キッコーマンの誕生は1917年。以来一貫して品質第一のしょうゆをつくり続け、今では国内シェアの4分の1を占めるガリバー企業となった。しかし巨艦であればあるほど、新しいことを始めることは難しい。イノベーションも起きにくい。このジレンマをどう乗り切ってきたのか。茂木友三郎名誉会長に聞いた。文=関 慎夫 Photo=横溝 敦(雑誌『経済界』2024年12月号巻頭特集「老舗とイノベーション」より)
茂木友三郎 キッコーマン名誉会長のプロフィール
17条からなる家憲はあれど意識はしない
―― キッコーマンは1917年に野田と流山の醸造家8家が一緒になって、現在の形になりました(当初の社名は野田醤油)。8家にはそれぞれ家憲がありましたが、一緒になるにあたり、17条からなる新たな家憲を制定しています。それを守っていたからこそ、100年以上にわたり成長を続けてきたと思うのですが、墨守しすぎると新たな成長の芽を摘むことになりかねません。そのバランスをどう取ってきたのですか。
茂木 17条の家憲というのは、会社とは関係なく、一族で定めたものですね。企業合併というと、普通2社が1社に、多くても3社が1社になるぐらいのものです。そして多くは軸になる会社があり、軸となる会社の風土が残ることが多い。一方、対等合併なら、それぞれの歴史や企業文化がぶつかることもあるかもしれません。ところがキッコーマンの場合、8家が一緒になっています。これだけ多いと中心になる会社もないため、まったく新しい会社をつくることに等しいわけです。ですから以前の歴史をひきずるのではなく、まったく新しい歴史をみんなで築いていこうと、当時の人たちは考えたようです。つまり過去よりも先を見ようという気持ちが強かった。
そのため新会社設立にあたり会社合併の「訓示」をつくっていますが、新しいことにチャレンジしようという意欲が強く出た。それがキッコーマンの歴史をつくってきたように思います。例えば合併直後には近代的な工場を建設しています。それぞれの家に工場はあったのですが、合併のメリットを出すため、大きな投資を決断しています。この意識は今日まで引き継がれています。
私自身、若い頃から家憲のことなどあまり意識してきませんでした。これは社員も同じだと思います。社員全員で朗読するということもありませんでしたし。
―― では、これだけは守らなければならないと意識してきたことはありますか。
茂木 まずは「品質」です。そしてもう一つは「真面目さ」です。キッコーマンのしょうゆづくりの歴史は1600年代に始まります。以来350年以上が経ちましたが、これだけの年月、世の中に存在できてきたのは、真面目に経営してきたからだと思います。お客さまのために誠心誠意、商品をつくり、届けることの重要性を先輩が後輩に口酸っぱく教える。これが企業文化として続いてきたからこそ、350年以上の歴史を刻むことができたのです。
―― 茂木さんは、歴史の重みを感じることはありましたか。それともあまり気にならなかった?
茂木 私は学生時代はしょうゆに対してあまり関心がありませんでした。というよりむしろ若干馬鹿にしていた。
大学卒業後、キッコーマンに入社しますが、すぐにコロンビア大学のビジネススクールへMBAを取得するために留学します。この時、しょうゆから離れるチャンスになるという期待もありました。ところが留学生とはいえキッコーマンの社員ですから、スーパーの店頭などでアメリカ市民に対してしょうゆのデモンストレーションのアルバイトをやりました。この経験がしょうゆに対する認識を大きく変えることになりました。それまで若干馬鹿にしていたしょうゆが、世界で通用する調味料であることに気付いたのです。世界のどんな料理にもしょうゆは使える。当時、われわれは「オールパーパス」という言葉を使っていましたが、これは面白い、と思いました。というより、しょうゆを国際化する仕事をぜひやりたい。そう考えるようになったのです。
3度目の正直で実現した米国しょうゆ工場建設
―― キッコーマンは1957年から本格的に海外に進出していますが、73年にはウィスコンシン州に工場を建設、生産を開始しました。主導したのは茂木さんでした。でも当時はまだ日本の人口は減っていないし市場も縮小していません。なぜそんなリスクを冒さなければならなかったのですか。
茂木 縮小はしていなかったかもしれませんが、国内販売は頭打ち、成長のためには海外販売を増やすしかありませんでした。ただリスクがあったことは事実です。当時の資本金は36億円でしたが、それを超える規模の投資が必要でした。それでも言い出したからにはやるしかないと考え、工場建設を取締役会に提案しましたが、先輩たちにしてみれば、若僧が何を言っている、という思いが強かったと思います。今となっては私もその気持ちはよく分かります。ですから、最初は承認されませんでした。結局、取締役会では2度否決され、3度目でようやく承認してもらいました。
―― どうやって取締役会を納得させたのですか。
茂木 一つには銀行の支援をとりつけたことです。最初は銀行に相談しなかったのですが、取締役の中に相談したほうがいいという方がいた。それで話を持っていったのですが、銀行にしても判断できないわけです。そこで言ってきたのが、融資するにしてももっと安全策を取ってほしいということでした。生産能力5万石(1石=180リットル)の工場を計画していたのですが、これを4万石にできないかと提案してきたのです。でもしょうゆは装置産業ですから、5万石でも4万石でも投資額はそれほど変わりません。それを説明したところ銀行も理解してくれて、その承認を持って取締役会に改めて提案したところ、ようやくOKが出ました。
―― 米国生産を軌道に乗せる自信はあったのですか。
茂木 大変なのは分かっていましたが、留学時代の経験もあって、いけるだろうとは思っていました。でも最初の2年間は赤字です。3年目でようやく単年度黒字になり、4年目はそれが大きな黒字となり、5年目で累損を解消しました。この時はさすがにほっとしましたね。
今ではキッコーマンの売上高のうち、海外比率は77%です。利益に至っては海外が89%です。もしあの決断がなかったら、今は大変なことになっていたと思います。
国内営業の体質を変えるための荒療治
―― 米国工場の成功は、茂木さんに何をもたらしたのでしょう。
茂木 チャレンジの大切さです。工場建設も含めて、私はずっと海外事業を担当してきました。ところが専務時代の90年頃に国内営業を担当することになったのです。それまで国内に関わったことはなかったのですが、せっかくの機会なので海外を担当したまま国内も見ることになりました。
ところが海外と国内ではまったく社風が違っていた。海外営業は市場をゼロからつくり上げたこともあって、非常に積極的です。ところが国内は、ものすごく慎重です。キッコーマンのしょうゆは売り上げは伸びていないけれど、ずっと国内シェア1位でした。だからなのかアグレッシブさがなく、社員はとてもおっとりしている。これは問題だと考えました。この社風を変えるにはどうするかと考えたところ、しょうゆ以外の新商品を出して新しいことにチャレンジするしかない、という結論に達しました。
そこで専務時代から、「つゆ」や「たれ」の商品を出すべきだ、と言っていたのですが、国内営業は反対です。ある意味それは当然です。つゆやたれをつくるメーカーは、キッコーマンからしょうゆを仕入れてくれています。そのメーカーの競合製品を自らつくったら、反発されることは目に見えています。
―― どうやって社内の反対勢力を説得したのですか。
茂木 専務時代も取締役会で提案していましたが、反対が多く承認されることはありませんでした。でも95年に社長になると、すぐに社長命令でつゆとたれの商品化を決断、誰が反対しても絶対にやるという思いでした。その結果、取引を打ち切ってきた会社もありました。一度、その会社のトップと知人の結婚式で一緒になったのですが、相手は一切、顔を見ようとはしませんでした。
当社の担当者も大変だったと思います。でもこの決断は絶対に間違っていなかったと思います。しょうゆが伸び悩んでいるから、それ以外の新商品を出して売り上げを増やすという意味合いもありますが、それ以上に国内営業にアグレッシブさを持ってほしいという気持ちのほうが強かった。
さらに2000年代に入ってから、簡単におかずをつくることのできる「うちのごはん」シリーズを販売しました。これもキッコーマンにとっては初のチャレンジです。こうした、今までにない商品は、競争も激しい。従来の延長線上にはない仕事です。それが社員のチャレンジしようという気持ちを育てます。組織も人間も、新しいものにチャレンジすることで生き生きとしてくる。国内営業も以前に比べれば、ずいぶん活性化したのではないでしょうか。これをもっともっと広げていってほしいというのが私の願いです。