高市早苗政権の誕生によって、日本の財政政策は緊縮財政から責任ある積極財政に転換した。日本経済の今後に対する期待は、首相就任以来の株高にも表れている。「サナエノミクス」が目指す方向性と来年以降の日本経済の行方について、第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣氏に聞いた。構成=吉田 浩(雑誌『経済界』2026年2月号より)
永濱利廣のプロフィール
ながはま・としひろ 1971年生まれ。群馬県出身。早稲田大学理工学部工業経営学科卒業、東京大学大学院経済学研究科修士課程修了。1995年に第一生命保険入社、日本経済研究センターを経て、2016年より現職。内閣府経済財政諮問会議民間議員、衆議院調査局内閣調査室客員調査員、景気循環学会常務理事、跡見学園女子大学非常勤講師等を務める。
サナエノミクスは「日本版MSSE」
高市首相は安倍路線を継承していると言われているが、「サナエノミクス」と「アベノミクス」では中身が大きく違っている。アベノミクスの時は需要不足によるデフレ脱却がテーマで、第一の矢である金融緩和がメインだった。第二の矢として掲げた機動的な財政政策については、政権誕生前に野党と合意した消費税率引き上げを2回行わざるを得なかった事情もあり、その効果は中途半端に終わった。第三の矢である成長戦略は部分的に進んだが、働き方改革など、経済成長の足を引っ張る政策も打ってしまった。
それに対して現在は、供給不足で起きているインフレを解決するのが主要テーマだ。サナエノミクスにおいて金融緩和は脇役として、経済の足を引っ張らない程度に正常化していく形となるだろう。メインは第二の矢である財政政策と第三の矢である成長戦略だ。これらの政策をミックスして供給力を高めるのが今や世界の潮流となっており、「モダン・サプライサイド・エコノミクス(MSSE)」と呼ばれている。サナエノミクスが目指すのは「日本版MSSE」だ。
以前、小泉純一郎政権が構造改革で目指した新自由主義と真逆の方向性と捉えれば分かりやすい。つまり、民間部門に任せていてはなかなか競争力が高まらない重要な分野に、政府が投資を促して供給力を高めるのが目的だ。一昔前まで西側諸国は「できるだけ政府が関与せず、民間に任せるべきは民間に」という姿勢だったが、その間に中国が国家主導で先端技術などに莫大な投資を行い、経済安全保障上の脅威となってしまった。そのため、西側諸国も現在は重要分野への投資によって経済成長を目指す政策に舵を切っており、その潮流に日本も乗ろうとしている。
実質賃金の上昇をどう実現するか
現在の日本で、国内の供給量の伸びを表す潜在成長率の足を引っ張っているのは、主に資本投入量の少なさと労働時間の短さだ。特に労働時間については、働き方改革によって働きたい人まで働けなくなってしまう弊害をもたらした。データで比較すると日本の労働時間は今やドイツなどより短くなっており、経済成長の足を引っ張る要因となっている。高市首相が労働時間の規制緩和に意欲を示しているのは、こうした状況を打開するためだ。
供給力の増加と共に、需要を増やす政策も重要になる。個人消費を増やすために必要となるのは実質賃金の安定的な上昇で、実質賃金は労働生産性、労働分配率、交易条件(国内の物価と輸入材の価格の比率)、労働時間の観点から見ることができる。
まず、労働生産性については、過去15年の伸び率を日米欧で比較すると、米国がダントツで高く、次いで日本、欧州の順になっている。それにもかかわらず、日本の実質賃金が欧州より低い理由は、労働時間短縮によって賃金の伸びが抑えられていることに加え、交易条件の悪化がある。国内の物価が輸入物価より上がれば交易条件が改善して、実質賃金が上昇しやすくなるが、これが達成できているのはシェール革命によってエネルギーを国内調達できるようになった米国だけだ。日本は東日本大震災で原発が止まり、化石燃料を大量に輸入するようになったために国内物価に対して輸入物価が上がり、交易条件が大幅なマイナスになってしまった。
労働分配率については米国も日本と同様に低水準だが、米国は圧倒的に労働生産性が高いため大きなダメージはない。さまざまな意見があるものの、現在の日本において最もコンセンサスが取りやすいのは、労働市場の流動性を高める政策だろう。例えば一部の大企業では、既に正社員に対して週休4日制を導入するなどしている。そうした労働者を他の企業が活用できるように政府が後押ししたり、180万人いる不本意非正規労働者を正社員化したりする動きが必要だ。中でも、大企業で定年を迎えて再雇用されている60代の人材を、人手が足りない中小企業がそれなりの待遇で迎え入れやすくするような政策が導入されれば、労働分配率は上がっていくとみられる。
世界GDPランキングでドイツを抜き返す可能性
2026年、世界の名目GDPランキングにおいて、日本は米国、中国、ドイツ、インドに次いで5位になる見込みだ。人口規模が巨大で、生産力と消費の拡大が顕著なインドより、ドイツの後塵を拝していることのほうが、個人的にはショックに感じている。
ドイツに抜かれた要因としては、まず、進みすぎた円安の影響がある。今後、各国の金利が中立金利に近い水準まで戻って1ドル130円台程度になり、なおかつサナエノミクスによって国内の供給力が高まれば、再び日本が抜き返す可能性はあるだろう。
為替の影響以外に、構造的な問題もある。日本もドイツも自動車産業が強い経常黒字の国だが、大きく違うのは、日本が貿易収支とサービス収支が赤字で所得収支が黒字であるのに対し、ドイツは経常収支の大部分を貿易黒字で稼いでいる点だ。GDPには経常収支のうち貿易収支とサービス収支だけが含まれるため、ドイツの場合は経常黒字の大半がGDPに反映されることになる。たとえばドイツの自動車メーカーは国内で作って輸出しているが、日本のメーカーは海外で作って世界に輸出しているためGDPにカウントされない。この構造も、日本が国内供給力を高めることによって変わっていくかもしれない。
たとえば米国では、国内の設備投資を増やすために減価償却の即時償却や、残業代を非課税にして働けば働くほど労働者が得をする政策を実施している。高市政権が高い支持率を維持している間に、供給力増加や行き過ぎた働き方改革の見直しなどをどれだけ進められるかが、26年以降の日本経済の行方を左右することになるだろう。