森喜朗氏は、マスコミによる異様なバッシングを受けた総理として印象に残っている。しかし、ひとたび総理の座を去った後は、各国の首脳との人間的なつながりを武器に外交で大きく貢献し、自民党の重鎮として存在感を発揮。そして今世紀最大級のプロジェクト、東京オリンピック・パラリンピックでは組織委員会会長という要職を務める。長らく第一線で活躍する持久力の秘密を探るべく、政治家になる以前からの話を聞いた。文=德川家広 写真=幸田 森
森喜朗氏プロフィール
森喜朗氏の生い立ちと少年時代
森喜朗氏が戦後教育に感じた違和感
德川 終戦を小学校の低学年で迎えられています。時代が大きく変わりましたが、その変化をどう受け止めましたか。
森 私は1937年の生まれですから、小学2年生、8歳で終戦を迎えました。その日を境に、教育も何もかもガラッと変わった。物心ついてから教わった規律とか規範というのは、戦前のものです。終戦まで僕らは、大きくなって陸軍大将になるとか海軍大将のほうがいいとか、乃木大将と山本五十六とどっちが偉いんだとか、そんなことを友達と話していた。海軍だと船が沈没するとそのまま死んじゃうから、やっぱり陸軍かな、親父も陸軍だし、なんて考えていました(笑)。
毎朝学校に行く時も、毎朝集落の子どもたちが集まる場所から、全員「前へ、進め」で、だっ、だっ、だっと行進が始まる。途中の神社の前では必ず「連隊、止まれ。八幡神社に対して敬礼」で全員が頭を下げる。お寺の前でも止まり、学校に着くと奉安殿の前で敬礼、最後に二宮金次郎にお辞儀して、それから授業に入る。それが戦争に負けた途端に、教科書に墨が塗られてしまいました。
森 人間には性格的に強い人も弱い人もいる。引っ張っていける人もいるし、引っ張られたほうがいいと感じる人もいる。だから誰かリーダーがいるんですよ。地域なら地域、学校なら学校で、それぞれリーダーがいる。それが戦後民主主義が始まり、平和、平等だけが強調されていくと、誰が級長で誰が生徒会長か、なかなか決まらない。戦前は先生が、勉強ができて、リーダーシップを持っていて、人からも好かれて、まとめ役に向いている生徒を級長に選んでいた。ところが戦後、選挙で選べというのにはものすごく違和感がありました。
それから、規律、規範として学んできたことが、みんな「駄目ですよ」となり、二宮金次郎の像まで壊された。神様や仏様を敬う気持ちはいっさい忘れろという感じでした。先生方も自信をなくしていました。戦争から帰って来た先生もいれば、最初から戦争に反対していた方たちも平和主義者として戻ってくる。その真ん中にいる子どもたちはどっちを向いていいか分からない。そんな時代でした。
森喜朗氏の政治家生活43年を支えた「滅私奉公」
德川 お父さまは地元の町長だったそうですが、どんな教育を受けましたか。
森 私が生まれる1週間前に盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まりました。親父は早稲田大学を出た後、役人をしていましたが、自ら志願して戦争に行ったため、物心がついた時には家にいなかった。金沢城の中の陸軍第7連隊本部に親父に会いに行ったこともありますが、終戦まで、ほとんど一緒に暮らしたことはなかった。そのためか、父親に対する憧れや尊敬は非常に強いものがある。同時に怖かった。よく叱られました。「お前は長男だろう、長男というのは何事も我慢しなければいけないんだ」とよく言われた。1つ上の姉と喧嘩しても、「お前が悪い」「俺は絶対に悪くない」とやり返しても、「お前は長男だ」と(笑)。
でも親父も大変だったと思います。私には姉と弟が1人ずついますが、3人を残して終戦の1年前に母ががんで亡くなりました。戦後、父が復員するのですが辛かったでしょうね。自分にはお国のために死ぬ覚悟がある。銃後は妻が守る。子どもたちもきちんと育ててくれる。そう思って戦争に行ったのに、自分は生きて帰り、妻が先に死んでしまった。この時、親父は自分が生きて帰った意味を考えたようです。
德川 復員したら奥さんはいない。小さな子どもが3人いる。苦労されたでしょうね。
森 よく覚えているのは、「お父さんはお前らのために帰ってきたんじゃない。多くの戦友、多くの部下を死なせた。その人たちのために日本を再建しなきゃならんし、この地域も再興させていかなくてはならん。そのために頑張るんだ」と言われたことです。親父はこの時、「滅私奉公」という言葉を使いました。この言葉は、今も私の座右の銘となっています。
滅私奉公とは、ラグビーでいう「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」の精神です。69年に初当選した時、のちに衆議院議長、坂田道太さんに揮毫をお願いしたところ、「人は先に、私は後に」お書きになった。「どういう意味ですか」と聞くと「そのままだよ。先憂後楽とも言う」と言われ、親父が言っていた滅私奉公だと気付きました。その時、「政治家というのは自分のことは後回しにして人のために、世のために尽くす仕事だ」ということを強く思ったものです。政治家生活はその後43年間続きますが、その精神がずっと私の背骨となっていました。
ラグビーではなく野球に夢中だった少年時代
德川 今ラグビーにちなんだ言葉が出ましたが、森さんと切っても切り離せないのがラグビーです。でも子どもの頃は野球少年だったそうですね。
森 親父が戦争に行っていた間、私の家の下駄箱の上に、ほこりをかぶった革製品が2つ置いてありました。1つは野球のグローブで、もう1つは空気が抜けてくしゃくしゃになったラグビーボール。でもラグビーなんて知らないから、子ども心に「これは何だろう、どうやって使うんだろう」と不思議に思っていました。ただ、亡くなった母に「これはお父さんが大切にしていたものだから、捨てたり乱暴に扱ったりしたら駄目だよ」と言われていて、触ることもできず、ずっとそのままでした。
德川 ラグビーボールがあったのにラグビーボールに触れずに育ったんですか。
森 ええ。それで戦後、子どもたちの間では野球がすごく盛んになりました。でも誰もグローブなど持っていない時代です。そこでみんなで、ズック鞄の裏側を剥いで、それを縫い合わせてグローブを、ビー玉に糸を巻いてボールをつくった。糸を巻いただけだから、打つと糸が切れ、ほどけながら飛んでいく。糸を引く打球とはまさにあのことでした(笑)。でも私の家には、町で唯一グローブがあった。それで何となくキャプテンをやるようになり、ピッチャーをやることも多かった。
そのうちに今度は親父が中古のミットをどこからか買ってきてくれたんです。親父もスポーツマンだったから、息子がスポーツに熱中しているのがうれしかったんでしょうね。ミットを持っていると、キャッチャーができる。これは楽しかったですね。キャッチャーは「センターはもっと右へ」「ショートはもっと2塁ベースよりへ」と指示ができる(笑)。ラグビーでいえばスタンドオフです。司令塔の役割が面白くて仕方がなかった。
ところがある日、近所の子どもが私のミットを持っていって返そうとしない。「俺のだから返せ」と言ったら、親父が来て「あの子にあげなさい」と言う。「あの子のお父さんは戦争で死んだ。お前の父親はここにいる。ミットはまた買うことができる。だからその子にあげなさい」。その時は「なんでだ」と思ったけれど、そのうち「なるほど」と思うようになりました。親父は自分だけ生きて帰ってきたことに対する何とも言えない気持ちがあったんでしょうね。
森喜朗氏の政治家人生のスタートと駆け出し時代
多士済々が集結した早稲田雄弁会の思い出
德川 野球小僧だった森少年は、その後、ラグビーに目覚め、ラグビー推薦で早稲田大学に進んだものの、体をこわしてラグビー部を退部、政治家の登竜門として名高い雄弁会に入ります。錚々たる人たちがおられたとか。
森 幹事長が西岡武夫。その下に、参議院のドンになる青木幹雄。私の下には小渕恵三や玉沢徳一郎など、のちに政治家として活躍した人がいくらでもいた。OBの石橋湛山が総理大臣になったのもこの時代でしたし、自民党にも社会党にも大勢いた。緒方竹虎、社会党の浅沼稲次郎、鈴木茂三郎も早稲田です。
やがて60年安保で世間が騒然としてきます。そうした中、大隈会館で雄弁会のOB会が開かれました。そこで石田博英さんが浅沼稲次郎さんと「ヌマさん、反米、反米で物事ができるはずはないだろう」「そりゃそうだよ、日本の再建復興はアメリカの協力なくしてあり得ない」なんて談笑している。そのくせ社会党の政治家は外では反米一筋。言っていることと、腹の中が違ってた。
これはおかしいと思って、六大学から人を集めて「社会党の研究をしよう」と呼び掛けました。社会党の議員を訪ね、話を聞くと、日米安保に賛成な人がけっこういた。その人たちが後に民社党を結成するのですが、「なるべくしてなる、別れるべくして別れる」と思いました。学生時代の印象深い出来事でした。
地方政治に献身した父親の薫陶を受けて、ラグビー少年となった森喜朗氏。だが、念願かなって入学を果たした早稲田大学では、ラグビー部に入ったものの、心労から胃を痛め、退部。その後、薦められて入った雄弁会で、社会党代議士たちの本音を調べるという、学生離れした行動を取り、後の社会党分裂、民社党誕生を予見した。異能の大学生は、代議士への野心を抱きつつ社会人となった。
無所属非公認で出馬しトップ当選
德川 早稲田大学卒業後は産経新聞社に入り、新聞記者として社会人生活をスタートさせます。
森 雄弁会で活動しているうちに自民党の先生方との関係もできました。その中に千葉三郎さんという非常に真面目で立派な先生がおられて、各大学の仲間と千葉先生にご指導を受けていたところ、「君らの悩みは何だ?」と聞いてくださった。そこでみんな口をそろえて、「就職ですよ」(笑)。「就職さえ決まれば、安心して政治活動をがんばれる」というのがみんなの気持ちでした。
そこで就職指導の会が行われて、千葉先生のところで各大学の4年生が一人ずつ、自分の進路希望を言うことになったのです。私はなんて言おうか悩みました。「国会議員になりたい」なんて言ったら親父が怒るだろうし、だからといって県会議員になったら、絶対に国会に出られない。石川県の人たちは、下から上がって行こうとすると足を引っ張るところがある。ですから地方議員から国会議員への転身はとても難しい。でも政治家を諦めることもできない。
どうしたものかと悩んでいた時に、「マスコミへ行こう」と思いついた。千葉先生は「サンケイの水野成夫社長に紹介しよう」と言ってくださって、産経新聞社に入社することになりました。
德川 新聞記者の後、政治家秘書を経て、1969年の総選挙に出馬、当選を果たします。この時は自民党の公認が取れずに無所属で戦ったにもかかわらず、岸信介元総理が応援に駆けつけたそうですね。
森 政治の世界の勉強をしようと新聞記者を辞め、縁あって岸先生直系の今松治郎代議士の秘書となりました。今松先生は、東条内閣の警保局長を務めた元内務官僚です。その先生が亡くなられた後、後継者として愛媛3区からの出馬要請があった。それなら郷里の石川でと、出馬を決意します。だけど自民党の公認はもらえない。金もなくなるし時間もない。誰もが私を泡沫候補だと思っていた。そこで公示直前、窮余の一策で岸先生に頼みました。先生は私の話をじぃっと聞いてくれて、ひと言「行きましょう」。まさか「OK」と言ってくれるとは思っていなかったから、ひっくり返るくらいびっくりした(笑)。
今松先生は岸先生に尽くし続けた人でした。60年安保で岸先生が総理を辞任、その後岸派が分裂した時も、岸派に残り支え続けた。そこで「今松君のところにいた森という男は、秘書としてよくやってくれていたと聞いている。今松君の霊のためにも応援してやろう」と思われたらしいです。
無所属候補のところには誰も応援演説に来ないだろうとみんな思っていた。そこに岸先生が来てくれて、「私は元総理大臣であり元自民党総裁でもある。それでも私が森君のところに来たということは、私と弟(佐藤栄作首相=当時)の間に阿吽の呼吸があるからだ」などと都合のいい私への推薦の弁を語ってくれた。これで私の支持が一気に盛り上がって、無所属非公認がトップ当選を果たすことができました。岸先生には本当に感謝しています。
德川 当選後は自民党に入り、福田派に所属します。
森 福田さんは私が生涯尊敬する政治家です。立派な方でした。ですから福田さんのようになりたいなと思ったけれども、性格的には全く違います。そこで私は冗談で、福田さんの物まねまでしたものです(笑)。できるだけ近づきたいと思っていました。
德川 福田内閣では官房副長官に抜擢されます。福田内閣の時、日中平和友好条約が締結されますが、内閣の内側からどうご覧になっていましたか。
森 私は台湾に対する思い入れがありました。日本は蒋介石の「以徳報怨」に助けられた。日本が戦争に負けた時、当時の中国を代表していたのが蒋介石で、彼がいたから日本はドイツや朝鮮のように分割されないですんだ。その蒋介石が生きておられる間に、北京(中華人民共和国)を取って台北(中華民国)を捨てることには反対でした。将来のことを考えれば、北京と握手し、中国と国交を結ばなくてはならないことは分かる。でもせめて蒋介石が生きている間は、私はやらないほうが良いという思いでした(日中国交回復は1972年。蒋介石は75年に死去、日中平和友好条約締結は78年)。
森喜朗氏が政治家として今考えること
首脳外交のコツとは何か
德川 蒋介石に直接会ったことはありますか。
森 当選した翌年、金丸信さんを団長に約30人で台湾を訪問した時にお目にかかりました。「この人が頑張ってくれたお陰で日本は救われた」と感動したのを覚えています。訪台前に外務省からは「日本語で声をかけては絶対に駄目だ」と注意されていたんですが、帰り際に蒋介石が玄関まで見送って、一人ずつ握手をしてくれた。一番最後が最年少の私だったのですが、蒋介石が「君、若いな」と日本語で話しかけてくれました。「いくつだ?」「はい、32歳になります」「しっかり頑張れよ」と会話したことは生涯忘れられません。それもあって蒋介石に対する感謝の気持ちは今でも強く持っています。
德川 森さんの首脳外交には定評があります。今の蒋介石とのやりとりの中にもその萌芽が見られます。個性の強い外国の首脳と付き合うコツは何ですか。
森 その人の懐に入ることです。私は語学ができませんが、通訳を介してでもかまわない。まずは相手を信じ、そのかわり自分も人間として信用してもらう。政治などの重要な話をする前に役人が書いた原稿ではなく、まず信頼関係を築いておく。そのためには、最初に一番疑問に思っていること、前から訊きたいと思っていることをずばり聞く。そうすることで胸襟を開くことができるんです。プーチン(露大統領)もそういうタイプの人だから、気が合うんですよ。
プーチンは私にこう言ったことがあります。「ヨシ、ロシアは自由と民主主義の国に変わった。アメリカや日本と同じ価値観を持つ国になったんだ。ハンガリーもルーマニアもチェコも全部解放した。彼らは全部EUに入ったが、それはよしとしよう、豊かになるためだから。でも何でNATOに入るんだ。NATOはアメリカとイギリスが作ったソ連包囲網の名残の軍事同盟だ。われわれが解放した国々がそこに入るのはおかしいだろう」。
だからこう言ってやりました。「確かにおかしい。その状況を覆すには、ハンガリーやルーマニア、チェコを説得してNATOを脱退させるか、それよりもあなたの国がEUに入ってヨーロッパの一員になる。そのどちらかでしょう」。このようにプーチンとは本音で話し合える関係を築いています。
森喜朗氏の東京五輪に向けた思いとは
德川 東京オリンピック・パラリンピックまであと4年となりました。組織委員会の会長として苦労も多いのではないですか。
森 組織委員会の会長になって分かりましたが、オリンピックを開くというのは大変なことです。先日の誕生日(7月14日)にもらったバースデーカードに「難しい連立方程式を見事に一つひとつ解答されていますね。感服致しました」と書いてありました。連立方程式というのはうまいことを言う。まさにそのとおりです。
組織委員会にはいま700人が働いていますが、最終的には5千人を超えると言われています。しかもほぼ全員が出向です。都庁が約4割、あとは他の自治体の人たち、それから民間企業やメディア関係から。さらに外務省や国交省などの役所からも人が来ている。14年に会長に就任してから、この人たちと心を一つにするのに2年半かかりました。
というのも、彼らの多くは「本国(出向元)」を向いている。それも当然で、オリンピックが終われば組織委員会は解体され、彼らはもとの職場へ帰っていく。組織委員会ができた2年前からオリンピックが終わるまで働くとすると、6年間も持ち場を離れていることになるため、居場所がなくなっている、あるいは同期が出世しているかもしれない。だからある程度勤めると、古巣に帰りたくなる。これが多くの職員の本音ではないでしょうか。その職員の気持ちも考えなければならない。
その人たちの心をひとつにするには、オリンピックという歴史的な国家プロジェクトにかかわったという人生が、何物にも替えがたい喜びだ、と思ってもらうよりほかにない。オリンピックに参加するというのは、アスリートだけではなく、その舞台をつくるのも一生に一度あるかどうか、というすごいこと。そこに生き甲斐と誇りを持ってくれれば、頑張ることができる。2年半たって、ようやくみんながそういう気持ちになってきたと思います。その気持ちをもっと鼓舞して、一つの荘厳な曲をつくる。そのため私は真に奉仕の精神で、コンダクターとして頑張りたい。
文=德川家広 写真=幸田 森
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