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社名もブランドも「獺祭」に目指すは世界売上高1000億円 桜井博志 獺祭会長

桜井博志 獺祭

日本酒ファンの間で圧倒的な人気を誇る純米大吟醸酒「獺祭」。一昨年にはニューヨークにも酒蔵を建設、本格的に米国進出を果たした。そして6月1日、旧旭酒造は社名をブランド名と同じ獺祭に変更した。その狙いは何か。これから何を目指すのか。桜井博志会長に聞いた。聞き手=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2025年9月号より)

桜井博志 獺祭会長のプロフィール

桜井博志 獺祭
桜井博志 獺祭
さくらい・ひろし 1950年山口県生まれ。73年に松山商科大学(現松山大学)を卒業し灘の酒蔵勤務を経て76年、実家の旭酒造入社。いったん会社を離れるが84年、父の急逝で復帰、社長に就任。90年に「獺祭」を発売、純米大吟醸酒市場を開拓していく。2016年社長を息子の桜井一宏氏に譲り、会長に就任。23年米ニューヨーク州に獺祭ニューヨーク蔵を稼働させた。

増やすのではなく削ぎ落としてきた歴史

―― 6月1日に社名を従来の「旭酒造」から、ブランド名である「獺祭」へと変更しました。改めてその狙いを教えてください。

桜井 狙いははっきりしています。私たちは獺祭という商品しかつくっていません。そうであるなら、社名とブランドを統一させようということです。獺祭という名前に比べて残念ながら旭酒造という社名はそれほど浸透していません。海外ではビールメーカーの子会社なのかと言われたこともあります。それをすっきりとさせたということです。10年以上前から考えていたことですが、ようやく踏み切ることができました。でも今でもたまに「旭酒造の桜井です」とつい出ちゃったりしてますが(笑)。

―― とはいえ、今後、獺祭以外のブランドを出すことを考えたら、社名とブランド名を分けたままにしておくという選択肢もあったのではないですか。

桜井 多ブランド化については考えていません。獺祭のような純米大吟醸酒をいくつものブランドでつくることはできません。それよりも唯一の獺祭を磨き上げていく。

 私は一度旭酒造に入社しましたがその後離れ、1984年に父の急逝により戻ってきました。当時、旭酒造は岩国税務所管内でも4番手の、全国的には無名の酒蔵でした。以降の40年間、いかに商品を絞っていくかを考えてきました。会社に戻った当時、取引先からは、こんな商品ができないか、新商品を出すべきだ、という話をよく聞かされました。営業の人間も同じようなことを言ってくる。その言葉に従うと、商品はどんどん増えていく。でも増えれば増えるほど、一つ一つの商品への思いが緩くなる。その結果、商品は増やしたのに売り上げにつながらない。だから増やすのではなく、自分たちの考えと合致しないものをそぎ落としていく。それが私たちの歴史です。

 これは商品に限った話ではありません。取引先でも同じことで、販路を広げるよりも、どこに売らないかというのは大きなポイントです。例えば獺祭はいわゆるスーパーマーケットやコンビニエンスストアでは売っていません。

 ありがたいことに売らせてほしいという話はたくさんいただいています。私としても獺祭をできるだけ多くの人に飲んでもらいたい。だからこそ、販路を絞っていく。それが獺祭のブランド力を高め、結果的により多くの人に飲んでいただくことにつながります。

―― そういう考えにいたるきっかけがあったのですか。

桜井 山口県のローカル酒蔵としては、売り上げを伸ばすために販路を広げていきたかった。そこで全国、とりわけ東京市場を開拓したいと考えていました。そのために新たに取り組んだ純米大吟醸酒が評価され、徐々に売り上げを伸ばしていったのですが、そんな時期に、大手の酒問屋の担当者からこう言われたのです。

 「今は調子がいいかもしれないけれど、必ず売れなくなる。だから新しい商品を企画してください」

 その時に思ったのが、この言葉に従えば、常に新しいものを出し続けなければならなくなる。あるいは安い商品で市場を刺激する必要に迫られる。でもそれは体力を消耗するだけで終わってしまう、ということでした。そこで体力勝負の競争を避け、付加価値の高い純米大吟醸酒で勝負しようと考えたのです。

―― ビジネスモデルの大転換ですね。それが獺祭という商品につながったのでしょうが、当時の純米大吟醸酒を巡る環境はどんなものだったのでしょう。

桜井 市場というのはないに等しかったですね。日本酒市場は縮小を続けていましたが、それでも日本酒ファンはまだまだ多くいらっしゃいました。でもその人たちが手に取るのは、宣伝をやっている会社のお酒や酒屋さんに勧められたものです。しかも業界では、純米大吟醸酒を市場として成り立たせるほど量産する技術を持つ酒蔵はない、というのが定説でした。つまり純米大吟醸の市場もなければ技術もない。ただ、先ほども言ったように、旭酒造は管内4番手です。今までと同じことをやっていては生き残れない。それが決断を後押ししました。

やむを得ずに始めた杜氏抜きの酒造り

―― 獺祭のもう一つの特徴は、杜氏を置かない酒造りです。杜氏の勘に頼るのではなくデータに基づいて科学的に酒をつくる。杜氏制をやめたのと純米大吟醸に舵を切ったのとどっちが先だったのですか。

桜井 純米大吟醸を中心に置いたほうが先です。杜氏にしてみればいい迷惑だったと思います。それまで純米大吟醸を造ったこともないのに造れと言われたわけですから。そこに事業の失敗が加わりました。当時すでに杜氏の高齢化が日本酒業界では問題になっていました。杜氏の多くが冬から春にかけて酒造りを行い、夏から秋は地元で農業に従事する。でもこれでは若い人が酒造りをしようと思わない。そこで夏の仕事をつくろうと考え、地ビール造りにチャレンジしました。それだけならよかったのでしょうが、そのビールを提供するレストランまでつくったのですが大失敗で、わずか3カ月で閉店です。

 これを見て杜氏は、「このままでは給料がもらえない」と思ったのか、部下を連れて違う酒蔵に移っていきました。ですから、杜氏に頼らない酒造りを目指したのではなく、杜氏がいなくなったのでやむなく自分たちで酒造りをせざるを得なかったのです。

―― 酒造りのノウハウは杜氏の頭の中にあります。よく自分たちで酒造り、しかも難しい純米大吟醸造りができましたね。

桜井 杜氏の仕事を近くで見てきたとは言え、社員全員、半分素人です。しかも若い社員が多かった。でも今から考えればこれがよかった。酒造りに対する変な先入観を持っていないし、こうしようと言えば素直に受け入れる。

 もう一つ幸いだったのが、酒造りのデータ化が急速に進んでいたことです。この背景にあったのが全国新酒鑑評会です。お酒の品質向上を目的に毎年開いているもので、多くの酒蔵が出品しています。ここで金賞を取ることが酒蔵にとっても最高の栄誉なのですが、各都道府県も、金賞の酒蔵がいくつあったかを競っています。そのために各県の食品工業技術センターや各地の国税局の酒造技官の方々も新しい酒造りの技術を研究し、公開するようになっていました。

 そこで杜氏のいなくなった旭酒造では、秋田県の醸造試験場の製造マニュアルを入手し、1年目はほとんどそれに従って純米大吟醸酒造りに取り組みました。そうしたところ、初年度から杜氏がつくったものと遜色ない、むしろ上回るほどの酒ができました。

 もちろん秋田と山口では気候も違うし水も違います。そもそも使用する酒米も違いました。それでもそれなりの酒ができた。ですから翌年以降はそのデータを元にブラッシュアップして独自の純米大吟醸酒づくりを目指していきました。

 杜氏による酒造りをやめてよかったことがもう一つあります。先ほども言ったように杜氏は季節職人です。夏にはいなくなってしまう。そのため酒造りもそのスケジュールに従わざるを得ません。でも社員だけでつくるようになったことで、最適のタイミングで商品を出荷することが可能になりました。

―― 素人社員がつくった酒が、すぐに市場から高い評価を受けるようになりました。

桜井 繰り返しになりますが、かつては純米大吟醸酒の市場も技術もなかった。それだから当時の品質でも評価していただけた。今では各酒蔵が力を入れたこともあり、純米大吟醸酒造りの技術は格段に進歩しています。ですからわれわれも負けないように技術を進化させていかなければなりません。でも各蔵が切磋琢磨したことで、純米大吟醸酒の市場は大きく広がりました。獺祭の出荷量は過去30年で200倍に伸びました。そしてこれは市場の伸びとほぼ一致しています。

苦労続きのNY蔵を撤退しなかった理由

旭酒造
2023年9月23日に開かれたニューヨーク蔵のオープニングセレモニー。
左端が桜井一宏・旭酒造(当時)社長、隣が桜井博志会長 (写真提供:永井隆)

―― 日本酒は海外でも飲まれるようになり、輸出額は右肩上がりで伸びています。その一翼を担っているのが獺祭で、今では売上高200億円のうち半分が海外です。しかも一昨年には、ニューヨーク州に酒蔵をつくり「DASSAI BLUE」の製造・販売に踏み切りました。これも苦労の連続だったと聞いています。

桜井 一昨年9月に初出荷しましたが、当初の計画より4年半遅れました。まずネックになったのが法律問題です。われわれはアメリカの法律に詳しくない。アメリカ側も日本酒が分からない。そこで問題が起きる。

 例えばニューヨーク蔵では精米のための防爆設備をつくらなければなりませんでした。しかし日本国内の酒蔵で防爆設備を設置したところはありませんし、米西海岸に工場をつくった日本酒メーカーにもありません。ところがニューヨークの担当者は設置しろの一点張りで、結局、従うしかありませんでした。

 そんなこともあり、2017年に進出を決めた時には30億円程度の予算を組んでいたのに対し、実際には85億円もかかってしまった。進出決定時の旭酒造の売上高が約100億円でしたから、そのままだったらかなりまずいことになっていたと思います。幸い、獺祭の輸出が増えたこともあり、22年には売上高が165億円まで伸びていた。だから何とか耐えることができました。

―― 酒蔵建設が足踏みする中、撤退を考えたりしませんでした?

桜井 それは考えましたよ、経営者ですからね。自分はサンクコスト(回収不能な既払いコスト)が怖くて引き下がれない情けない経営者なのかと自問自答もしました。その後、コロナ禍となった時も、「チャンスだ、撤退の言い訳ができる」とも思いました。それでも踏みとどまったのは、理屈ではなく、アメリカで酒を造りたい、という思いでした。

―― 酒造りは酒蔵をつくって終わりではありません。当然、日本からスタッフが行っているにしても、日本酒造りなどやったこともない現地の人を、一から指導しなければなりません。

桜井 もちろんいろんなことがありましたが、それを一つ一つ乗り越える以外ありませんでした。大きかったのは、ふらふらしていた私が、これで行こうと決めたことです。アメリカに来たのだからアメリカ式でやるべきか、あるいは日本式にやるべきか。悩んだ末にやっぱり日本式でやろうと決めました。

 アメリカは分業化社会です。本来であれば製造スタッフは掃除はしません。でも日本の酒蔵なら、みんなで掃除するのは当たり前です。ですからニューヨーク蔵でも全員が掃除する。そうやって日本の酒造りを教えていきました。

―― 桜井さんも夫婦で移住して陣頭指揮を執ったそうですね。

桜井 酒蔵を計画した当初はそこまでは考えていませんでした。担当者を置いて、私は日本からコントロールするつもりでした。でもなかなかうまくいかない。それを解決するための一番簡単な方法が指揮官が前線に出ることでした。前線に出ることで、都合の悪い話もダイレクトに入ってくる。そうすればすぐに対処することができる。行ってよかったと思っていますし、今でも1カ月のうち1週間は現地に行くようにしています。

―― 初出荷から間もなく2年です。想定どおりですか。

桜井 思ったよりうまくいっている部分より、うまくいっていない部分のほうが多いですね。何より売り上げが当初の予定通りにはいっていません。蔵がフル稼働すれば、100億円ぐらいの出荷額になりますが、今はまだ10分の1以下です。こちらに来て分かったのですが、アメリカ人は価値よりもマネーが第一です。ですからラグジュアリーブランドを目指す獺祭が受け入れられるのはそう簡単ではありません。

大量生産・大量販売とは一線を画す

―― だったらアメリカではなく、日本文化への関心の高いヨーロッパへの進出という選択肢もあったのではないですか。

桜井 アメリカはやはり世界経済の中心です。われわれは世界売上高1千億円を目指しています。日本市場はそんなに伸びないことを考えると、海外で900億円を売る必要があります。そうなるとやはり巨大市場のアメリカを中心に考えなければなりません。

 だからといって、すぐに量を狙おうとは思ってはいません。例えば価格を落とせば、すぐに30億~40億円にまで増やすことはできると思います。でもそれをやるとそこで止まってしまう。100億円出荷も世界1千億円も逆に遠のきます。今われわれがプライオリティの最上位に置いているのは、獺祭のブランド価値をいかに高めるか。マーケティングも重要ですが、品質もさらに磨いていかなくてはならない。そのためにはアメリカや日本が志向してきた大量生産・大量消費とは一線を画す必要があります。

 これは国内も一緒です。日本酒メーカーの中で獺祭の出荷量は11番目か12番目です。でも製造スタッフは220人で断トツの日本一です。生産性が悪いと思うかもしれませんが、販売金額は3番手です。このやり方で1千億円を目指します。

―― なぜそこまで1千億円にこだわるのですか。

桜井 1千億円にいかないと、世界のラグジュアリーブランドの中で、存在感が発揮できないと思っています。1千億円を売って、初めて獺祭が世界で認められる。そう考えています。