京都大学の山中伸弥教授が作製したiPS細胞。どんな細胞にも変化できる夢の技術だが、それが実用化に向けて動き出した。まずはパーキンソン病治療薬と心筋細胞シートが製造・販売の了承を得たが、これを皮切りにさまざまな部位への展開が期待できる。文=ジャーナリスト/小田切 隆(雑誌『経済界』2026年5月号より)

最大の難関だった がん化のリスク

 2026年2月19日は日本の科学技術史、ひいては世界の医療史に新たな1ページが刻まれた日といえるだろう。厚生労働省の専門部会が、iPS細胞(人工多能性幹細胞)を用いた再生医療等製品として、住友ファーマのパーキンソン病治療薬「アムシェプリ」と、大阪大発のスタートアップ、クオリプスの重症心不全向け心筋細胞シート「リハート」の製造販売を条件・期限付きながら了承したのだ。この歴史的な出来事が私たちにどんな希望をもたらすのか、そして真の産業化に向けどんなハードルがあるのか、考えてみたい。

 06年に京都大学の山中伸弥教授がマウスでiPS細胞の作製に成功したと発表してから、ちょうど20年。かつて「夢の技術」と呼ばれ、ノーベル生理学・医学賞の対象となったこの技術は、ついに研究室の「実験」を卒業し、一般の患者が「製品」として手に取れる「産業」へと歩みを進めた。

 iPS細胞は、血液や皮膚の細胞に特定の遺伝子を導入し、培養して作製。あらゆる組織や臓器の細胞に変化できる「万能性」を持たせた細胞だ。京大の山中教授は06年にマウス、07年にヒトのiPS細胞作製に成功した。

 病気になった細胞を再生させ治療する技術につながることが期待された。最大のメリットは、生命の「始まり」である受精卵を壊して作るES細胞(胚性幹細胞)のような倫理的問題が少ないことにある。

 今回了承された製品のうち、住友ファーマのアムシェプリはパーキンソン病の治療薬だ。

 この病気は、歩行などに大切な役割を果たす神経伝達物質ドーパミンを生み出す神経細胞が減る。アムシェプリはiPS細胞から作った神経細胞で、脳に注入することでドーパミンが出るようにし、患者の運動機能を改善させる。

 一方、クオリプスのリハートは、iPS細胞から作った心筋細胞を、「心筋シート」と呼ばれるシート状にしたものだ。動脈硬化、心筋梗塞などで心臓の動きが悪くなる虚血性心筋症による重症の心不全に対し、心臓に貼り付けて使う。これまでは心臓移植の手術などの処置が必要だった。貼り付けた後は心臓に新しい血管ができ、組織が修復される。

 2つとも、少ない臨床試験の結果から有効性を推定し発売できる「条件・期限付き承認」を受けた。いわば「仮免許」を受けた格好だ。企業は早く収益をつくることができるが、データを集めて有効性、安全性を7年以内に検証し、再び承認を申請して「本免許」を取得する必要がある。

 しかし、06年の発見から20年もの月日がかかった。なぜなのか。それは、科学的な「慎重さ」が必要だったからだ。

 大きかったのは、iPS細胞が「がん化」するリスクと闘わなければならなかったことだ。

 iPS細胞は増殖能力がとても高いため、移植した後に細胞が制御不能になり、腫瘍化(がん化)するリスクがある。遺伝子の働きが予期せず変わったり、細胞が分裂するときに異常が起きたりすることも、がん化リスクの原因の1つとされた。研究者たちは、iPS細胞から未分化なものを取り除く選別技術や、安全に特定の細胞へ分化させるプロセスを、歳月をかけて磨き上げてきた。

 今回の承認は、少人数の患者を対象とした臨床試験で安全性と一定の有効性を確かめたものだが、リスクを排除する粘り強い研究者らの努力が実った結果だ。

官民あげての取り組みが起こした医療産業の革命

 加えて、山中教授がノーベル賞を受賞した翌年の13年に、当時の安倍晋三政権が成長戦略の柱の一つとして、iPS細胞による再生医療を位置付け、巨額の資金を投入するようになったことも大きい。「条件・期限付き承認」は、その流れの中で作られた制度で、再生医療の普及を急ぎ、イノベーション(技術革新)を加速させ日本経済全体の成長につなげることを狙っている。今回承認を受けたクオリプスのような、資金が潤沢と言えないスタートアップの参入も促した。官民あげての努力が、今回の成果につながった。

 今回の承認は、単に2つの疾患の治療法が登場したというだけにとどまらない。日本、さらには世界の医療産業の構造を根底から変える可能性を持っている。

 今回の2製品の画期的な点は、患者本人の細胞を使う「自家」ではなく、あらかじめ健康なドナーから作られたiPS細胞のストックを利用する「他家」であることだ。患者一人一人のために細胞を作るオーダーメイド方式と違い、細胞を育てたり安全性をチェックしたりすることに長い時間をかける必要がない。このため、時間や費用を大幅に抑えることが可能になる。ある意味、必要な時にすぐ移植できるので、再生医療を「特別な高度医療」から、一般的な治療へと近づけることができるだろう。

 これにより、日本発の再生医療を軸としたエコシステム(巨大な経済圏)を作り上げることも可能となる。

 日本はiPS細胞の基本特許を持っており、培養液や自動培養装置、検査キット、超低温輸送といった周辺技術においても世界屈指のレベルを誇る。

 今回の承認により、これらのサプライチェーン(供給網)に関わる企業のための巨大な市場が生まれることになった。化学メーカーから、細胞を1つずつチェックする画像診断AIを開発するIT企業まで、恩恵は広い範囲の企業に及ぶだろう。

 また、 創薬への波及効果も期待できる。

 これまでの新薬の開発は、動物実験や、限られたヒトの細胞、臨床試験を通じてしか行うことができなかった。

 しかし今回の承認で、「iPS細胞から作る新薬の開発も認められる」という実績ができ、今後、製薬会社はiPS細胞を使った創薬を安心して進められるようになった。投資マネーが流れ込むようになり、海外の製薬企業との共同研究やベンチャー企業の参画、研究者の流入も増えるはずだ。

 また、iPS細胞を難病患者の細胞から作り、体外で病気の状態を確かめながら進める創薬の後押しにもなるだろう。この手法なら、人への薬効や毒性を早期に評価でき、開発のコストや時間を大きく抑えられるようになる。

 もっとも、「未来」を手放しで楽観視はできるわけではない。iPS細胞が産業として持続可能となるには、解決しなければならない構造的な課題が残されているからだ。

「日本発」の最先端技術をいかにして育てていくか

 1つ目は価格設定。先行する遺伝子治療薬などでは、1回の治療費が数千万円に達するケースもある。複雑で高度な技術を使うiPS細胞製品も、現状では製造コストが極めて高く、高額となる可能性がある。

 承認された新薬は、厚生労働省の諮問機関で薬価が決まり、保険適用される。高額療養費制度などもあるので患者の自己負担分はいくぶん抑えられるとみられるが、それでも安い金額ではないだろう。

 加えて、高額な薬価は国の医療財政を圧迫する。その財源をどう確保していくかの議論も避けて通ることはできない。

 2つ目は、製造プロセスの自動化と低コスト化をどこまで進められるかだ。

 現在のiPS細胞の作製は、高度な熟練者による手作業に頼っている。このままでは産業化を進めるのは難しい。

 自動車工場のように、ロボットが24時間体制で細胞の状態を監視し、自動で培養や洗浄、梱包といった作業を行うシステムの普及が不可欠だ。培養液に含まれる試薬などについて、国内で安価に調達できるようにすることも急務と言える。

 3つ目は、条件・期限付き承認の出口戦略を企業がどう描けるようにするかだ。

 この制度は、有効性が推定された段階で早期に世に出し、使いながらデータを集めるという日本独自のスピード重視の仕組みだが、数年後の再審査で十分な有効性が証明されなければ、承認が取り消され「本免許」を取れないリスクがある。企業は、「本免許」を取ることに失敗した場合、培ったノウハウや設備を「資産」としてどう残し生かしていくのか、戦略を立てる必要がある。

 そして4つ目は、グローバル・スタンダードの主導権争いをどう制していくかだ。

 日本で承認されても、そのまま米国や欧州で売れるわけではない。競争も激しくなっており、欧米のバイオベンチャーだけでなく、中国も巨額の国費を投じてiPS細胞の実用化研究を加速させている。日本が技術的な優位性を守りつつ、世界の規制当局と連携して「製造基準の国際標準」をリードしていくには、外交・通商面の戦略をどう立てていくかという視点も求められる。

 これらの課題を乗り越え、産業化が進めば、私たちがその恩恵を当たり前に享受できる社会が実現することになるだろう。例えば、パーキンソン病や心不全だけでなく、網膜の疾患による失明、脊髄損傷による麻痺、糖尿病や肝不全といった多くの病気が、細胞を入れ替えることで治療できるようになる。

 医療の在り方は、症状を抑える対症療法から根本的に組織の機能を復元する根本治療へと大きくシフトするだろう。健康寿命が延び、寝たきりの人が社会復帰できるようになれば、医療費の増大を上回る経済的・社会的なリターンが期待できるはずだ。

 また、iPS細胞の技術は、病気だけでなく老化の解決策としても研究が進んでいる。若返りの技術が臨床に応用されるようになれば、医療の定義そのものが変わってしまうだろう。

 今回のiPS細胞の医療製品の承認は、前述した通り、この20年間、紆余曲折がありながらも研究を続けてきた科学者と、それを支えた政府、そして、リスクを承知で開発に乗り出した企業の努力によるものだ。

 しかし、承認はゴールではなく、新しい医療に支えられた社会の実現に向けたスタート地点に過ぎない。引き続き、国や企業、医療機関、国民が一体となって、この「日本発」の最先端技術を育てていく必要がある。そして、高額な治療費に対する国民の納得感の醸成や、イノベーションを邪魔しない規制のあり方なども含め、幅広く考え、真剣に議論していかなければならない。