日本を代表する歓楽街六本木。外苑東通りと六本木通りが交わる六本木交差点のほど近くに、イタリアン、ワインショップ、ベーカリー、パティスリーなどがそろい、にぎわいの絶えないビルがある。しかし、20年ほど前までは「死にビル」と呼ばれていた。そこからビルの価値を磨き上げたのが、守川敏氏だ。文=和田一樹(雑誌『経済界』2025年1月号より)
「このビルは化ける」経験に裏打ちされた直観
竹林に覆われたビルだった。六本木駅から徒歩1分。駅ビルのすぐ裏手にあり、今は「21六本木ビル」という名前になったそのビルは、日本経済がバブルに沸いた頃、レジャーホテル事業を手掛けた石亭グループが料亭を経営していた。時代は流れて入居するテナントがなくなってからも、料亭時代に植えられたであろう竹が伸び放題になっていた。それどころか、撤退したテナントが残した内装が外からでも見え、「死にビル」とさえ呼ばれていた。リーマンショックの直後、高齢になったビルのオーナーが、買い手を探していた。そこで声がかかり、新たなオーナーになったのが守川敏氏だった。
「僕はずっと飲食店やクラブに従事していて、新規出店にも何度も関わりました。20年以上、六本木で働いてきた経験から、この場所は化ける予感がしました」
守川氏は、山口県岩国市で生まれた。高校生の時、父親の転勤で東京に引っ越す。大学生になり、夜の世界と出会った。1987年、縁あって21歳にして六本木のキャバクラ店で店長を務めることになる。バブル全盛の六本木。夜の世界の海千山千、大小の詐欺師、裏社会の人々にもまれながら、悪戦苦闘する日々を過ごした。不誠実な人間に騙されたこともあった。大事にしたい人を守るためには、自分が強くなるしかないと痛感した。
95年、守川氏は27歳でクラブ「チック」をオープンさせ、経営者としての第一歩を踏み出す。チック1号店は、わずか1年で六本木トップの店になった。守川氏は、経営基盤を安定させるために、トゥエンティーワンコミュニティという会社を立ち上げ、不動産所有を始めた。やがて舞い込んだのが、「死にビル」の案件だった。
「駅は近くて立地は悪くない。内外装をリノベーションして、魅力的なコンテンツを作れば必ず人は来る。そして、人が多目的に集まることによって相乗効果が生まれる。そうすればビルもエリアも価値が上がる。購入前からそんなイメージがありました」
守川氏は、ビルにそろえるコンテンツを充実させることに力を注ぐ。もともと、ビルを購入する前からECでワイン事業を手掛けていた。そこで、ワインショップの実店舗を運営する案は真っ先に浮かんだ。
せっかくなら、ワインを買った人が食事を楽しんだり、食事を楽しんだ人がワインを買って帰ったりできるようにしたい。そんな思いから、ワインショップと同時に、カジュアルイタリアンもオープンさせた。守川氏が目指したのは、ワインと食の総合ビル。その後も、レストラン、ベーカリー、パティスリーと事業を拡大し、人の出入りが絶えない人気スポットになった。
「全くつながりのないビジネスを突拍子もなくやったつもりはなく、既存のお店に来た人たちが喜んでくれるものを突き詰めて、ワインと食の延長線上でやってきました。ただ、どれも自分が好きなことという共通点はあったように思います」
好きで始めた事業でもがき苦しむ日々
自分が好きなこと。最たるものは、ワイン事業だった。2004年、トゥエンティーワンコミュニティの中に、ワイン事業部を立ち上げた。守川氏はすぐにワインの本場、フランスへ飛んだ。
「生産者から直接仕入れてECでお客さまに販売すれば、質のいいワインを安価に届けられるのではないか。今考えれば安易ですけど、とにかくフランスに買い付けに行こうと思ったんです」
しかし、名もなき日本企業の社長が行ったところで、生産者は相手をしてくれるわけがない。そこで守川氏は、小さな生産者を訪ね歩いた。小さな生産者たちは、ワイン造りへ強い情熱を持ちながらも、大手輸入会社が相手をしてくれず販売に苦戦していた。そんな彼らは守川氏を歓迎した。
何とか生産者の力になりたい。おぼろげだったワイン事業のイメージに、ドライブがかかった気がした。守川氏は輸入免許、酒販免許を取り、ソムリエ試験にも合格した。そして、09年、ECサイト「ワインショップソムリエ」をオープンさせる。しかし、そう簡単にはいかなかった。
「toCですから在庫を自分たちで持つ必要があり、倉庫代がかさみます。在庫をさばくためには販売力を磨くしかありません。自社サイト、ヤフーショッピング、楽天、Amazon。とにかく必死で販売力を付けていきました。すると、今度は仕入れとかみ合わずに欠品してしまう。何度も何度もこの繰り返しで、七転八倒しながらやってきました」
もがき苦しんだ末、18年に楽天のワインジャンルにおいて優れた店舗に贈られるショップ・オブ・ザ・イヤーを獲得した。その後も、生産者とのネットワークを開拓し続け、商品数は2100を超え日本トップクラスになった。
当初は社長の道楽と言われたワイン事業も、国内EC市場で一定のマーケットを獲得するまで成長させた。23年には、ワイン事業を株式会社ソムリエとして独立させた。今後のワイン事業の展望について、守川氏はこう語る。
「日本のワインマーケットは約1兆円弱。そのうち68%が飲食店で、32%が小売りです。これから、飲食店と小売店舗、つまりtoB市場でもシェアを取りにいきます。私たちの武器は取り扱いアイテムの多さです。カジュアル店舗から高級店舗、スーパーから高級デパート、あらゆるマーケットに応えられます。そして、いずれはIPOも視野に入れています」
実は守川氏、ワインのEC事業が安定した段階で、事業意欲の減退に悩まされていた。そんな折、コンサルティング会社出身で大手企業でも豊富な経営経験を持つ友人が、「もっと勉強したい」という理由で古巣のコンサルに戻った姿を目の当たりにした。
あるいは、故郷山口県に縁を持つ人たちのコミュニティで、自身より一回りも二回りも年長の経営者、漫画家が、いくつになっても挑戦を続ける姿に触発されもした。
「普通ならのんびりされてもいい年齢の方が、現役でやりがいを持ってお仕事されている姿を見て自分が恥ずかしくなりました。それでふんどしを締め直したんです。IPOは決してゴールではなくて、ひとつの目標です。そこに立てば、尊敬する先輩や友人のような境地に立てるのかもしれないですから」
株式会社ソムリエは、会計管理の見直しや営業人材の獲得、育成システムの見直しなど、英気を養った守川氏の下で新たなステージに入った。何より、「死にビル」をよみがえらせた男の新しい挑戦が始まった。