TSMCの熊本誘致、ラピダスの立ち上げ。日本の半導体の行く末を左右する重大な局面で、常に当局者としてバックアップしてきた、経済産業省商務情報政策局長の野原諭氏。5年近い異例の長期在任を終えて、8月からは半導体サプライチェーン構築の要である中小企業政策を統括する、中小企業庁長官に就任。その“ミスター半導体”を直撃した。Photo=横溝敦(雑誌『経済界』2026年11月号より)
野原 諭 中小企業庁のプロフィール
のはら・さとし 1967年6月福岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、91年に通商産業省(現・経済産業省)に入省。経済産業政策局、大臣官房会計課長などを歴任。2021年から主に半導体政策を推進する商務情報政策局長を5年近く務め、8月より中小企業庁長官。
ラピダスはラストチャンス 素材・製造装置への期待
―― 半導体政策を推進する商務情報政策局長としての5年近い任務を終えた率直な心境は。
野原 この5年間は行政官人生の中でも特に密度の濃い期間でした。半導体市場が世界的に急成長し、生成AIが社会構造を変えつつある時期に政策を担当できたことは、非常に恵まれた機会だったと思っています。
半導体はあらゆる産業の基盤であり、国民生活の隅々にまで浸透していますので、市場が急拡大し、政策の効果が最大化される条件が整いつつある今の環境は、行政の政策推進の大きな追い風になったと思います。
―― ラピダスの量産開始を見届けてから異動するとみられていたことについては。
野原 個人的には、もう少し担当したかったという思いがあります。 ラピダスは2027年に2ナノ量産を予定しており、今はまさにそこまで1年余りという局面に差し掛かっています。
政策担当者としては最後まで見届けたい気持ちはあります。しかし、人事は組織の総合判断であり、与えられた任務で最善を尽くすことが行政官の責務であると冷静に受け止めています。
新たに中小企業政策を推進する立場になりますが、多数の中小企業が半導体サプライチェーンに加わっていますから、中小企業庁長官として、サプライチェーン確保の観点から半導体産業に引き続き関わっていきます。
―― 政府による巨額投資は、日本の産業自立につながるのでしょうか。特定企業への依存リスクはありませんか。
野原 半導体は電気・電子製品のほぼすべてに組み込まれており、国民生活・産業活動・経済活動の基盤を支える不可欠なデバイスです。仮に供給が滞れば、社会全体が停止しかねません。
北海道のラピダス、熊本のTSMC(JASM)の2拠点は、AIロジック半導体の供給源として日本のデジタル基盤を支えていく役割を担っています。安全保障の観点からも極めて重要なのです。
―― ラピダスの経営陣との協働を自身でどう評価しますか。
野原 ラピダスは、東哲郎会長、小池淳義社長らが半導体への飽くなき情熱を抱いて立ち上げた企業です。挑戦しないことこそ最大のリスクであると、覚悟を決めて日本の半導体再興の扉を開いてくれたと思っています。
プロジェクトには必ず課題があります。関係者が同じ方向を向き、困難を乗り越える努力を続けることで、プロジェクトは前進することができますし、リスクを取って挑戦することで日本経済を大きく成長させるチャンスが生まれます。ラピダスの挑戦は日本の未来を左右する重要な試みだと考えています。
―― ラピダスの2ナノ量産に向けたボトルネックは何でしょうか。
野原 2ナノ半導体製造は世界でもTSMC・インテル・サムスン・ラピダスの4社しか挑戦していない極めて高度な技術領域です。とりわけ商業用として十分な性能と歩留まりを確保することが最大の難関であり、それを解決しようとラピダスのエンジニアが日々努力を続けていると聞いています。
―― ラピダスはラストチャンスとかつて語った真意は。
野原 チャンスは永続的に提供されるものではありませんので、ラピダスは「ラストチャンス」だと強く感じました。
IBMから半導体の先端技術の提供の打診があった際に、日本が決断できなければ、他国が手を挙げていた可能性がありました。
インドや中東など、半導体産業への参入を強く望む国は多く、最先端技術を獲得する機会は他国に移ってしまっていたかもしれません。
TSMCやサムスンには、自社技術を提供して競争相手を増やす理由がないので、IBMから技術の提供を受けて量産化に挑戦できる国は限られていました。日本がこの機会を逃せば、最先端領域への参入は極めて困難になっていたでしょう。
―― 日本の素材・製造装置メーカーの強みをどう見ていますか。
野原 日本は半導体の素材の領域で世界シェア50%以上、製造装置の領域で約30%を維持しています。これは日本半導体の極めて大きな財産です。
この素材や製造装置の強みを維持・強化するためには、政府が企業の投資負担を軽減し、継続的に増産に向けた投資ができる環境を整えることが重要だと考えています。
外資とのコラボの妙 AI時代の今こそ復権を
―― TSMC熊本の経済効果をどう評価しますか。
野原 TSMCの熊本進出は九州経済に大きなプラス効果をもたらしました。製造業の設備投資も過去最高水準が続き、中小企業の投資も活発化しています。
誘致に関連し政府が投資した補助金についても、約10年程度で税収として回収できると分析していまして、雇用・賃上げ・地域経済の活性化など多面的な効果が生まれています。
投資額が大きいという批判もいただきましたが、それに見合う経済効果は十分にあると考えています。
―― 半導体事業における外資の誘致のメリットは。
野原 TSMC熊本の誘致・立ち上げでは、ソニーが極めて重要な役割を果たしました。土地の提供、エンジニアの出向、自治体との連絡調整など、TSMCが日本で円滑に事業を進めるための支援を全面的に担ったのです。
TSMCの熊本誘致は、日本企業の強みを生かしながら、世界的な半導体メーカーと相互補完的な関係を築く良い契機となったと考えています。
―― AI基盤整備と半導体政策のシナジーをどう捉えていますか。
野原 AI関連産業は半導体需要の源泉であり、AI基盤の整備は半導体政策と密接に連動しています。経産省が推進するGENIAC(ジーニアック:生成AIの持続的な開発力を高め、社会実装を加速するための経産省のAIスタートアップ支援プログラム)やフィジカルAIなどの政策は、AI産業の成長を促すだけでなく、半導体需要の創出にもつながります。半導体で川下産業を国内に持つことは極めて重要なのです。
―― 日本が半導体で復権するために必要な政策とは。
野原 日本の強みは素材と製造装置であり、競争力を失わないよう、支援をしてきちんとマーケットシェアを取っていくことが必要ですし、世界市場で今後伸びていくのが、半導体の設計、製造の領域で、日本としてはここを一定程度取っていきたい。
AI時代に必要な先端半導体は成長分野として当分伸び続けるでしょうし、利益率も高いのでここに注力していくことが重要だと考えています。