自治体によって仕様がバラバラな障害者手帳をアプリに一元化し、バリアフリー社会の前進に大きく貢献するミライロ社長の垣内俊哉氏。サービスが生まれた背景と垣内氏が目指す未来像について本連載で紹介していく。文=吉田 浩 Photo=幸田 森(雑誌『経済界』2022年7月号より)
歩けないからこそできることがある
創業仲間の民野氏と始めたバリアフリーマップの事業によって、「若さはハンデではなく価値になる」と垣内氏は自信を深めた。一般的にはハンデと見られている自らの障害も、見方を変えれば価値になるはず。そうした思考の基盤は、アルバイト先での経験によっても培われた。
大学入学後、車椅子でも働ける会社を探して、とあるウェブ制作会社に採用されることになった垣内氏。そこで想定外の出来事に直面する。てっきり内勤でPCを扱う仕事に就くものと思っていたところ、出社初日に社長から「営業をやれ」と命じられたのだ。車椅子で外回り営業なんてできるのか――戸惑ったものの、やれと言われればやるしかない。会社のパンフレットを持って、飛び込み営業に出ることになった。
訪問先は、バリアフリーが整備されていない会社も多い。そのため、営業件数には制限があったが、だからこそ良かったのではないかと垣内氏は話す。
「他の営業マンが40~50件訪問できるとしたら、私はせいぜい10件。訪問先をえり好みしていたら行くところがなくなるので、限られた企業にとにかく足しげく通うしかなかったんです。気が付けば名前と会社名を覚えてもらって、なかなか心を開いてくれない顧客にも、結果的に受け入れられたのは有難かったですね」
車いすの営業マンが訪問してくることに対して、好奇の目で見る顧客はそれほど多くなかったとも話す。
「大阪はもともとバリアフリーが進んでいる街ですし、障害を理由に煙たがられることもないし、かわいそうだから仕事をあげるなんてことも当然ありませんでした。フラットな視点で向き合っていただきました」
垣内氏いわく、「自分の型を持たず、完全に人に合わせる営業スタイルだった」とのこと。
幼少のころから、病室で機嫌の良い看護師を見極めてから何かをお願いするなど、大人の都合に合わせてコミュニケーションをとってきた賜物ではないかという。そんな対人スキルも奏功したのか、数カ月後には見事ナンバーワンの成績を獲得する。その時に雇用主の社長が垣内氏にかけた言葉が、今でも心に残っている。
「歩けないことに胸を張れ。実際にお前は結果を残しているじゃないか」
最初は「歩きたい」と願い、次に「歩けなくてもできることをしたい」と考え、そしてたどり着いたのが「歩けないからこそできることがある」という考え方だった。この思考こそが、後のミライロの経営理念へとつながっていく。
障害を「武器にする」と「価値に変える」の違い
混同されやすいが、「障害を価値に変える」とは「障害を武器にする」ということではない。その違いについて、垣内氏はこんなふうに語る。
「仮に営業に来た人間が障害者だったとしても、売っている商品やサービスの価値には何ら関係がありません。障害を武器にするという考えの下では、『障害者が困っているからこうしてほしい』という方向に行きがちで、その結果他の誰かに無理をさせるかもしれない。そうではなく、顧客がロジカルに判断できる数字やエビデンスを用意して、あくまでも『障害を価値に変える』ことにフォーカスするのが重要です」
歩けないよりは歩けたほうがいい。しかし、営業をする上で歩けないことがしっかりと価値になり結果が出た。障害にはマイナス面もあるが、必ず価値として輝くタイミングがある。それを実際に経験し、実感できたことが何よりの収穫だった。
物事に対する用意周到さも、車いすユーザーであったことで生まれた価値の1つだ。駅のエレベーターの場所を事前に把握しておくなど想定される困難に対して準備しておく人生を歩んできたがゆえに、常に頭を使う癖が身についた。起業したてのころ相談したある経営者からは「経営で直面するいろんな困難も準備をして乗り越えられるだろうから、君は絶対に失敗しない」と太鼓判を押された。
「『たられば』の話になってしまいますが、少なくとも言えるのは、自分が車いすユーザーでなかったら仲間と意気投合して事業を始めることはなかったということです」と垣内氏は語る。
地道な営業活動が今日へとつながる
ミライロの事業に話を戻そう。バリアフリーマップの受注が増えていく中、顧客が実際に障害者のための環境整備を行うには、施設の老朽化や予算不足が理由で困難なケースも多い。そこで「ハードは変えられなくてもハートは変えられる」をコンセプトに2013年にスタートさせたのがユニバーサルマナー検定だ。ホテルや結婚式場、レジャー施設などの民間企業や自治体、教育機関のほか、一般向けにも開催されている、障害者や高齢者に対するマインドや行動を習得するための検定である。
折しも東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定し、バリアフリーへの関心がさらに高まった時期でもあった。垣内氏は大阪から東京に出向いて、あらゆる企業を営業して回った。学生時代のアルバイト同様、訪問できる企業も限られる中での地道な活動だった。
「最初は一人でアポ取りから始めて、ほとんどの企業には営業に行きました。若かったからできた部分があると思いますが、大阪から東京に夜行バスで来て漫画喫茶に泊まったり、駒込に借りたワンルームのアパートに従業員7~8人が泊まったりすることもありました(笑)。当時は仲間たちで『あれができた、これができた』と達成感を分かち合うのが楽しかったんです」
後に大阪市高速電気軌道、西武鉄道、住友林業、東京海上日動火災保険、ヤマトホールディングスを含む10社から3億円もの出資を受けることができたのは、この時の地道な営業活動によって築いてきた信頼関係が大きい。
「最先端のベンチャーのようなスマートさはないけれど、泥臭いことをずっとやってきました。そこに共感してくれている人が多かったのかなとも思います」(次号へ続く)