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「自民党内野党」の憂国の士が本音で語る政治家としての志―野田聖子氏(元自民党総務会長 衆議院議員)×德川家広氏

盤石に見える安倍体制に、自民党内部から叛旗を翻したことで注目されたのが野田聖子議員だ。今秋の自民党総裁選に出馬を目論んだものの、現執行部の周到な推薦人の切り崩し工作に遭って断念。安倍総裁は「選挙なし」の再任となった。私が注目したのは、総裁選が幻と終わった後の朝日新聞のインタビューで語る野田さんの姿である。思った通りを語り、しかも言葉にユーモアがあった。生真面目な若手政治家ばかりの中で、これは重要である。今回は、「政治家・野田聖子」が誕生する前夜までの経緯を聞いてみた。

野田聖子氏の生い立ちと政界進出まで

ギネスブックに載った祖父・野田卯一氏

德川 お父さまの野田卯一(ういち)さんのご本『カーター外交の谺』には、お母様の光(みつ)さんがずっと病で伏せていたと書いてありました。思い出の中でのご両親は。

野田 私は養子として野田家に入ったので、両親といっても野田卯一と光の実の子どもではありません。実際には私の実父の両親、つまり祖父母にあたります。野田卯一というのは本当に忙しい人で、会えるのがお正月と終戦記念日くらいで、8月15日には小さい頃から靖国神社にいつも連れて行かれるくらいでした。祖母は私が物心ついた頃から寝たきりで、病弱でしたが、とても奇麗な人でした。

德川 養子に入った経緯は。

野田 祖母の光の実家は「島」というのですが、祖母の兄と祖父が一高東大の同級生で親友同士でした。そして祖母の兄が戦争で亡くなってしまいます。それで祖父と祖母が結婚する時に、最初は祖父・卯一が島家に養子に入る予定でしたが、祖父は頑固に「いやだ」と言って、結局島家が出した条件は、第1子を島家の養子にするというものでした。私の父、稔が第1子で、生まれてすぐに島家にもらわれていきましたが、祖父母には子どもがその後生まれず、父には私を含めて子どもが3人おりまして、私が野田家に養子に入ることになりました。私が22歳か23歳の時です。そういう複雑な家なんです。

德川 養子に入られたのは、政治家の跡目を継ぐためですか。

野田 いえ、もっと現実的な問題でした。祖母が亡くなって、祖父もかなりの高齢だったので、後がいないとお墓も何もダメになっちゃうというので、私が野田家のご先祖さまを守る仕事をもらったのだと思います。議席を継がなくてはならないなんていう、たいそうな家柄ではありませんでした。

德川 祖父・野田卯一さんのエピソードをお願い致します。

野田 祖父は日本政治史には名前を残しませんでしたけれど、ギネスブックには名前が載っているんですよ(笑)。私の父を生んだ後、祖母は産後の肥立ちが悪くて寝たきりになってしまいました。それで、出張や訪問をした先から祖父は長い手紙を書いては、祖母に送っていたんです。祖母もその手紙を大事に取っておいて、それが本にまとめられて『光への手紙』全25巻になったわけです。ギネスブックに載ったのは「世界で一番たくさん妻へ手紙を書いた男」という理由でした。

写真左、德川家広氏(政治評論家) 写真右、(のだ・せいこ)1960年福岡県北九州市生まれ。祖父は野田卯一氏(元大蔵省事務次官、専売公社総裁、元建設大臣・経済企画庁長官)。83年上智大学外国学部卒業後、帝国ホテルに入社。87年自民党公認で岐阜県議会議員に当時史上最年少で初当選。90年衆議院選挙初出馬・落選を経て、93年旧岐阜1区から衆議院議員初当選。現在8期。98年小渕内閣で、当時史上最年少(37歳)で郵政大臣として入閣。2005年「郵政選挙」後に自民党離党。06年自民党復党。その後国務大臣(消費者担当、食品安全担当、科学技術政策担当)、自民党総務会長を歴任。著書に『私は産みたい』(新潮社刊)『不器用』(朝日新聞社刊)、『この国で産むということ』(共著、ポプラ社刊)など多数。

写真左、德川家広氏(政治評論家)
写真右、(のだ・せいこ)1960年福岡県北九州市生まれ。祖父は野田卯一氏(元大蔵省事務次官、専売公社総裁、元建設大臣・経済企画庁長官)。83年上智大学外国学部卒業後、帝国ホテルに入社。87年自民党公認で岐阜県議会議員に当時史上最年少で初当選。90年衆議院選挙初出馬・落選を経て、93年旧岐阜1区から衆議院議員初当選。現在8期。98年小渕内閣で、当時史上最年少(37歳)で郵政大臣として入閣。2005年「郵政選挙」後に自民党離党。06年自民党復党。その後国務大臣(消費者担当、食品安全担当、科学技術政策担当)、自民党総務会長を歴任。著書に『私は産みたい』(新潮社刊)『不器用』(朝日新聞社刊)、『この国で産むということ』(共著、ポプラ社刊)など多数。

米国留学を経て17歳で大学生に

德川 アメリカへ留学されたということですが、どれくらいの期間ですか。

野田 高校の時に、1年足らずです。ミシガン州のジョーンズヴィルという、町というよりは村でしたね。当時はまさに、マクドナルドは来るわ、ケンタッキー・フライド・チキンは来るわ、みたいな「アメリカは素晴らしい」という時代の高校生だったわけですが、実際に渡米してみて等身大のアメリカ、それもど田舎に住んだのでギャップが大きかったですね。私が日本で勝手につくり上げていたイメージと全然違うアメリカ人が実際にいることが分かったのが、留学の最大の収穫でした(笑)。

德川 アメリカでの生活は楽しかったですか。

野田 今だから楽しく語れますが、当時はやっぱり嫌でしたね。私は私立の学校だったので幼稚園から英語をやっていたつもりだったのに、それが実は英語ではなかったことに気付かされました(笑)。発音が全然違っていたんです。最初は言葉コンプレックスがひどくて、とうとうその年のクリスマスにはホームシックになってしまいました。クリスマスにみんな集まって、私のことなんか気を使わずに英語でバリバリ喋るから、ぽっかり孤独でした。雪は降り積もって外には出られないし、楽しいことが何もなくて、本当にホームシック状態でした。

でも、その後何となく一皮剥けちゃったんですね。年が明けると、なぜかすらすら喋れるようになって。そうして生活にかなり慣れたところで、アメリカに残ろうと思っていたのですが、いろいろな理由から急遽帰国することになります。ところが帰国しても元の高校は学年が下がるので戻りたくない。既にピアスの穴も開けちゃったし、多分無理だろうと(笑)。幸いアメリカでは高校をちゃんと卒業していて、SATも受験しているから、アメリカ人としては大学入学資格があるので、日本の大学へ行けないか、となるわけです。

当時の日本でSATの資格で入れる大学は限られていて、ICUか早稲田の国際学部か上智の外国語学部くらいでした。母が奔走してくれたところ、上智の学部長さん、確か外国人の先生だったかと思いますが、こちらと意気投合したようで、「上智に決まったからね」と母から連絡がきました。それで17歳で大学生になれたわけです。

たまたま行った面接で帝国ホテルに入社

德川 どんな女子大生だったのでしょうか。

野田 当時は大学に入ってあまり勉強しなくても何とかなるという時代だったんですが、うちは3回授業を欠席すると「不可」になるし、試験もきつくて、なかなか単位が稼げない学部だったんです。しかも公用語が英語なので、1年間アメリカの高校にいたくらいでは、次元の高い専門用語が、なかなか分からなくて。だから、人生で一番勉強した時ですね。それから、競技スキーのクラブに入っていましたから、冬の間はずっとスキー場、合宿のない時はインストラクターのアルバイト。わりと硬派でしたね。華やかではなかったです。

德川 就職先は帝国ホテルを選ばれましたが、これはどういう経緯ですか。

野田 そこしか行けなかったんです。当時の日本航空には縁故採用があって、内定は取れていたんですが、それが駄目になりました。祖父が日航の社長と知り合いか何かで、入社試験を受けさせてもらって合格したのですが、その後羽田沖の日航機事故が起きたんです。それで日航が「自粛」ということで、地上職の採用をやめてしまったんです。この時「世の中は甘くない」と思い知りました。

それでいったんは「じゃあ、大学院に行こうかな」と考え直しました。取りあえず、大学最後の夏休みに思い出のために、母と妹とヨーロッパの旅に出掛けて、帰ってきた時には就職活動の3次募集くらいになっていました。周りにもまだ内定が決まっていない人たちがいたので、いろいろなところの面接に冷やかし半分に付き合っていたんですね。それで、たまたま友だちが「帝国ホテルを受ける」と言うので「あー、帝国ホテルだったら英語使えるよね」みたいな気持ちで、面接に行ってみたんです。

そこで運命の出会いがありました。当時の人事担当の小林哲也さん(現・帝国ホテル会長)が私を見て「ビビビ」と感じてくれたらしく(笑)、若干名採用のところを採っていただきました。でも、就職して間もなく野田家に養子に入ったので、みんなが怒っていましたね。「島で入社したのに、野田になったから面倒臭い」って(笑)。小林さんも「途中で名前を変えるな!」と(笑)。

祖父の後援会から強烈な後押し

德川 政治家になる決断は、どのように。

野田 帝国ホテルに勤めていた25歳の時に、私が「島聖子」から「野田聖子」になったと風の便りに聞いた祖父・野田卯一の後援会の人たちが「後継者ができた!」と勘違いしたんです。中選挙区時代は同じ自民党同士で戦うわけですから、後援会同士も騎馬戦みたいに熱くなるわけです。

祖父も大野伴睦さんとか、松野幸泰さんとか、すごく猛々しい人たちを相手に激しい選挙を繰り広げていました。本人はともかく、後援会の人々たちはお互いに喧嘩しているわけです。自分が応援している代議士が落選したら村八分になるわ、入札に参加できなくなるわ、昔はそういうことが露骨にできた時代でした。だから野田卯一を担いでいた人たちは、祖父が落選後に何の表明もなしにフェードアウトしたことを、すごく怒っていたわけです。

それで後援会の青年部――私に会った時はもう中年部(笑)のおじさんたちがいて、いきなり電話がかかってきたんです。でも岐阜弁で喋っているから、何を言っているか全然分からない(笑)。「お前のお祖父さんがどうのこうの」「お前が代わりにどうのこうの」「選挙がどうのこうの」と、断片的にしか聞き取れなくて。

そうしたら、その人たちが祖父にも父にも同じようなことを言ったらしいんです。要は「祖父のせいで、自分たちはずっと辛い目に遭ってきた。そのリベンジの時が来た。後継者ができたんだから、政治の道を歩ませろ。そうしないと一生野田家を許さない」みたいなことを言われて(笑)。私は何も意味が分からないなりに、還暦近いおじさんたちから岐阜弁で「おまはんしかおらん(お前しかいない)!」と言われたことは、若い自分には初めての経験で、ずしんときたんですね。

德川 岐阜に行って驚いたことは。

野田 まず、言葉が全く通じないことです。今でもそうですが、政治の世界は高齢者が多く、方言がキツいんです。地元の若者は政治に無関心で私のことなんか相手にしてくれなかったから、70代、80代の人を対象に岐阜弁を勉強することになりました。それで若者の集まりに行って仲良くしようとして岐阜弁を使うと「ばばあみたい」と言われて逆効果になることもしばしばでした(笑)。

岐阜県議から国会議員へのチャレンジ

德川 最初のチャレンジで当選されましたか。

野田 最初は岐阜県議会だったんですね。看板は「野田卯一の孫」「女性初」「20代」というものですが、それだけでは保守的な地域では受からないだろうということで、お祖父さんの古い名簿をもとに1日100軒歩きました。朝9時から夕方6時までに100軒回って名刺を置いてくるというノルマを自分に課して、つらかったですね。でも、あの経験があったから30年もったのかなと思っているんですけど。

德川 県議会は早くに辞めて、国政に転じた転機となったのは。

野田 霞が関の役人が、いかに地方を馬鹿にしているかを目の当たりにしたからです。県議として地元の市長さんに付き添って建設省(現国交省)に陳情に行った時のことです。市長は牧田さんという当時70歳くらいの元お寺の住職でした。書の達人で、とても尊敬できる人生の大先輩でした。それが建設省の担当の課に行って「岐阜市から来ました」と言うと、20代の兄ちゃんが顔も上げずに「そこへ置いておいて」と一言。そんな無礼なことされたのが初めてだったので、

本当にびっくりしちゃって、頭に血が上ってしまいました。今もまだひどいですが、当時も「2割自治」とか「3割自治」と言って、地方自治体は国にお伺いを立てないと自前では何もできませんでした。だから県議の立場では何もできないと悟りました。

德川 国政に出たいと言った時の周囲の反応は。

野田 「馬鹿か」と言われました(笑)。岐阜弁で言うと「たわけ」ですね。県議になって3年目の時に衆議院が解散になったので、まだ1期目も終わっていなかったんです。でも、地方がこれだけ「国の奴隷」になっているのが嫌だという私なりの「義」がありました。それから、女性の議員が少なかったことにも違和感を抱いていました。特に重要だったのが、当時の社会党の勢いでしたね。土井たか子さんがトップになって「山は動いた。自民党は消費税を上げちゃって、主婦を殺すぞ」と言っていました。多くの政治に関心のない女性の有権者が「これからは社会党よね」と言い出し始めた時代だったんです。そこで背中を押してくれたのが祖父・野田卯一でした。最初は反対だったんですが、もっとシビアな世界で磨かれなさいという親心だったと思います。皆が「たわけ」と言っている中で「チャレンジしろ、そうしないと人生が停滞する」と言って、老骨に鞭打っていっしょに有権者の元を回ってくれました。

德川 でも、落選してしまった。

野田 ボロ負けです。約5万5千票取れましたが、当時の当選ラインが10万票だから「泡沫候補」ですね。しかも共産党の候補者よりも少なかったですから、めちゃくちゃ格好悪い大惨敗です。やめてもよい状況だったんですが、ある日、応援してくれた人の1人が甲子園球場に連れて行ってくれて「5万5千人というのはこの甲子園を満席にする数なんだ」と私に向かって言ったんですね。

「これをいっぱいにするだけの人が見たことも聞いたこともない若い女に何かの気持ちを託してくれたんじゃないの? ここでやめるのは君の勝手だけれど、その人たちに礼を尽くしておかないと、その後の人生ずっと辛いんじゃない?」。これで火がついて「もう一度だけトライする、それでもダメならやめさせて」ということにしたんです。

当時は海部俊樹政権で、すぐに解散があると思われていたんですが、意外に長くもって、そのまま宮澤喜一政権になります。1年頑張ろうと思っていたのが、結局3年以上伸びちゃって。県議の時と同じく、朝9時から夕方6時まで戸別訪問です。中選挙区は4市6郡と広くて、そこを歩き回って、ついには疲労骨折で踵が割れました。

でも、私にはそれ以外に手立てがなかったんですね。3年かけて私が8万軒、父と母が1万軒ずつ回りきりました。結局、1993年の衆院総選挙では10万票ちょっとで当選しました。でも、せっかく通ったと思ったら、細川護煕内閣になって自民党が38年ぶりに下野して野党だったんですが(笑)。

野田聖子氏によるアベノミクスの評価は

德川 話は飛びますが、今年自民党の総裁選に出馬しようとなさった動機は。

野田 3年前に始まったアベノミクスの「中間考査」の時機が来たと思ったことです。去年12月「この道しかない」と言って衆院選挙で勝ったわけですが、経済環境が変わってきた中でいろいろと問題が出ているのに手直しもできていません。多くの国民が賛成だと思っていたら、今では支持率は5割を切っている。そういう中で、衆人環視の中でディベートができれば自民党の延命にもつながると思いました。自民党は多様な政党ですから、安倍さんの政策に賛成でない議員もいるわけで、ディスカッションをすることは国民にとってマイナスではないと、今でも思っています。

総裁選が実施されないことになった時の政権、執行部の言いぶりは安保法制がかかっていて、総裁選を楯に野党がサボタージュしたら、この大切な法案が通らないというものでした。でも、それもおかしいと思います。アメリカと緊密な関係を維持するのはもちろん大事ですけれど、日本経済がポシャった時に、アメリカが同盟国だから日本経済を助けてくれるかというと、その兆しはほとんど見えない。アメリカは同盟も重視しているけれど、日本経済が健全化することが同盟の基礎だと思っているのではないかと思います。

文=德川家広 写真=幸田 森

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