長年「家庭用品メーカー」として親しまれてきた象印マホービンが、保守的な社風を変え、新たな挑戦に踏み出している。事業の多角化や体制刷新を進めるとともに、社会との接点を意識した取り組みも加速。大阪・関西万博への出展をはじめ、企業としての存在感も増している。聞き手=佐藤元樹 Photo=藤岡修平(雑誌『経済界』2025年9月号より)
市川典男 象印マホービン社長のプロフィール

いちかわ・のりお 1958年生まれ。81年、甲南大学経済学部卒業後、象印マホービンに入社。東京支店長、新商品企画室長、第一開発部長などを歴任し、98年、取締役に就任。国際営業本部や経営企画室を担当し、2001年より現職。
事業の幅を広げ、強みを磨く 挑戦と思考の変化
―― 経営方針と、現在最終年度を迎えている中期経営計画について、手応えや評価をお聞かせください。
市川 今回の中期経営計画は、「SHIFT」と銘打ち、「ドメイン・シフト」「グローバル・シフト」「デジタル・シフト」「サステナビリティ・シフト」といったテーマを掲げ、全社一丸となって取り組んできました。これらのテーマは、この3年間で終わるものではなく、2030年以降を見据え、継続的に取り組むべき長期的な課題であり、中期経営計画において明確化することで、各部門が具体的に何をすべきかを明らかにすることができました。その意味で、非常に意義深い期間だったと感じています。
具体的には、「ドメイン・シフト」として新たな事業領域への進出を積極的に進め、「グローバル・シフト」では海外市場での成長加速を図り、「サステナビリティ・シフト」では、ESG経営を推進し、持続可能な社会の実現に貢献することを目指しました。また、「デジタル・シフト」では、デジタル技術を活用し、お客様満足度の向上や、業務効率化を目指しました。
今回の中計は、ちょうど新型コロナウイルス感染症の影響が落ち着き始めた時期と重なりました。当初想定していた状況と、実際に起こった変化には差がありましたが、デジタル・シフトへの対応はしっかりと進めることができたと評価しています。数値目標についても、ほぼ当初の目標を達成できる見込みが立っており、3カ年計画としては十分満足できる結果を残せると考えています。
―― 象印マホービンは1918年の創業です。歴史ある企業が、ドメイン・シフトのように事業領域を拡大させるのは難しさも伴いそうですがいかがですか。
市川 当社は、社内外ともにやや保守的なイメージがあったと思います。私自身も100周年を迎える少し前までは、多角化には消極的でした。むしろ、それ以前に商品展開が広がりすぎて厳しくなった経験があったため、社長になってからは「選択と集中」を続けてきたんです。
ですから、事業領域を拡大させるのは勇気のいる決断でした。中でも象徴的なのは、2022年に電子レンジ市場において、オーブンレンジ「EVERINO (エブリノ)」をラインアップに追加したことです。新たな市場への参入は、社員は非常に好感を持って受け止めてくれたと考えています。
―― 電子レンジ事業に新規参入したのはどういう背景があったのでしょうか。
市川 当社は家電製品、特にキッチン家電のほとんどを手掛けてきましたが、台所周りの最後の大きなマーケットが電子レンジでした。本格参入自体は何年も前から検討しており悲願でしたが、生産面や技術的な面でなかなか実現できなかったんです。
ところが、18年に中国の白物家電メーカー・ギャランツ社と共同開発しようという話になりました。同社は世界一の電子レンジメーカーであり、象印ブランドを魅力に感じてくれていました。われわれも電子レンジに参入したかったこともあり、このご縁がきっかけで開発スピードやコスト面でも競争力を確保でき、一気に電子レンジ事業への参入を進めることができました。
電子レンジは大手寡占状態の市場ですが、そこに食い込むためには確かな商品開発力とコスト力が必要です。ギャランツとの共同開発という形で、一気に参入できたのは幸運でした。新しいことを始めるには常に準備が必要ですが、やはりそうした「きっかけ」がなければ、なかなか踏み出せないものだと改めて感じています。
―― 一方、発売から20年以上たつ加湿器の売り上げも好調です。
市川 加湿器というのは、各社がさまざまな工夫を凝らしていますが、結局手入れがしにくかったりフィルター交換が手間だったりします。
対して当社の加湿器は、例えるなら「お湯の出ない電気ポット」のようなものです。メンテナンスが非常に楽で、機能面も充実していると、長い年月をかけて認知されてきました。近年は、喉を大事にするミュージシャンの方々がSNSで紹介してくださるなど、たしかな使い心地の良さを背景に広まっていった商品です。発売から20年たった今でも、販売台数は右肩上がりで増え続けています。加湿器市場全体は縮小傾向にある中で、コロナ禍やインフルエンザの影響もあり、今や加湿器の販売台数が電気ポットを超えています。
原風景が背中を押した万博との再会から始まる挑戦

―― 新規市場への参入など、新たな挑戦を続けるために、組織の面でどんな工夫をしていますか。
市川 当社では、通常の製品企画や経営企画とは別に、社長直轄の部署として「新事業開発室」を立ち上げ、そこで新しい事業を模索させています。特にユニークなのは、製品開発に捉われない取り組みもしていることです。
―― 例えばどんなことをしているのでしょうか。
市川 現在、開催中の大阪・関西万博には、ORA(大阪外食産業協会)外食パビリオン『宴︱UTAGE︱』というものがあります。当社はそのパビリオンの中で、おにぎり専門店「ONIGIRI WOW!」を出店したり、万博内にマイボトル洗浄機を設置したりしています。こうした万博に関する企画も新事業開発室が中心となって進めてきました。
どうして象印が万博に? と感じる方もいるかもしれませんが、万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。いのちの根源である「食」と「水」に関わる企業としての思いや姿勢を未来に提示する機会と捉え、参画を決めました。また、製品開発だけでは決まった取引先としか関われませんし、社員も限られたルートでのみ活動することになります。しかし、例えば万博のような機会に携わることで、これまでお付き合いのなかった方々や企業との接点が生まれます。すると、社員自身の視野も広がり、それがまた次の新事業や新商品につながっていく。こういった考えから、万博への参画を決めました。
―― 万博も新たな挑戦へとつながってくるわけですね。
市川 加えて個人的な思いもあります。私が1970年の大阪万博に行ったのは小学校6年生の時で、合計16回も足を運びました。今回の万博開催が決まった時も、私一人で会社の中で「万博、何かやらなあかん!」と騒いでいたくらいです(笑)。
そんな時、ORAの中井貫二会長から「パビリオンをやるんだけど、象印さん何か一緒にやってくれないか」というお声がけを頂き、「ぜひやりましょう」と即答しました。
私は70年の大阪万博を見て、世界の広さに驚きました。当社としても小さなパビリオンを出展しており、万博を機に大きく成長することができました。それは当社だけではなく、関西の企業には万博をきっかけに成長した企業が非常に多いわけです。だからこそ、恩返しの意味も込めて万博に関わらなければならないという強い思いがありました。
万博のテーマであるサステナビリティや「いのち」という観点は、祖業である魔法瓶事業の知見を生かして「マイボトル」や「洗浄」の面から貢献できるのではと考えました。今年も暑い夏になりそうで、熱中症も命に関わるテーマです。そこで、万博に持参された水筒を洗浄する機械を開発テーマとして進めてきました。
万博を通じて象印マホービンをより多くの方に知っていただくのは大きな価値ですが、それ以上に、万博という場でわれわれも未来に向けたさまざまなトライをしていく、という側面が強いかもしれません。
継ぐ責任、託す覚悟 ブランドを守るという使命
―― 市川社長は創業家のご出身です。会社経営を継ぐにあたってプレッシャーや覚悟、苦難などはありましたか。
市川 私が社長になったのは42歳の時でした。「思っていたよりも早く社長になった」というのが正直な感想です。とはいえ、創業家という立場上、子どもの頃からいつかは自分が会社を経営していくものだという前提で育ちました。常にどこかでそういった思いを持ちながら仕事もしてきました。ですから、前社長である叔父から社長になれと言われた時には「今のタイミングですか?」と思った程度で、そんなに大きなプレッシャーはなく、喜んでやらせていただきました。
―― 実際に社長に就任してからも順調に進みましたか。
市川 社長になった当初は、社長が叔父から私に代わっただけで、周りの経営陣は一人も代わりませんでした。今思えば、これが大変だったかもしれません。当時の経営陣は、会長である叔父の方ばかりを見てしまい、社長の私を見ていないと感じることが多くあったからです。
ただ、そればかりはどうしようもありませんから、会長の許しを得て新たな役員を経営陣に加え、徐々に体制を刷新していきました。それが約15年前のことです。今の経営陣は私より年下がほとんどで、この15年間、苦楽を共に乗り越えてきたメンバーです。しかし、このメンバーもあと2、3年で退任になりますから、今度はその次の世代に引き継いでいかなければなりません。私がいなくても会社が回るように、次の世代の経営体制に今からシフトしていくことが、2030年までのスケジュールにも含まれています。
―― 次の世代に象印を継承していくにあたり、大事にされていることはありますか。
市川 当社の最大の財産は「ブランド」です。私は常に「象印ブランドをどれだけ大切にするか」ということを言っています。象印ブランドを高めることは良いこと。傷つけることは悪いこと。この認識を全員が持っていれば、企業の姿がブレることはないのです。
当社の象のマークは、1986年にCI(コーポレート・アイデンティティ)導入を行った際に、表から姿を消した時期がありました。当時、上場したばかりで当社の区分が電気製造業だったため、家電メーカーと比較されると技術力が低いように見られていました。そこで、技術力があることをアピールしたい、グローバルに見せたいという思いから、アルファベットの「ZOJIRUSHI」ロゴのみとし、最終的には、象のマークをガラス魔法瓶以外から外しました。しかし、その結果どうなったかというと、技術力が高まるわけではなく、親しみや信頼といった象印の良いところが失われてしまったのです。
私が社長になった時に、電気製品にも必ず象のマークを付けるように指示し、マークを戻しました。弱いところを強くしようとするのではなく、強いところをもっと際立たせるべきだと考えたからです。象印は家電メーカーではなく、家庭用品メーカーである。家電メーカーと同じことをしていては、規模やなんやで勝てない。家庭用品メーカーのトップブランドに仕上げるためには、この象のマークが絶対に必要だと。
そうして長く続けていたら、最近になって「アルファベットのロゴが古臭いから象のマークだけの方がいいんじゃないですか」と若い社員が言い出すようになり、驚きました(笑)。今は裏でもいいからロゴもちゃんとつけるように言っていますが、それだけ象のマークが社員にも浸透し、愛されている証拠だと感じています。
常に弱みを引き上げようとするのは難しい。とにかく強みを際立たせるというのも、私の考え方の一つです。
ブランドの大切さを次の世代に伝えていくことが、私の今のミッションだと考えています。この先、私がいなくなった後も社員には象印ブランドを大切にしてもらい、100年後、200年後も象印が世の中に残り続けることを願っています。

