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築地玉寿司4代目社長が危機真っ只中の事業承継から学んだこと

江戸前寿司の草分け的存在として、今年で創業98年を迎えた築地玉寿司。伝統ある店の暖簾を現在受け継ぐのが、4代目社長の中野里陽平氏だ。会社がどん底の時期に社長業を引き継ぎ、苦難の中で老舗企業を復活させたその歩みには、事業承継の本質を探るヒントがふんだんに詰まっている。(取材・文=吉田浩)

中野里陽平・玉寿司社長プロフィール

中野里陽平・玉寿司社長
(なかのり・ようへい)1972年生まれ、東京都出身。学習院大学法学部卒業後、96年米デンバー大学ホテル・レストラン&ツーリズムマネジメントコースに留学。99年玉寿司に入社し、新店舗のプロデュースなどを手掛ける。2005年代表取締役社長に就任。

チーム力を高める経営スタイル

 来店客に渡す手書きメッセージの付きの「もじにぎり」カード。次回来店時にドリンクや手巻き寿司などのサービス券として使用できるもので、そこには従業員からの感謝の気持ちが様々な表現で記されている。1年ほど前に始めた試みだが、築地玉寿司のグループ店舗全体で既に約7万枚を配った。社内のLINEグループには、リピート客から戻ってきたカードの写真と共に喜びの報告が頻繁に届く。その画面を見ながら、中野里陽平社長は嬉しそうに話す。

 「ただのクーポン券では意味がありません。従業員がいろいろと考えて書いたカードがお客様から戻ってきて喜びを共有することでスタッフ同士の絆が強まります。また、気持ちを込めて書いたものはお客さまも笑顔で戻していただけるという発見もありました」

 新型コロナ禍で減った客数をリピート率向上で補う施策の1つではあるが、従業員同士のつながり、そして客と店とのつながりを重視する姿勢がそこには表れている。1枚1枚手書きカードを作成する負担は決して小さくない。だが、配ったカードが戻ってくる感動を通じて「従業員に楽しく働いてほしい」という気持ちがそこにはある。

 このように従業員との一体感を醸成し、チームの士気を高めるリーダーシップを採る陽平氏だが、社長就任当初は「ワンマンだった」と振り返る。理由は、当時置かれていた会社の状況だった。

築地玉寿司のもじにぎりカード
従業員が手書きで作成したもじにぎりカード

入社直後に新店舗プロジェクトを任される

 1999年、米国留学を終えて後継者候補として玉寿司に入社した陽平氏が最初に手掛けた仕事は、それまでの江戸前寿司にはなかった新たなコンセプトの店舗運営だった。父親で3代目社長の中野里孝正氏の肝いりで進んでいたプロジェクトだ。

 孝正氏はアイデアマンとして、寿司を庶民の食べ物として定着させた功労者である。明朗会計の導入や、ソフトクリームのような形状の「末広手巻」を考案するなどして、若者や女性に敷居の高かった寿司を身近な存在にした実績がある。多店舗展開も含めて、高度成長期から90年代にかけて玉寿司を大きく躍進させたのは、紛れもなくその企画力と実行力だった。

 だが、この時の新店舗については、明らかに準備不足のように陽平氏の目には映った。当時多忙を極めていた孝正氏はあまり現場とのコミュニケーションが取れず、強い思い入れが先走っているようだったと陽平氏は振り返る。その状況を象徴するこんなエピソードがある。

 「新店舗は『太老樹(たろうき)』という名前だったのですが、ウチは老舗なので『毎年新しい緑の葉を付ける老樹でありたい』という願いがネーミングの由来だと周囲には説明していました。でも本当は、先代がイタリアに行ったときにハマったタロットカード(tarocci:タロッキ)から思いついたものなんです(笑)。当初はタロットカードを店内中に貼る計画で、さすがに寿司屋でそれはどうかと。そこで親父にカードだけは使わないでくれと言ったらすごく寂しそうで、その後、本人がもの凄い達筆で『太老樹』と書いた紙を私に見せて『これならどうだ』と。なので、そこは妥協して採用することにしました」

 店名では譲らなかったものの、その後孝正氏は何も口出しすることなく、新店舗を息子に任せた。とはいえ、入社したばかりの27歳の若者にとって新店舗のプロデュースはハードルが高い。創作と伝統の寿司を融合した店にするコンセプトは出来たものの、メニューや従業員のユニフォームについて従業員から不満が出るなど、オープンまで混乱は続いた。

 「実績を作って、社内のみんなから承認をもらいたい気持ちが凄くありましたね。でも満席だったのはオープン後の3日間だけで、その後しばらくは赤字。何とかしようと現場に毎日顔を出してスタッフ教育をしたり、お客様にも来店の動機や希望のメニューなどを質問したり、自分でメニューのポスター手作りしたり必死でやりました。そうこうしているうちに、築地の老舗が風変わりなことを始めたと面白がって取り上げてくれるメディアが増えたんです。それが呼び水になって、半年後には行列ができる繁盛店になっていました」

築地玉寿司 晴海通り店
人気店となった大老樹は、現在「築地玉寿司 晴海通り店」に店名変更している

 太老樹を成功させた陽平氏は、その後もいくつかの店舗プロデュースを手掛け、いずれも売り上げアップに貢献していく。入社当初は何となく社内で疎外感を感じていたが、懸命な姿勢と結果を残したことによって、次第に協力的な雰囲気へと変わっていった。

 短期間で店舗運営のノウハウを学べたのは、孝正氏の後継者教育だったとも想像できるが、本当のところは分からないと陽平氏は言う。

 「ただ、結果的には良かったと思います。その頃はニューヨークのかっこいい寿司屋が大人気なのを見たりしていたので、築地の寿司屋を正直ダサいと思っていました。でも、それは自分が『玉寿司らしさ』を理解していなかったから。もし今なら、築地で創作寿司の店はやらなかったかもしれません。そんなふうに若造が夢中でやっている部分も含めて、任せきってくれたのはありがたかったです」

経営危機真っただ中の事業承継

 次期社長候補として店舗運営のノウハウを短期間で学んだ陽平氏だったが、もう1つトップに必要な財務の知識もこの時期に集中して学んだ、というより学ばざるを得なかったというほうが正しい。

 大老樹のプロジェクトを進めていたある時、担当者が明かした財務状況を見て陽平氏は大きなショックを受ける。店舗全体の売り上げが50億円ほどだったのに対して、約75億円もの負債を抱えていたのだ。バブル期に銀行から勧められるままに手を出した不動産融資が原因だった。

 「新店舗を任される前にその数字を見せられていたら、多分やめようと言ったと思います。もし店が繁盛しなかったら、会社が危機に陥る最後のトリガーを引いてしまうんじゃないかと。プレッシャーのせいで最終的に体重が7キロも落ちました」

 陽平氏が孝正氏から社長のバトンを受け取ったのは、多額の債務返済が待ったなしとなったまさにそのタイミングだった。会社の私的整理にあたり、債権者である金融機関との調整役となる中小企業再生支援協議会から出された条件に、孝正氏の社長退任が含まれていたからだ。孝正氏はその条件や個人資産の処分などを飲む代わりに、次期社長を陽平氏にすることだけは譲らなかった。火中の栗を拾うことになった陽平氏も使命感に闘志をたぎらせた。

 こうして予期せぬタイミングで訪れた事業承継だったが、陽平氏は債権者の説得、事業再構築計画の作成など、会社再建に駆けずり回った。その過程で、コストカットのための仕入れ改革で長年付き合いのあった業者と断交したり、物件所有者の都合で人気店の撤退を余儀なくされたりと、シビアな現実にも直面した。社長就任直後にこうした修羅場をいくつも経験したことが、後の陽平氏の経営者スタンスに大きく影響していく。

 「一番教訓になったのは、バランスシートが崩れた瞬間に企業はおかしくなるし、一定の自己資本比率を維持しながら進むのが永続企業になるためには大事だということです。昔は業績が右肩上がりであれば借り入れは信用の証という考え方がありましたが、自分の感覚は違います。それは、いくら稼いでも利子返済にお金が飛んでいく財務状況を目の当たりにしたからですね」

 「一番の問題は多額の債務を作ってしまったことで責任は経営者にある」と認めながらも、無責任に融資を押し付けてきた金融機関には複雑な思いもあると語る。

 「今は経営再建したので、かつて債権者だった銀行がまたいろいろと投資の話を持ち掛けてくることがあるんですよ(笑)。でも、私の中では債務返済の経験はトラウマなので、土地購入うんぬんの話はやめてくださいと担当者にはお願いしています」

 社長就任直後の危機を経験していなければ、今になって資産運用の話に乗って失敗していたかもしれない。想像の域を出ない話ではあるが、結果として堅実経営に重心が傾き、その後は業績を着実に伸ばしてきたのは確固たる事実だ。

先代社長とは異なるリーダーシップ

 アイデアマンで人が良くたまに先走ってしまうこともある先代と、挑戦心はあれども周囲の意見を聞いて慎重に物事を進める陽平氏では、対照的な経営スタンスと言える。歴代社長のリーダーシップについてを陽平氏はこう説明する。

 「攻めと守りが交互に来ている感じですね。祖父は創業者なので攻めの人、2代目の祖母は戦後の焼け野原から店を再建させた守りの人、3代目は攻めすぎて大きな負債も作ってしまいましたが、寿司を庶民の食べ物として定着させグループを拡大させた功績は大きい。そして4代目の私は守りの人だと思います。財務体質を整えて、気付いたら売り上げが32億円から47億円くらいになりましたが、絶対に質が伴わない拡大はしないと決めています。気付いたら無借金経営になっていましたし、コロナ禍で大変ではありますが健全な経営を維持できています」

 会社が危機にある時はワンマン経営で自分が先頭に立って従業員を引っ張らざるを得なかった。だが、記事冒頭で紹介したように、陽平氏はもともと仲間と並走してチーム力を引き出す能力に長けた経営者である。ワンマン経営の限界を感じたのは、社長就任から10年ほど経った頃のことだ。気付きを与えてくれたのは、たまたまテレビで見た夏の甲子園大会だという。

 「強制されなくても選手は命がけでバットを振ってボールを追うし、応援も命がけ。アルバイトでそこまで真剣にやる高校生はなかなかいないのに、この違いはなんだろうなと。そこで、誰から言われるわけでもなく夢中になれる理由は、環境やルールがしっかりしているからじゃないかと思ったんです。日本では少年野球から一貫して盛り上げる環境があって、高校で予選を勝ち抜いて最後は優勝するという分かりやすい目標設定の環境がある。

 そこまではいかなくても、会社の中に明確な目標を設定して、玉寿司としてこうしたら得点でこうしたら失点というのをしっかり定義していこうと決めました。得点はつまり、お客様からの『ありがとう』を勝ち取ること。そのために磨かなくてはいけない力を定義して数値化しました。たとえば掃除ひとつにしても、厨房、客席、カウンターなど78個の項目を作って、高得点の店舗はインセンティブや年間表彰の対象にしました」

 意識しているのは、会社からの評価に関して、曖昧さやグレーゾーンを極力減らすこと。従業員の納得感を増すことで、モチベーション向上を図っていると語る。

 「先代を反面教師にしているわけではなく、1人で突っ走るのが怖いんです。良かれと思っても判断を間違えることはあるので、必ず周囲に意見を求めるようにしています。すると良いアイデアが出てくるし、情報も入ってくるのでありがたいなと。一貫しているのは良いお店を作ってお客様に幸せを感じてもらえる店づくりをすることで、そこはずっとブレていません」

中野里陽平社長が後継者に望むこと

 「オール4の男」と陽平氏は自身を称する。バランス感覚を重視し目立つこともしないが、「玉寿司らしさ」を追求した店づくりを大切にしていると話す。

 その一方で力を入れているのが寿司職人の育成だ。2017年には「玉寿司大学」を開校し、調理、接客、人間力を磨くカリキュラムを通じて、次世代の人材輩出を目指しているという。

 「寿司の可能性は今でも探っています。寿司職人は大学に行かない子たちがなるものではなく、日本の素晴らしい食文化の担い手になれる機会としてカリキュラムと環境を整えてきました。4つの検定試験に合格すれば板前の称号を得て、そこからさらに一定レベルに達したら店舗マネジメントも学ぶことができます。店長を目指す子たちは損益計算書(PL)の管理なども学びますし、ウチの店長たちはみんなPLを理解しているので、どこに行っても通用する人材です」

 自身の後継者についてはどう考えているのだろうか。候補は既にいるとのことだが、「攻め」と「守り」の順番で行けば、次は攻めの人物になるはず。その点について尋ねるとこんな答えが返ってきた。

 「自分が先代のように口出しせずにいられるのかは悩ましいところですが、楽しんで外食経営をしてくれたら何をやってもいいと思っています。苦労があっても今の私が充実しているのは、やはり好きだからです。先代もお寿司を食べることと商売の両方が好きでしたから」

 リーダーシップの在り方に正解はない。玉寿司の場合も歴代トップが時には前任者のやり方を否定することで生き残ってきた。だが、表現の仕方は変われども「寿司が好き」「商売が好き」「顧客を喜ばせたい」といったベースは変っていない。時代を経てもブレない軸を持つ強さを、この老舗企業の歩みは教えてくれる。