3月31日まで、大手医療機器メーカー・テルモで社長を務めた佐藤慎次郎氏は、産業の衰退や不正会計事件と、自身ではどうにもできない事情に翻弄されながらキャリアを築いてきた。不確実な時代にどう生きるべきか。ヒントを聞いた。文=和田一樹 Photo=山内信也(雑誌『経済界』2024年6月号巻頭特集「会社の選び方」より)
佐藤慎次郎 テルモ顧問のプロフィール
本能で危機を察知“とりあえず”退職
―― 佐藤さんは2004年にテルモに入社し、17年から社長を務めました。キャリアの最初は東亜燃料工業(現・ENEOS)です。
佐藤 僕は人当たりも良くないし人間関係も器用じゃなくて、サラリーマンは駄目だろうなと勝手に思っていました。結果的に、1984年に東亜燃料工業(東燃)に入社したのですが、何というか、東燃は半分会社のようで会社じゃない雰囲気がありました。というのも、外資石油メジャー企業の精製石油部門でしたから、のんびりしていてゆとりのある会社と言われていたのです。
―― 新入社員としてどのような仕事をしていたのでしょうか。
佐藤 管理部門で入社したので、ジョブローテーションで経理財務や経営企画を転々としていくはずでした。ところが、1年目の最終日である3月31日、突然上司に呼ばれて「アメリカのビジネススクールに行ってこい」と告げられました。当時、そもそもビジネススクールが何かを知らなくて。しかも僕は英語が特別堪能だったわけではないので、これは大変なことだと思い必死で勉強しました。結局2年目の秋に試験を受けて、3年目からMBA留学がスタートしたのです。
―― 留学から帰国したのが88年です。この時はまだ転職は考えていなかったのでしょうか。
佐藤 帰国したら日本はバブルに突入していて、東燃も調子が良かったので転職は全く考えていませんでした。当然のごとく、終身雇用が当たり前の時代でしたし、僕もそういう覚悟で働いていました。
ただ、日本経済と同じく石油業界も90年代に突入して雲行きが怪しくなっていきます。90年代の途中に米国のモービル本社に2年ほど出向させてもらったのですが、99年のエクソンとモービルの合併前夜で、モービルは極端にリストラクチャリングに舵を切った時期でした。古き良き石油メジャーの雰囲気は残しつつも、本能的にこれは大変な事が起こりつつあるなと感じました。結局、僕は98年の秋に衝動的に会社を辞めました。もう30代後半でしたから、それ以上いたら手遅れになると、本能的に感じたのです。
―― 終身雇用が当たり前の時代に転職のロールモデルはありましたか。
佐藤 全くありませんでした。そもそも転職の準備もしないまま辞めちゃったのです。有名な転職支援の会社にいって「辞めてから会社を探すのは本末転倒だ、全く準備がなっていない」ってえらい叱られたりして。今思えば転職の素人もいいところで、無謀にも辞めたっていう、最もいけないケースの一つだと思います(笑)。―― 次の会社は朝日アーサー・アンダーセン(現・PwC Japanグループ)でした。どうしてコンサル業界に決めたのですか。
佐藤 バブル崩壊後の一番厳しい時期で、転職先はほとんどありませんでした。大半は外資系企業で、他はコンサルティング業界です。コンサルティング業界でも、30代後半は遅いと言われた時期でした。たまたま朝日アーサー・アンダーセン(アンダーセン)は拡大期にあって、エネルギー業界の経験がある人材を求めていたので、そこで運よく僕が採用されました。
―― 30代後半、未経験の業界に飛び込む心境はどうでしたか。
佐藤 これが実にのんきというか、入る前は深刻に考えていなかったのです。初日に「これはまずい」と気が付きました(笑)。当時のアンダーセンは拡張期だったこともあって、やや自由な組織風土でした。どんどん人が増えて、いろんな人がごった煮になり、研修とかはなくて各自で自立してやっていく。僕も見よう見まねで必死に食らいつきました。
不正会計問題で会社消滅。翻弄される中でキャリアを再考
―― そこから数年して、アンダーセンは米国本社がエンロン不正会計事件に巻き込まれていきました。
佐藤 2000年10月、新聞に小さくエンロンでおかしなことが起きているという記事が出ました。そこからあれよあれよと問題が大きくなって、12月くらいにアンダーセンに飛び火しました。僕は1月後半ぐらいに仕事で米国に行く機会があって、会う人会う人に同情されたのです。これは大変なことになっていると思ったら3月に解散命令が出て、会社がなくなってしまいました。
―― その後、佐藤さんの部隊はKPMGと合同したそうですが、04年6月にテルモに転じていく経緯は何だったのですか。
佐藤 あの頃、コンサルによる業務改革の主戦場はIT系で、事業の戦略を考えるとか、ポートフォリオを構築し直すとか、自分の経験を生かせる領域は活躍の場が限られていました。加えて、遅れてコンサル業界に入ったこともあって、自分で身を立てていけるほどネットワークもスキルもなかったのです。そこで、これはキャリアを考え直さないといけないということで、腹をくくったのが04年でした。
―― 40代の転職活動はどのように進めたのでしょうか。
佐藤 基本的にはそれまで仕事を通じてできた人のつながりを頼りました。テルモは、たまたま先に転職していた人がいて、その人に声をかけてもらったのです。それまで僕が勤めたのは外資系ばかりで、親会社の意向に日本法人が翻弄される事を嫌というほど味わってきました。また、最初の東燃では成熟産業の悲哀を見せつけられました。だから日系の成長産業に行ってみたい気持ちがあったのです。そして、メーカーならば自分の強みが生きると考えた。これらの理由の掛け合わせで決めました。
―― それでも44歳の転職は苦労も多かったはずです。いざ入社してみてどうでしたか。
佐藤 テルモに至るまで混沌とした組織にいることが多く、生意気で言うことを聞かない部下が当たり前にいる中で仕事をしてきましたから、そういう意味ではみんな落ち着いていてジェントルマンだし優しい人が多い。文化としてはほっとしました。ただ、ちょっと牧歌的なところもあって、僕を採用したのはいいけどどうやって使うかは決めていなかった。最初の5年間ぐらいは大きな仕事の機会に恵まれなかったのも事実です。悶々とする期間もありました。
―― そこからどうして社長就任へとつながっていったのでしょうか。
佐藤 10年に経営企画室長になったのが転機です。入社して6年目でしたが、業界のこと、テルモの仕事が分かるようになって、社内に知っている人、僕を知ってくれている人も増えて、だんだん雰囲気が変わってきた時期でした。テルモにとって中枢の仕事で、大きな仕事を頂いたと感じたのを覚えています。
会社のくくりは点線でしかない、社外の縁も大事にする
―― その後、17年からテルモの社長を務めました。外的な事情に翻弄されたキャリアですが、成功の要因は何だったと振り返りますか。
佐藤 テルモに来た時、ヘルスケア業界、医療機器に関する知見はほとんどありませんでした。多くの人にとっては無謀な選択に見えたかもしれません。ただ、考えようによっては、業界のことをよく知らないからしがらみがなく、自由に物事を考えられる。外部の視点がある。そう捉えることもできます。これは誰もが転職する際には必ずついて回ることです。一旦そこで白紙になるわけだから、それをちゃんと時間をかけて、もう1回キャリアを築き上げていく努力と、一方で自分の持ち味とか差別性を発揮していくこと。両方やっていくことが成功への秘訣じゃないかなと思います。
あとは自分を磨くこと。捨てる神あれば拾う神ありと言いますが、転職活動をしてオープンな市場で拾う神と巡り合うことを期待するだけではちょっと弱いので、常にあなたが欲しいと思ってもらえるように仕事に打ち込むことです。昔は自分のいる会社だけが全てで、外は全く別の世界だと思っていました。でも、僕のイメージでは会社のくくりっていうのは点線でしかなくて、地続きの世界が外に続いている。一緒に仕事をする人はたまたま外の人であるけどパートナーでもある。そういう気持ちでパートナーとして振舞っていくことが、個人としての価値を高めていくことにつながるはずです。外のネットワークを大事にしておくと、今のような不確実な時代には、最後にどこかで帳尻が合うんじゃないかなと思います。
―― 3月31日で社長業を終えられました。ここからどういう人生を描いているのでしょうか。
佐藤 また大きな会社の社長をやろうとか大それたことは考えていません。これまでの上り坂の時代と違って、登った後の姿としてどういう過ごし方がいいのか、急速に考えているところです。きっと一度もキャリアチェンジを経験していなかったら、テルモから頭が離れなくて今どうしていいのか分からなかったかもしれないです(笑)。自由に次のキャリアを発想できるっていうのは意外と晴れ晴れした気持ちです。