経営者コミュニティ「経済界倶楽部」

43回目を迎える映画祭 日本の自主映画は面白い!

荒木啓子

インタビュー

ヨーロッパでは社会的地位も名誉もある職種ながら、日本ではなじみが薄い映画祭ディレクターという仕事をしているのは、「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の総合ディレクターである荒木啓子さんだ。ぴあの矢内廣社長ら創業メンバーが1977年にスタートしたPFFは、これまで多くの気鋭映画監督を輩出してきた。聞き手=ライター/武井保之 Photo=山内信也(『経済界』2021年10月号より加筆・転載)

荒木啓子・ぴあフィルムフェスティバル ディレクタープロフィール

荒木啓子
(あらき・けいこ)雑誌編集、イベント企画、映画&映像の製作・宣伝等を経て、1990年にPFFに参画。92年、PFF初の総合ディレクターに就任。以降、日本の若い才能を世界に紹介することを目的に、PFFアワード、PFFスカラシップ作品の海外映画祭出品を積極的に推進する。2016年にはPFF、ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭の共同企画による長編映画の世界巡回プロジェクトを実現。

海外とは異なる映画祭の位置づけ

―― 日本ではあまりなじみがありませんが、映画祭ディレクターという仕事について教えてください。

荒木 映画には商業映画と芸術映画のふたつのジャンルがあり、1930年代に後者の牙城であるヨーロッパで映画祭は生まれました。もともとは、ごく限られた映画を作る人が集まって、彼らの理想を語り合う場所だったんです。

 映画祭はその後、戦後に勢いを増してきた商業映画の中心地であるアメリカ・ハリウッドに対抗して、芸術映画の振興と発展を掲げますが、次第に映画は巨大ビジネスとして世界中で認知されていきます。すると、マーケット部門が発展し、世界初上映となる「プレミア上映作品」や、審査員がグランプリを選出する「コンペティション部門」の出品作の争奪合戦が繰り広げられるようになる。その結果、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの世界三大映画祭は毎年何十万人もの観客を集めるスーパーイベントになりました。

 ヨーロッパは国をあげて映画を支援していることもあって、多種多彩な映画祭が各地にあり、国民の間に映画文化が根付いています。日常のなかにある映画祭は、ひとつの就職先であり、街の小さな映画祭の出品作を選定するプログラミング・ディレクターから、大きな国際映画祭のディレクターへと登っていく出世コースがあるのです。

―― 社会的地位が日本とは違うんですね。

荒木 友人がパリのパン屋で女性店員と世間話をしていて、「映画の仕事で日本から来た」と伝えたそうです。すると、店員は「三島由紀夫原作の映画が好き」と、他の店員も一緒にディープな映画の話題で盛り上がった。でも彼ら映画のマニアでも何でもない。それくらい映画が人々の生活と密接している環境なんです。

 映画祭の頂点という感じの世界三大映画祭のディレクターともなると大企業の社長みたいなもので、作品選びの旅は、移動の飛行機も滞在するホテルも最高級クラスです。世界各国の映画祭への参加は招待が当たり前で、その収入も、カンヌは大臣クラス、ベルリンは市長より高所得と噂されています。日本とは全く違いますね。

邦画や自主映画は日本独自の魅力的な文化

―― では、総合ディレクターの具体的な仕事はどのようなものですか。

荒木 その映画祭はどうあるべきか、哲学をつくり、ベストとなる理想型を考え、それを実現するために必要なことをすべてするのが仕事です。例えば上映プログラムの選定、パンフレットなどの制作物の企画・制作から、宣伝、現場の進行まで。協賛が集まる映画祭にすることも仕事のひとつです。

―― 1977年にスタートしたPFFは、今年で43回目を迎えました。その歴史のなかでは森田芳光や石井岳龍(聰亙)、黒沢清、中島哲也、園子温、成島出といった気鋭監督を輩出し、PFFアワードは世界最大の自主映画コンペティションに成長しています。日本の自主映画の面白さはどこにあると考えていますか。

荒木 私はもともと洋楽にのめり込んでいたのですが、次第に映画の仕事にかかわるようになり、邦画やアジア映画、自主映画をたくさん観るようになりました。その過程で、邦画や自主映画は日本の強力なオリジナル文化だと感じるようになりました。

 90年代の日本の映画は本当に自由で何でもあり。欧米ではタブーとされる表現や工夫にあふれていて、世界に衝撃を与えていました。「自分だったらもっと面白い映画を作れる」という多くの元・現・自主映画監督たちがしのぎを削っていて、何が出てくるか分からない魅力があったんです。

 それでその日本映画を海外の映画祭に積極的に出品し、世界に広げていきたい、日本の映画監督が世界的に活躍できるようにしたいと考えるようになりました。

荒木啓子

民間企業主体で43年続く映画祭は稀

―― 日本映画を海外の映画祭に出品するために、どのようなことを行っていますか。

荒木 映画祭などで知り合った人にこつこつと地道に映画を観せていくことです。20世紀は日本映画を知る人が世界には少なく、イギリスのトニー・レインズという批評家が重要な存在でした。彼は膨大な数の東アジア映画を観ていて、70年代から日本へ実費で来てはあらゆる映画を観て、発信していました。

 一方、映画祭にはディレクターや上映作品を選定するプログラマーが世界中から集まりますから、「PFFには日本のおもしろい映画が集まる」と知られるようになれば、あとはおのずとコンタクトが増えます。1回走り始めると早いんです。同時に日本の監督たちに、世界中に観客がいることを実感してもらおうという意欲も高まりました。

―― PFFは、アマチュアからプロへの道となる、映画監督の登竜門として日本では広く認知されています。そこに至るまでには困難なことも多かったのではないでしょうか。

荒木 苦難とか苦労を全く感じないんです。何をやるにも新しいことをはじめるのは難しいですよね。

―― 映画祭に携わるようになってから数年でPFFの初代総合ディレクターに就任されました。当初、国内外の人脈構築は意欲的に行われたのですか。

荒木 実は、ものすごく人見知りで人と会うのが苦手なんです(笑)。がんばってネットワークを広げようと考えたことはありません。映画がよければ人が集まってきます。ただそのなかで、すごくいい映画なのに気づいてもらえないときに何をすべきかというのはいつも悩みます。

 映画祭はわれわれの力ではなく、映画の力で成り立っています。毎年新しい自主映画の監督が現れ、その中から後に有名になった監督もたくさんいますが、われわれは学校ではないので「出身」という言葉は使いません。PFFは常に変わらず、映画をベストの状態で上映し続けることが、この仕事を続けるうえで守るべきものと考えています。

―― PFFはこれまでに何回か存続の危機があったそうですね。

荒木 21世紀になってから世界的に映画祭が増え、アジアでも財閥系の民間企業などが立ち上げたこともありましたが、ほとんどが数年で消えていきました。映画祭はあまりにも費用や手間がかかって収益がないんです。PFFはぴあが始めた映画祭ですが、このように民間企業が主体となって43回も続いている映画祭は世界で唯一かもしれません。

 存続の危機は常にあります。しかし、なんらかの形で続けていきたいという思い、ぴあの矢内廣社長らのバックアップでここまで来ました。やろうと思ったらやるしかない。今は60社を超える企業や団体に支えられています。

―― 荒木さんが「何らかの形で続けていきたい」と考える理由は何ですか。

荒木 自主映画のように、先のあてのないことをやっている人たちは、本当につらいと思います。でも、ある日、何かのきっかけがあるかもしれない。発見されるきっかけをPFFで作れるかもしれない。日本は文化芸術に対する理解のない国であり、映画を作りましょうと言っても、その先に映画の仕事で生活していく未来は描きにくい状況です。でも何かを作る人たちに陽を当てたいし、彼らが報われる世の中にしたいです。

ぴあフィルムフェスティバル
43回目を迎える「ぴあフィルムフェスティバル」

スマホで撮った映画が増え映像はプロレベルの作品も

―― 過去と比べて、近年の応募作に変化はありますか。

荒木 内容自体はそんなに変わっていません。ただ、フィルムからデジタルになり、スマホでの撮影も増えています。録音や音響の技術レベルはまだまだですが、映像はプロと比べて遜色のない素晴らしい作品も増えていますし、プロの俳優が出演していることが多いのも昔とは違いますね。

 一昔前の自主映画と言えば、監督の友人や同級生、親族が出演しているのが当たり前でしたが、昨今は出演者オーディションを行う作品も多く、芸能事務所が若手俳優を送ることもあるようです。いくつもの自主映画に出演する〝自主映画界のスター〟と呼ばれる人気俳優もいます。

 特徴的なのはジャンルの広がりです。アニメーションやドキュメンタリー、既存の表現形式にこだわらない実験的な映画やコテコテのドラマなどさまざまあります。

―― 「映画とはなにか?」という問いが21世紀最大の課題ではないですか。

荒木 それを考えて映画を撮らないといけないのが現代のつらいところですね。私は、制作者が「これは映画だ」と考えて作っていれば、それは映画であると思っています。

 PFFへの応募作品数は、最盛期の700本以上から近年は400本台に減っています。しかし、最近は作品を世に送り出すための手段が増えています。映画祭の数も多く、応募もインターネットで簡単にできるので海外の映画祭にいきなり挑戦したっていい。YouTubeなどでも発信できる。昔とは劇的に環境が変わっています。

 そういう意味では門戸は開かれているんです。そこでPFFがどんな映画祭であるかは常に考えなければならない課題だと思っています。

―― 毎年500作品近い自主映画の応募があり、3カ月で十数作品の入選を決めるのは、どのような審査をされているのでしょうか。

荒木 入選作品を選ぶセレクションメンバーは16人います。まず1作品を3人で観ます。その後、他のメンバーも見守るなか、2次審査へ進める作品を選ぶための議論を行います。その議論を聞いたほかの審査員が作品を観たいと思えば通過しますし、また、3人のなかで作品を強く推す人がいればそれも通ります。強い推薦、説得が大事です。

 そうして1次通過が決まると、2次審査は全員で通過作品を観て、会議をして選考します。その間、「あの作品は1次で落選してしまったけど、やっぱり良かったな」と思い出すような作品が出てくれば、私に申請してくれれば、その理由を聞き、映画を観て判断します。

映画祭は映画の力で成立する

―― 点数制にはしないでしょうか。

荒木 点数制は取り入れません。映画に点数をつけることを怖いと思わない人がかかわってはいけないと思っています。

 全員の合議で入選作品を選ぶ方式を長く続けてきましたけど、いつも最終の選考が紛糾して、なかなか決まりません。泣き出す人まで出たりして。なので、全員の意見を丁寧に聞いたうえで、入選作品のラインナップは私が決めるという方式に10年ほど前から変えました。

―― 荒木さんが入選作品を選ぶ際の基準や優先順位を教えてください。

荒木 16人が何百時間もかけて作品を観て、1次審査では丸1日、話し合っています。そして2次審査では2日間、審査員が徹底的に議論します。私はそれを受け止めて、納得できる作品を選びます。各人が強く推した作品はできるだけ残す。私は彼らに説得されるためにいるんです。

 あと、バランスもあります。PFFには新しい才能の発見と育成というテーマがあるので、「これは新しい才能」と言えるかを大事に、いろいろな才能がいることを示せるような作品を残すようにしています。

 映画祭は映画の仕事に携わる人だけのためにあるわけではありません。今年は9月11~25日に、東京・京橋にある国立映画アーカイブでPFFを開催します。普通の映画館のようにチケットを買えば観れますので、ぜひ皆さんにも来てほしいです。

 自主映画は、ある程度知識のある人でないと観ても分からないと思われているかもしれませんが、そんなことは全くありません。実際に観ると、エンタテイメント性の高い作品や、なんかよく分からないけどすごいと感じていただける作品など、いろいろあります。自主映画が集い、日本の頂点を競い合うPFFは、誰もが新鮮な気持ちになれて、世の中捨てたもんじゃないという気分になれる場所です。入選作品の監督たちは未来への希望とエネルギーにあふれていて、彼らと一緒にいるだけでわくわくドキドキします。