 生産拠点のマルチ化、グローバル化が進むにつれて追浜工場の生産拠点としての重要性は低下していったが、日産は乗用車の大量生産の原点である追浜工場を、生産台数ではなく生産技術革新の観点からマザー工場という扱いを変えなかった。

聖地からの撤退を未来に結びつけられるのか

 2018年にカルロス・ゴーン氏がクーデターで日産を放逐されたのを境に、そのトレンドに変化が生じる。生産モデルを国内外の工場に次々に移管し、工場閉鎖が決まった。今日生産しているのは日本市場専用のコンパクトモデル「ノート」とその派生モデルの「オーラ」のみ。24年の年間販売台数は10万台強で、追浜のような大規模工場を維持するには到底足りないばかりか、日産のクルマづくりスピリットの発信も期待できないスケールだ。エスピノーサ社長就任前から追浜工場の閉鎖に向けて動いていたとすら思える。

 日産の経営再建のためにやらなければならない最重要事項はコストダウン。2025年3月期決算でも売上高12兆6千億円を確保していなかがら製造原価を差し引いた売上総原価は1兆7千億円弱と、売上高が半分以下のスズキと変わらないくらい少なかった。

 世界販売に対して過剰な生産能力を持ち続けたことが製造原価の高止まりの主因であることに疑いの余地はなく、稼働率でみれば追浜工場の閉鎖は致し方ないところではある。日産の乗用車生産の〝原点〟を閉鎖することは、構造改革が聖域なきものであることを内外に示す効果も期待できる。

 問題は今の日産の経営陣が将来の日産のあるべき姿を思い描き、それに至る道筋を具体的に見いだせているかどうかだ。それがなければたとえ構造改革を成し遂げたとしても、単なる縮小均衡で終わってしまう。

 日産は過去、1998年に旧中島飛行機のエンジン開発拠点であり、日本の宇宙航空技術の進歩に貢献してきた荻窪工場、2004年にはスポーツセダンとして名を馳せた「スカイライン」や皇室向けサルーン「プリンスロイヤル」を生み出した村山工場と、旧プリンス自動車の〝聖

地〟を切り捨て同然の形で閉鎖してきた。それは日産が生き残るために必要な犠牲だったのだが、今日の衰退ぶりを見ると、その犠牲はまったく報われていないと言わざるを得ない。

 プリンス自動車のレガシーを切り捨て尽くした今、ついに自らの聖地、追浜工場を切り捨てることになった日産。さまざまな歴史を背負った追浜工場を単なる延命ではなく、日産が世界のトップランナーとなるための尊い犠牲にできるのか。これまで日産が一度も成し遂げられなかった挑戦のゆくえが注目される。