経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

はんこ廃止では解決しないデジタル化を阻む日本の特殊性

河野行政改革相が目指す「はんこ廃止」、は菅首相の重点施策である行政のデジタル化の第一歩だが、予想以上の反発を招いている。日本の生産性を上げるためにもデジタル化は不可欠だが、変化を嫌う人を納得させるのはむずかしい。企業にとって必須のDXについても同様だ。文=関 慎夫(『経済界』2021年1月号より加筆・転載)

行政と民間企業双方で遅れる日本のデジタル化

菅首相の肝いりでデジタル庁が創設された背景

 9月に発足した菅内閣の看板政策のひとつが、行政のデジタル化だ。

 安倍前内閣はコロナ禍を受けて、全国民に一律10万円の特別定額給付金を支給したが、その際、申請してから給付するまでには長い時間が必要だった。その理由は、不正を防ぐための申請書と住民台帳の照合を手作業でやらざるを得なかったためだった。

 海外でも現金給付に踏み切った国は多いが、そのほとんどが短期間のうちに支給されている。日本がデジタル後進国であることが明らかになった瞬間だった。

 菅内閣は、それを改善するために新たにデジタル担当大臣を任命し、デジタル庁創設に舵を切った。

 10月26日に行った所信表明演説でも菅首相は「各省庁や自治体の縦割りを打破し、行政のデジタル化を進める」「保険証とマイナンバーカードの一体化を始め、運転免許証のデジタル化も進める」「改革を強力に実行していく司令塔となるデジタル庁を設立」と語っている。

 とはいえ、その道のりはそう簡単ではないだろう。例えば、河野行政改革相が就任早々「正当な理由がない行政手続きについては、『はんこをやめろ』ということを押し通そうと思う」と言ったとたん、「はんこ議連(日本の印章制度・文化を守る議員連盟)」から反発される始末だ。

 何しろ国会議員に対する取材申し込みなどはいまだにメールではなくファクスが使われている。これにはセキュリティ上の問題もあるだろうが、社会全体では10年ほど前には60%近かったファクシミリの世帯保有率が、2019年には33・1%にまで下がるなど、ファクス離れが進んでいる(総務省「通信利用動向調査」)のだから、その乖離は大きい。

 しかしデジタル化が遅れているのは行政や国会だけではない。菅首相の所信表明演説で「行政サービスや民間におけるデジタル化の遅れ」と語っていたように、民間企業においても世界に後れを取っていることを、コロナ禍は明らかにした。

デジタル化
世界に比べて遅れを取る日本のデジタル化

民間企業がはんこを廃止しなかった理由

 その象徴とも言えるのが、緊急事態宣言で多くの企業がテレワークに移行する中、はんこを押すためだけに出勤する経理部などのサラリーマンの姿だった。

 コロナが流行するはるかに前から、印鑑は決済に不可欠なものではなくなっている。印鑑不要の会計ソフトはいくらでもある。

 しかし大半の企業は、印鑑を廃止しようとしなかった。その理由は「電子化することで業務が遅くなる」「印鑑を押すことで責任感が芽生える」などが挙げられるが、本音は、「今までこれでうまくやってきたのだから、わざわざ変えることはない」という現状維持の姿勢によるものだ。

デジタル化に対する最大の抵抗勢力とは

 これは印鑑に限った話ではない。5年ほど前から、日本ではIoT、AI、RPAといった言葉が一種のブームとなった。人口減少時代を迎えた日本が成長を続けるためには生産性を上げることが不可欠。そのためのツールとしてもてはやされた。しかし導入するのは先進的な大企業にかぎられ、中堅以下の会社までにはあまり広がってこなかった。

 新しいITツールが導入と同時に実力を発揮することはむしろ珍しい。システムそのものの不具合や、利用する側の不慣れなどの問題が出てくる。

 それもあり、「現場が一番の抵抗勢力になっている」と語るのはとクラウド型財務経理システムを提供するブラックラインの古濱淑子社長。ある会社で、財務部がブラックラインの導入を提案したところ、経営トップからは、「なぜもっと早く提案しなかったのか」と言われたという。

 つまり社内の多くの人が財務経理のデジタル化の必要性を感じていたのに、担当部署はなかなか踏み切れなかったというのだ。しかし導入すれば、業務効率は格段に改善する。

 ブラックラインを導入したある企業では、月に175件あった押印がゼロになり、年間3万枚の紙が削減されたという。また、ブラックラインなどの経理の自動化システムを導入することで、生産性は3倍上がるという調査結果もある。

 このように、業務のデジタル化が生産性向上につながるのは明らかだが、前述したような現場の抵抗やコストの問題などもあり、日本ではなかなか進まなかったのが現状だった。

コロナで加速した日本のデジタル化の行方

決算期にコロナで経理部門は大混乱

 そこに新型コロナウイルスが襲ってきた。日本では2月から患者が増え始め、3月になるとテレワークに移行する企業が増え、4月の緊急事態宣言で人の動きが止まった。

 これに慌てたのは企業の経理部門だ。3月期決算企業が多い日本では、4月末から5月半ばころまでに決算発表が集中する。

 しかし、テレワークではすべての業務ができないことも多く、海外子会社がある場合は、営業停止や外出規制でデータ収集できないケースもあった。また上場企業の場合、決算を発表するには監査法人の監査を受けなければならないが、テレワークではコミュニケーションがとりづらいなどの影響も出た。

 その結果、日本CFO協会が会員企業を対象に行ったアンケート調査によると、55%の企業で決済業務が遅延し、中でも売上高5千億円以上の企業では74%が、海外売上高比率50%以上の企業の76%が遅延したという。

 デジタル化の遅れも遅延の要因のひとつだ。最近のデジタル会計ツールには、勘定照合プロセスの標準化・自動化がされており、当然のことながら、テレワークにも対応している。こうしたツールを活用すれば、通勤しなくても、会社にいるのと同様の経理作業が可能だ。そのため、コロナ禍をきっかけとして、導入に踏み切る企業が増えている。前出のブラックラインへの引き合いも増えているという。

 日本CFO協会の谷口宏常務理事によると「企業のデジタル化については今までにもいろんな形で提言してきたが、関心は非常に強まっています。今ならデジタル投資の予算も通りやすいこともあり、コロナをきっかけに導入に踏み切るところが増えているようです」。

 以上は経理財務部門の話だが、これは他部門でも同様で、多くの企業が経営の重点項目にデジタル・トランスフォーメーション(DX)を取り上げるようになった。DXの重要性については、多くの経営者が認識はしていた。しかし一向に進まなかった。

DXを生かすも殺すも経営者の覚悟次第

 世界デジタル競争力ランキングからもそれは明らかで、日本はOECD加盟国37カ国中18位と低迷している。また日本の労働生産性は37カ国中、21位とさらに低い。

 『DXの真髄』(日経BP)の著書もある、アビームコンサルティングの安部慶喜執行役員プリンシパルはこう語る。

 「日本企業は、AI、IoT、ビッグデータなどへの対応の動きは早かった。高度な技術力、知識力、情報収集力、資金力も十分にある。DXに対する素地は、欧米と遜色がない」という。にもかかわらず、日本はDXで出遅れてしまった。その理由は「高度経済成長期の経験もあって現場の継続性を重視し、業務量の増加には人を導入することでしのいできた。そのやり方が変えられなかった」

 過去の成功体験が改革の邪魔をするというのはよく聞く話だ。しかしその経験則をコロナが吹き飛ばした。

 危機を乗り切るためには、会社の抜本的変革が不可欠だ。安部氏はDXを成功に導くには①トップが号令を出し、組織・制度・ルールも含めた改革に取り組む②抜本的な改革の成功体験を積み重ねる③「デジタルを活用する」だけではなく「企業文化を変える」??ことが必要だという。

 つまりデジタルツールを導入するだけでなく、仕事のやり方をゼロベースで見直していくことが必要で、そのためには、トップが率先して改革に取り組む必要があるというのだ。

 安部氏はまた、「DXの本質はDではなくXにある」という。Dは単なるツールにすぎない。Dを使っていかにXを起こすか。トランスフォーメーションを主導できるのはトップだけだ。

 コロナ禍により日本のDXは10年分進んだともいわれている。コロナ禍を奇貨として日本企業が力強さを取り戻せるかは、経営トップの覚悟にかかっている。