教育現場の荒廃は深刻だ。いじめや不登校、教師の不祥事。この現状を憂い、理想の高校をつくろうと考えたのが、大学受験予備校大手、四谷学院の植野治彦理事長。実際1年前、茨城県に通信制高校をつくった。今後の目標は野球部の甲子園出場だという。その狙いは何か――。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2026年3月号より)
植野治彦 四谷学院理事長のプロフィール
うえの・はるひこ 1943年神奈川県生まれ、早稲田大学商学部卒業後、レストラン勤務や英語教材セールスなどを経て、74年に新宿区四谷でハーバード才能開発(現四谷学院)を創業し、教材開発から事業を開始。「誰でも才能を持っている」を教育理念に、大学受験予備校、個別指導塾、通信講座など、幅広い教育サービスを展開する。昨年4月茨城県に通信制の四谷学院高校を開校した。
野球部監督は大谷翔平の恩師
―― 四谷学院は昨年4月、茨城県筑西市に通信制の四谷学院高校を開校しました。間もなく1年が経過しますが、どのような手応えを感じていますか。
植野 四谷学院高校の定員は1万人ですが、初年度入学者は約800人ほどです。定員の1割弱ですが、今は人数を追う時期ではありません。私たちがやりたいことの「土台」をじっくり作っている段階です。
―― それにしてもなぜ大学受験予備校の四谷学院が自ら高校を設立したのですか。
植野 なぜ高校をつくったのかというと、一言で言えば「困っている人を助けるため」です。現在、日本には不登校の生徒が34万人、いじめの認知件数は74万件を超えています。私の感覚では潜在的な数字はその倍以上でしょう。さらに教育現場の劣化も深刻です。これまで予備校として多くの生徒を見てきましたが、通信制高校からうちに来る子たちの話を聞くと、既存の教育サービスに絶望しているケースが非常に多かった。
例えば難関大学に進学したいと先生に相談しても、授業はビデオを流すだけ。生徒からの質問にも答えられない。そんな現状を変え、「やればできる」「勉強は楽しい」という体験を高校生活の3年間で提供したい。それには自分たちで理想の高校をつくろうと考えたのです。
―― 通信制高校というと「勉強だけ」というイメージもありますが、植野理事長は「文武両道」を強く打ち出されていますね。
植野 そこが私のこだわりです。四谷学院に通えば学力を大きく伸ばすことができます。でもそれだけでは足りないことがある。今の子供たちの大きな問題は、体を動かす喜びを知らないことです。脳は頭を使うだけでは発達しません。脳が壊れると手足が動かなくなるように、運動と脳は密接に関係しています。「よく遊び、よく学ぶ」。これは学校でしかできません。体を動かすことで直感が鍛えられます。勉強モードと遊びモードを一瞬で切り替えることが可能になります。この体験が重要なのです。
―― 「文武両道」の象徴として、硬式野球部を創設し、甲子園を目指すとか。投資金額も大きいでしょう。
植野 まずはグラウンドをつくらなくてはなりません。校舎は築10年ほどの元中学校ですが、グラウンドは土地を取得し一からつくりました。これだけで3億9800万円、野球部は全寮制ですから、寮をつくるのに4億1400万円、さらに室内練習場やバッティングセンターも必要です。それらを合計すると8億円から10億円近い投資になります。経営的な利益だけを考えれば、こんなことはやりません(笑)。しかし、やるからには本物でなければならない。
そうなると大事なのが指導者です。そこで監督には本村幸雄さんを招きました。本村さんは神奈川県の高校の野球部監督でしたが、大谷翔平選手も学んだ「原田メソッド」の考案者、原田隆史先生の塾生でもあります。さらには日本ハムファイターズの選手教育ディレクターを昨年まで務めていました。日ハム時代の大谷選手にも直接指導しています。
有望な選手も集まり始めました。野球強豪校の誘いを断って来てくれる生徒もいます。だからといって野球だけをやるのではありません。野球部の3年間より、その後の人生の方がはるかに長い。だから、野球部員には「全員、難関大学に入れ」と言っています。そこで四谷学院の「55段階指導」です。この方法で午前中は徹底的に勉強し、午後は野球に打ち込んでもらいます。
AI時代にも知恵は必要 それを生むのは体験のみ
―― 植野さんの教育者としての原点はどこにあるのですか。
植野 私の原点は、大学卒業後に飛び込んだレストランでの修行時代にあります。当時は「大卒は無理だ」と断られ続けましたが、銀座のレストランでゴミ拾いから始めました。そこでは誰も何も教えてくれません。スープをどうつくるのか、ソースはどうするのか、包丁をどう入れるのか、すべて盗んで覚えるしかない。暗黙知の世界です。そういう生活をしながら、料理の基礎を一から学んでいきました。そこから私は基礎の大切さに気付いていきました。一流の人は必ず徹底的に基礎を学び、身体に叩き込んでいます。
その後、店の運営に関わった後、今度は英語教材の営業になります。それまでは人に頭を下げることなどできっこないと思っていたのですが、だからこそ学ぶことが必要だと考えました。この時も小さなことから一つ一つやっていくことを心がけました。まずは「歩くこと」から始め、次に「訪問すること」。そうやってできることを増やしていって、お客さんとのウィンウィンの関係をつくっていく。これを繰り返していたら、いつの間にかトップ営業マンになっていました。この経験から、どんな大きな目標も、スモールステップの積み重ねでしか達成できないことを学びました。
「徹底的な基礎」と「スモールステップの積み重ね」。これが55段階指導のベースとなっています。
―― 今やAIがなんでも教えてくれます。知識がなくても何一つ困らないのなら勉強しなくてもいいという考え方もできます。こうした時代の教育とはどうあるべきでしょう。
植野 確かに医者の診断、例えばX線写真の読影などでは、AIが理想的な答えを出してくれるでしょう。しかし、だからこそ人間には「クリエイティビティ」と「知恵」が求められます。
知恵とは、体験からしか生まれません。ヨットで風の動きを感じて方向転換する感覚や、営業でお客さんのリズムをつかむ感覚。これらはAIには代替できない暗黙知です。そして知恵があると自信も持てる。私は今の生徒たちに最も欠けているのは自信だと考えています。自信がないから、他人と比較してばかりいて、結果、自尊感情が低くなってしまう。でも人間は自分が考えるよりもはるかに偉大な存在です。そのことを認識させたいです。
四谷学院の理念は「誰でも才能を持っている」です。そしてミッションは「勉強は楽しい」という体験をさせること。「教育(Education)」の語源は、ラテン語の「育てる、引き出す」にあります。教え込むのではなく、元々持っている才能を外に出していく。それによってEQ(感情指数)やSQ(社会的指数)の高い社会をつくりたいと思っています。