2026年、ホンダがF1に復帰する。1964年、創業者・本田宗一郎氏の大号令で初参戦。88年には年間16戦中15勝を挙げるなど、華々しい成果を挙げてきた。しかしその一方で、社内事情により撤退・再参戦を繰り返してきた。今度の復帰にはどのような背景があったのか――。文=ジャーナリスト/伊藤賢二(雑誌『経済界』2026年4月号より)

最初のF1挑戦は四輪進出の橋頭保

 モータースポーツの最高峰と言われるサーキットレース、F1の世界に今年、ホンダが5年ぶりに戻ってくる。八郷隆弘前社長の在任中の決断で2021年シーズンをもってメーカーとしては撤退したが、その後も技術供与や子会社を通じての関与は続けていた。23年には三部敏宏現社長が26年シーズンの復帰を発表。今年がその年という流れである。

 一般的な自動車メーカーであれば、単にモータースポーツでブランディングを強化するという程度の話であるが、ホンダの場合は様相が異なる。ホンダにとってF1は単なる企業のプロモーションにとどまらず、良くも悪くも企業経営と表裏一体であり続けた因縁のモータースポーツカテゴリー。F1を語らずしてホンダの経営を語ることはできないと言っても過言ではない。

 初参戦は日本の自動車産業にとって本格的な成長前夜の1964年。当時ホンダは二輪車主体のメーカーで、四輪については前年に軽トラック「T360」と軽自動車サイズの車体に排気量500ccのエンジンを積んだオープンカー「S500」を発売したばかりだった。そのホンダがモータースポーツの頂点にチャレンジというのは誰の目にも無謀と映ったが、参戦2年目の65年に初勝利を挙げて世界を驚愕させた。

 今では半ば死語となったホンダの形容詞に「ホンダ神話」というものがある。それは創業者、本田宗一郎氏の経営哲学である「不可能を可能にする」を次々に体現してみせたことによって生まれた言葉だ。

 克服不能と言われたカリフォルニアの大気汚染防止法(マスキー法)をCVCCエンジンでクリアしたこと、日本メーカーとして初めて北米への工場進出を実現したこと、航空機分野へのあくなきチャレンジなどが挙がるが、二輪車メーカーがF1に参戦し、2年目で表彰台のトップを奪取したことは、ホンダ神話の中でも別格の神話である。

 だが、ホンダのF1参戦の歴史を紐解くと、純粋な情熱をもって関与し続けてきたという奇麗な話では決してなく、ホンダ社内の権力闘争や経営上のご都合主義にたびたび翻弄され、中断と再開を繰り返してきたという側面があるのもまた事実である。

 そのホンダF1史を振り返りつつ、なぜ今F1を再びやるのかということについて考察したい。

 先に述べたようにホンダがF1に初参戦したのは64年。二輪車メーカーである同社が初めての市販四輪車である軽トラック「T360」と、軽自動車サイズの車体に500ccエンジンを積んだ小型オープンカー「S500」を発売した1年後のことである。

 参戦の動機はホンダの技術力の誇示。二輪車だけでなく四輪車でも世界と戦える力があることを自動車レースの最高峰を通じて見せつけたいという、本田宗一郎氏の山師的な感性による決断だった。

 このF1参戦、決して順調だったわけではない。当初はF1の名門チーム、イギリスのロータスにエンジンを供給するという形での参戦を予定していたが、参戦直前になってロータスに契約を破棄されてしまう。ホンダはやむなく車体とエンジンの両方を作る「フルワークス」という最も難易度の高い形で最高峰レースに挑むことになった。

 もちろんホンダには四輪車のレース専用車の開発経験などない。ホンダはバイクの技術を転用し、エンジンを横方向に置く変則的なマシンを作り上げた。勝負になるどころか完走も覚束ないだろうとせせら笑われる中、その変則マシンが参戦初年に完走を果たす。そして翌65年の最終戦、メキシコグランプリで優勝を果たした。世界は驚愕し、本田宗一郎氏は賭けに勝った。ホンダ神話が加速した瞬間だった。

黄金期の幕を引いたホンダの経営危機

 その後もホンダはさまざまな混乱を経験しながらも、F1の実力を着々と蓄えていった。が、F1から突如撤退する時が来る。68年、エンジンを冷却液ではなく空気で冷やす「空冷方式」にこだわった本田宗一郎氏の肝いりで造られたレースカー「RA302」を正規のマシン「RA301」とは別口でフランスに送り込んで強行出場させたものの、まともに走ることすら叶わなかった末にクラッシュし炎上。ドライバーが死亡するという結果に終わった。

 この68年をもってホンダはF1から撤退した。ホンダは撤退理由として「低公害エンジンの開発に専念するため」を掲げたが、本当の理由が死亡事故という悲劇であることは誰の目にも明らかだった。

 死亡事故自体は危険と背中合わせのモータースポーツでは往々にして起こることだが、ホンダの場合はその原因が本田宗一郎氏の頑迷さに対して真っ向から意見を言えない企業文化が生んだ人災というのがまずかった。ホンダの社内では今も表向きは融和的だが裏では丁々発止のパワーゲームが繰り広げられており、修正の気配はない。

 死亡事故の傷が癒え、F1に再挑戦するには実に15年もの月日を要したのだった。83年に始まった「第2期」は当初はウィリアムズ、後にマクラーレンという強豪車体メーカーと組んでエンジンを供給するという形で行われた。

 絶頂期は88年で、アイルトン・セナ(ブラジル)とアラン・プロスト(フランス)の2人の名ドライバーが駆るマクラーレン・ホンダが年間16戦のうち実に15勝を挙げ、「ホンダエンジンでなければ勝てない」と評されたほどの圧倒的な総合優勝を果たした。

 その第2期はホンダの経営危機によって92年に幕を閉じ、次の参戦となる2000年まで8年のブランクを作った。第2期を終わらせ、第3期の参戦を決めた川本信彦元社長はエンジン、車体の両方を手がけるフル・ワークスという体制での参戦を想定していたが、実際に再参戦する時期に社長を務めた吉野浩行氏は弱小チームだったイギリスのB・A・Rにエンジンを供給するという体制を取った。

 当時のF1開発メンバーは「吉野さんは『強いところと組んで簡単に勝つなどというのは甘え。弱いところと組んでこその勉強だ』と訓示していました」と、その心について証言する。実際、この第3期では吉野氏が成績が上がらず愚痴をこぼすエンジニアに「馬鹿野郎、レース後のサーキットを掃除機で吸って、強いチームが何をやっているか成分分析して勉強しろ。すべてにおいて謙虚になれ」と檄を飛ばしていたという。ホンダのF1活動の中で最も技術の純粋性が高かった時代と言える。

支持派vs不支持派のパワーゲーム

 この第3期は08年のリーマンショックによって終了した。吉野氏、そして後を受け継いだ福井威夫社長が関わった間に挙げた勝利はわずか1勝。だが、BARホンダを買収して発足したイギリスのブラウンレーシングは翌09年から快進撃を果たし、それまでの蓄積が決して無駄ではなかったことが間接的に証明された。

 この撤退の時、福井氏はF1との決別を宣言しながら、ジャーナリストに対しては「ウチにはF1をやりたいエンジニアはたくさんいる。そのうち『やるな』と言ってもやるよ」と、ホンダの言葉の表裏をうかがわせる発言をしている。それを次に実行したのは福井氏の後の伊東孝紳社長。組んだのは第2期の黄金ペアだったイギリスのマクラーレンだった。が、この第4期からホンダ社内のF1支持派、不支持派の分断が激しくなる。不支持派からは「伊東さんの売名」「マクラーレン・ホンダというブランドの無駄遣い」等々の声が聞かれた。

 この第4期は途中までは混乱を極め、成績は常に下位に沈んでいたが、途中で強豪のレッドブルに鞍替えしてからは一転、常時上位につけるようになった。しかしそんな最中、冒頭で述べたように20年、八郷隆弘前社長のF1からの〝完全撤退〟宣言によって終結した。

 このように都合が悪くなるたびにF1からの撤退を繰り返してきたホンダだが、現社長の三部氏がなぜF1参戦を蒸し返したのか。三部氏はF1のルールがカーボンニュートラル燃料やハイブリッド技術の拡大に向かったことから参戦の意義ありと考えたと説明しているが、それを素直に受け取るホンダマンは少ない。

 「三部さん自身はF1をやりたいとは思っていないはず。ですが、再参戦を発表した23年にはすでに三部さんが経営者として目立った成果を上げられないであろうことが明らかになりつつあり、社内のF1推進派を抑えられなくなっていたのだと思う」(ホンダの技術系幹部)

 参戦動機が不明瞭なままF1に参戦することに対する不満の声は少なくない。最もよく聞かれるのは、F1が今のホンダに本当に必要なのかどうかという疑念だ。

 「二輪も四輪も大衆車中心という今のウチのグローバルビジネスの実情をみると、F1がイメージアップにつながるとは思えません。特に軽自動車を買うお客さまはウチがF1をやっていようがいまいが、クルマのコストパフォーマンスが良ければ買います。研究開発はF1をやらなくてもできる。歴代経営陣がF1がプラスになるようなビジネスを切り捨ててきたのに、朝令暮改もはなはだしい」(ホンダの営業部門幹部)

 これまでのF1へのチャレンジがホンダの技術力向上にまったく寄与しなかったというわけではない。ホンダ車は空気抵抗を減らしてエネルギー消費量を減らす空力特性の良さで定評がある。これはF1のノウハウが生きている事例のひとつだ。

 が、前出のホンダマンが言うように、今のホンダは軽自動車や大衆車が主体で、技術力の高さが付加価値の源泉となる高級車や高性能車についてはスポーツカー「NSX」は極度の販売不振のすえ廃止、アキュラブランドも販売減が止まらないなど、弱体化の一途を辿っている。

 そういう高付加価値分野を強化するつもりがないのであれば、F1をやったところで宣伝の役にも立たない。F1をやることと企業戦略の整合性を取ることは、三部社長以下、ホンダ経営陣にとって急務だろう。 「夢こそが私たちのエンジンだ」というコーポレートメッセージとは裏腹に業績、そして社内の力学という〝お家事情〟によって常に揺れ動いてきたホンダのF1活動。今年始まる第5期は、最初から業績悪化というあやふやな基盤の上での船出となる。果たしてホンダはF1を夢と位置づけ続けられるのか。