生物多様性の保全や水源涵養、土砂流出・崩壊防止など、年間で約5500億円の価値がある――。王子ホールディングス(HD)は2024年9月に会見を開き、国内で所有する森林の価値を公表した。同社が決算以外に特別な会見を開くのは初めてだ。磯野裕之社長に経済価値算出の狙いを聞いた。聞き手=和田一樹 Photo=小野さやか(雑誌『経済界』2025年1月号より)
磯野裕之 王子ホールディングスのプロフィール
企業価値が正しく評価されていない
―― 王子ホールディングスは世界で約63・5万ヘクタール、国内に限っても社有林として約19万ヘクタールの森林を所有しています。2024年9月、国内社有林の経済価値を算出したところ年間約5500億円の経済価値になったと発表がありました。発表の狙いを教えてください。
磯野 投資家の皆さまを含めた多くの方に、改めて王子HDの価値を知っていただきたいという思いがありました。ここ数年、私たちを取り巻く事業環境が厳しいのは事実です。2000年以降、デジタル化の進展とともに国内の紙需要は落ち込み、23年度、印刷・出版用紙は06年のピークと比べて、約53%需要が減少。新聞用紙は05年のピークと比べて、約60%需要が減少しています。
これは一定の事実として受け止めています。ただ、株価の動きなどを見ていると、「紙の需要は減る」ことにばかり注目が集まり、企業価値を正しく評価されていない部分もあるのではないか。社長に就任してから、そんな思いを抱いてきました。そこで、王子グループが100年以上にわたって大事にしてきた森林の経済価値を算出し公表をしました。現時点では非財務情報としての開示ではありますが、この取り組みを通じて、私たちの価値をより広くアピールすべきだと考えたわけです。
―― これだけの森林を維持するのは相応のコストもかかります。また、今回の経済価値算出にあたっても少なからずコストがかかっているはずです。これらの費用は、最終的にどうやって回収するのでしょうか。
磯野 国内社有林が持つ経済価値を発表してから、アナリストの方からも同じような質問を頂きました。たしかに、森林を維持するために費用がかかるのはその通りですが、これらは生産・販売活動の費用の一部であり、長きにわたり事業として成り立ってきていると言えます。
ただ、ネイチャーポジティブやカーボンニュートラルへの取り組みが、地球規模でますます重要性を増しているなか、これらの費用、すなわち、森林、自然を健全に維持しているコストとその価値がしっかりと認識してもらえないとすると、例えば、天然林の伐採等を止めることができず、ネイチャーポジティブに向かっていくことは難しいものと思います。
―― 王子HDの時価総額は約5760億円(10月22日時点)で、算出した森林の価値とほぼ同じです。森林を所有する価値が市場で評価されれば、もっと株価は高くなりそうです。森林の価値が株価にいまいち反映されない理由をどう考えますか。
磯野 これは私の個人的な印象です。「企業と自然」というと、破壊しているイメージの方が強いのだと思います。紙パルプ産業も、アマゾンの熱帯雨林を破壊していると思われがちでしょう。森林は化石資源と異なり、再生可能な資源です。そして、王子グループも森林とともに生物多様性や水源涵養を維持し、自然を大事にしてきたのですが、ここのイメージにギャップがあると感じます。
更にPR不足も相まって、森林に関する正しい知識を持っていない方が多いことも関係しているはずです。例えば、当社は生物多様性や流域保全等の公的機能に配慮しつつ生産活動を主目的に植林、伐採をしている生産林と、国内外に保有する森林の約26%を占める公的機能の維持を主目的とした環境保全林を、一体で維持・管理しています。また、19年に国内の山林を守り、活用するための「森林経営管理制度」もスタートしていますが、ある程度は間伐をして地面に太陽光が落ちるようにしないと山が死んでしまいます。そして、山を正しく管理しなければ、巡り巡って土砂災害が起こりやすくもなる。ですから間伐は山林のためにも必要ですが、こうした知識を知らない方もおり、どうしても伐採ばかりしているイメージに結び付きやすいのかなと感じます。
あるいは少し視点を変えれば、そもそも森林を持っている企業が限られていることもあって、森林の持つ価値を真正面から議論したり啓蒙したりする企業がほとんどいないことも遠因にはあるように思います。
世界の森林関連企業でネットワークを強化する
―― 23年9月、世界的な森林関連企業10社でInternational Sustainable Forestry Coalition(=ISFC)という団体を設立しています。日本企業では、王子HD、住友林業、三井物産、丸紅が参加しています。これはどのような団体ですか。
磯野 「森林と林業が、持続可能で成長する循環型バイオ経済への世界的移行の中心となることを目指す」というビジョンを持つ団体です。
世界を見れば、当社以上の規模で森林を所有している企業もあります。ですが、どうも森林を持っている会社間のグローバルレベルでの横のつながりは、これまで希薄でした。
これらの企業は、森林のみならず、生物多様性、水源涵養など、そうした価値をどうアピールしていくか、共通の問題認識を持っていました。ISFC立ち上げの半年ほど前から意見交換を続け、正式な設立につながったわけです。
―― ISFC設立から1年以上経過しました。手応えはいかがですか。
磯野 ISFCの主要構成メンバーはヨーロッパ系企業です。彼らのネットワークの強さには驚かされました。ISFC設立のキックオフミーティングをニューヨークで行ったのですが、そこにオバマ政権で国務長官を務めたジョン・ケリーさんなど、自然や環境保護分野のキーマンが集まりました。日本企業だけで、いくら森林の価値を訴えていこうと思っても、こうした人たちにはおおよそ声が届かないわけです。そのネットワークにアクセスできるようになったことも大きな収穫です。
国際条約に加盟する国々がさまざまな問題を議論する国際会議、COPをご存じの方は多いと思います。COPで政策を取りまとめる際、ドラフティングをする人物とどのくらい関係を持てるかは、ロビー活動として重要な意味を持ちます。ISFCの活動を通じて、グラスゴーで行われたCOP26で実際にドラフティングを担当した人物と食事をする機会を得ることもできました。それから23年ドバイで開催されたCOPにも参加して、当社として日本パビリオンで講演する機会につながっています。現地で参加してみて、こうした場に毎年参加してさまざまな人と交流していれば、それはネットワークも強くなるなと、つくづく感じました。
―― 特に環境問題に関するレギュレーションを巡っては、欧州の立ち回りのうまさが目立ちます。
磯野 日本企業、日本人は極東地域に取り残されてしまっているのだと、危機感のような感覚を持ちました。今後も当社は、気候変動と生物多様性について議論するCOPに、ISFC加盟企業と共に積極的に参加していこうと思います。
生物多様性COP16の多数のセッションで、将来自然を回復、再生するプロジェクトは評価され、資金もつく一方で、以前から存在する森林を維持、管理しているプロジェクトは評価もされず、資金もつかないというのはおかしいのではという意見が出ていました。森林の価値について正しく理解しているのは、実際に所有し守り続けている私たちだという自負があります。今後、森林の評価手法や、水源涵養など、森林の多面的な機能の価値をクレジット化していくための議論などで、世界のルールメーカーになっていければと考えているところです。
森とともに地球のために入り口からリサイクル企業
―― 王子グループの起源となった抄紙会社の設立は1873年でした。2024年、創業に深く関わった渋沢栄一氏が1万円札の顔にもなりました。なぜこれだけ長きにわたって企業が存続してきたと考えますか。
磯野 やはり、紙という製品が人々の生活に欠かせなかったこと。そして、暮らしの変化、紙のニーズの変化に応じて技術面も改良してきたこと。これは大きな理由です。
ただし、根底にあるのはサステナブルな企業の在り方で、それこそが事業が長く続いている要因だと思います。私たちは紙の原料となる森を伐採したら植林をしてきました。王子グループの植林事業は1893年頃に始まり、1930年代に当時の社長だった藤原銀次郎の「木を使うものには、木を植える義務がある」という教えのもと、木を植え続けてきました。森林資源だけではなく、いったん製品になった紙も再利用してきました。最近、サーキュラーエコノミーなど循環型のシステムが重要視されますが、渋沢栄一が北区王子で事業を始めた時、江戸のぼろ切れを集めてきて紙を作り始めました。私たちは入口からまさにリサイクル企業なのです。
今ある森林も、100年以上の積み重ねの結果です。私たちが当たり前のようにやってきたことが、地球環境にも良かったというだけなのです。これからも森林資源に根付いた事業を続けていくことに変わりはなく、サステナブルな木材が原料であり、脱プラスチック化につながる紙製品、木質由来のバイオエタノールやバイオマスプラスチックをはじめとした新素材は、化石資源由来の素材・製品を代替することが可能です。私たちの事業を通してサステナブルな社会への移行へ、大きく役立つことができると考えています。そういった部分で世の中に貢献できれば、王子グループの事業は今後も続いていくはずです。